天上の月影

勅命のほかに領解なし

幸西の聖道門観(10)

2016年10月19日 | 小論文

         七

 つぎに「頓教に二つ有り。聖頓と凡頓となり」とある。聖頓・凡頓という名目が幸西独自のものであることは既に述べた。聖頓の聖については「聖とは十聖」といっている。「十聖」とは無漏智を開いて真如法性の理を一分さとった初地から十地にいたる、いわゆる地上の菩薩のことである。頓とは前に述べた前に述べた真言・達磨・天台・花厳の即身頓証の教えである。それらが聖道門であることはいうまでもない。つまり「仏道に八万四千の門有り」とし、「亦た二と為す」として「声聞蔵と菩薩蔵となり」といい、また「菩薩蔵に二つ有り。漸教と頓教なり」としたうえで、「頓教に二つ有り。聖頓と凡頓となり」といった、聖頓までが聖道門なのである。それを『浄土法門源流章』には「聖道の諸教は是れ為聖の教」といい、「聖道の諸教は皆な聖人に被らしむ。此の穢土に於て聖果を証獲す」といっている。またそこに引かれる『称仏記』には「直に仏果を願ふて即得するを如来蔵を名づく。頓教一乗は是れ即ち為聖の教なり」といっている(1)。すなわち聖道門とは聖者の為の教えであり、内実をいえば「此の穢土に於て聖果を証獲す」る教えであり、「直に仏果を願ふて即得する」教えであるということである。その穢土において直ちに仏果を即得する教えのことを聖頓というのである。しかしそれは聖者の為の教え、為聖の教であるとするのである。逆にいえば凡夫の仏道ではないということである。実際、法然はそれらを「理はふかく、解はあさし。かるがゆえに末代の行者、その証をうるに、きはめてかたし」といっていた。『和語灯録』「浄土宗略抄」にも「たゞしこれらはみな、このごろのわれらが身にたえたる事にあらず」といい、「たゞ聖道門は聞とをくしてさとりがたく、まどひやすくしてわが分におもひよらぬみち也」といっている(2)。『西方指南抄』「法然聖人御説法事」に「かの諸宗はいまのときにおいて機と教と相応せず、教はふかし機はあさし、教はひろくして機はせばきがゆへなり(3)」といっているように、機と教が相応しないのである。それは機が凡夫であるからである。聖者であれば相応する。そこで聖頓という名目を出すことによって、聖道門の教えは聖者の為に説かれた教えであることを示すのである。ここに一つ、幸西の聖道門観がうかがわれる。

(1)『浄土法門源流章』(『浄土宗全書』一五・五九二頁)
(2)『和語灯録』巻二「浄土宗略抄」(『真宗聖教全書』四・六○九~六一○頁)
(3)『西方指南抄』巻上本(『真宗聖教全書』四・五七頁)

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 幸西の聖道門観(9) | トップ | 幸西の聖道門観(11) »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。