天上の月影

勅命のほかに領解なし

行空上人の法然門下における地位(4)

2017年07月12日 | 小論文

 前節で触れたように『三長記』のなかには法然門下として行空、安楽、幸西、住蓮の四人の名が出てくる。それ以外の名はない。そして幸西と住蓮が一ヶ所だけであるのに対して、行空と安楽は四ヶ所に出てくる。それは興福寺から見て、とくに目立った存在であったからであろう。活発な伝道ぶりが推測される。そこで行空の法然門下における地位がおおよそ知られるが、いま一度確認しておこう。

 いったい法然門下は何人いたのであろうか。建久九年(一一九八)四月八日の「没後起請文」に「西より来り東より来り法門を問う有り、西に去り東に去て行方を知らず、朝に来り暮に往く人甚だ多し(1)」とあり、その多さを示しているが、具体的な人数の目安となるのは元久元年(一二○四)十一月七日付の「七箇条制誡」連署名である。冒頭に「普く予が門人と号する念仏の上人に告ぐ(2)」と書き出されているからである。そこに百九十名もしくは二百余名の署名がなされている。しかしそれで法然門下の全体を網羅しているとは考えられない。「七箇条制誡」に署名したのはそのとき洛中あるいは近辺にいた門弟であって、たとえば弁長はその年の七月に郷里の九州に帰っているので署名していない。正信房湛空(一一七六~一二五三)の名も見えないが、望月信亨氏は「蓋し不在の為なりしならん(3)」といわれている。またその後の門人もあったであろう。そうすると実際にはもっと多くの門弟がいたはずである。

 そこでどこまで史実かどうかわからないが、親鸞の曾孫・覚如(一二七○~一三五一)の『御伝鈔』「信行両座」には「常随(じょうずい)昵近(じっきん)の緇徒(しと)その数あり、すべて三百八十余人と云々(4)」とある。また覚如は『口伝鈔』第一条にも「三百八十余人の御門侶のなかに(5)」といっている。覚如にとって法然門下は「三百八十余人」というのが定数であったようである。確認のしようがないので、いまはいちおうそれにしたがっておくことにする。

(1)『漢語灯録』巻一○「没後起請文」(『真宗聖教全書』四・五三三頁)
(2)「七箇条制誡」(石井教道氏編『昭和新修法然上人全集』七八七頁)、『真宗聖教全書』四・一五三頁)
(3)望月信亨氏『浄土教之研究』(仏書研究会、一九一四年)所収の「嵯峨の正信房湛空」七九○頁。
(4)覚如『御伝鈔』上・第六段「信行両座」(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』一○四八頁)
(5)覚如『口伝鈔』第一条(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八七三頁)

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