天上の月影

勅命のほかに領解なし

阿波の介

2017年08月09日 | 水月随想

 良忠上人の『徹選択鈔』上には、あるとき弁長上人が法然聖人から智者の称名と愚者の称名に功徳の勝劣があるかと問われ、本当はわかっていたが、あえて愚者の念仏がどうして上人(=法然)の念仏に等しいであろうと答えたところ、法然聖人は「あの阿波の介が念仏も源空が念仏も只だ同じ事也」と弾じたといいます(『浄土宗全書』七・一一三~一一四頁)。自身がほめられたことならともかく、叱られたことまで伝えているのは興味深いです。弁長上人の真摯さがうかがわれます。同じく良忠上人の『決答授手印疑問鈔』巻上には「阿波の介とは陰陽師なり。上人(=法然)に志し深くして独り僧徒の中に交わり常に御前に候せし人なり」(『同』一○・三四頁)といっています。阿波の介は元・陰陽師で、法然聖人に帰依し、他の僧と交じって常に聖人の御前にいたという人ということです。関通の『一枚起請文梗概聞書』には「彼の阿波介は極めて性鈍に、其の心愚かなるもの也」(『同』九・二一四頁)とあります。その愚者である阿波の介が称える念仏と智者が称える念仏を表面的に比較をすれば、どうしても見た目が先に立って、愚者の念仏のほうが劣っているように思います。けれども、念仏は阿弥陀さまが平等の慈悲に催されて衆生往生の行として選択された行法です。誰がいつどこで称えようと変わりはありません。念仏に違いはないのです。弁長上人が本当はわかっていたが、というのはそのことです。法然聖人は常々それを語っていたのでしょう。けれども、信心が同じだとまでは語っていなかったのです。そこで親鸞聖人が思索をめぐらし、「善信(=親鸞聖人)が信心も聖人(=法然聖人)の御信心も一つなり」と発言し、有名な信心一異の諍論となったのでした。

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