天上の月影

勅命のほかに領解なし

高野堂「行空上人の墓」について(6)

2017年04月06日 | 未発表論文

      三、待宵小侍従説話

 高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」の解説版には待宵小侍従の帰依と高野山本覚院の建立のことが記されている。両者は密接に関わりあうのであるが、まず待宵小侍従のことから述べよう。大阪府島本町桜井にその墓と顕彰碑が建っていて、解説版には次のように記されている。

    待宵小侍従
    
平安末期~鎌倉初期の女流歌人(一一二○~一二○一)
父は石清水八幡宮二五代別当大僧都光清で、母は花園左大臣家女房小大進です。三九歳のころ夫の藤原伊実(太政大臣 藤原伊通の子)と死別し、のちに二条天皇に仕えました。天皇の崩御後、同皇后藤原多子に仕え太皇太后小侍従として、しばしば歌合せに出席するなど、一流の女流歌人として歌壇に確かな地位を占めるようになりました。
   
      待つ宵の ふけ行く鐘の こゑきけば
                あかぬ別れの 鳥はものかは
    
これは、彼女の呼び名のもととなった「待宵の歌」で、訪い来ぬ人を待ち明かす苦しみを詠んだもので『新古今和歌集』にも収められています。
『平家物語』巻五の月見の段によると、大宮(多子)から「待宵、帰る朝、何れかは哀れはまさる『待宵・恋人の来るのを待っている夕べと、帰る明日・恋人の帰ってゆく朝とではどちらが情趣深いだろうか』」との問いに答えて詠み、このことより彼女を「待宵」と呼ぶようになったといわれています。晩年は出家して桜井に真如院(応仁の乱の兵火により廃絶)を開基、隠棲したと伝えられます。
後に能因法師、伊勢と共に東摂の三歌人と呼ばれました。

これによれば、待宵小侍従は二条天皇(一一四三~一一六五)や藤原多子(まさるこ)(一一四○~一二○二)に仕え、一流の女流歌人として生きて、晩年、大阪府島本町の桜井に隠棲したとされている。おそらくそこで没したのであろう。その没年を「一二○一年」と記されていることが注意される。

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