天上の月影

勅命のほかに領解なし

天台の常寂光土(12)

2016年11月11日 | 法本房行空上人試考

というのは、つづいて次のようにいっているからである。

若し分に常寂光土を明さば、下の寂滅忍は十地にして二生在ること有り。中の寂滅忍は等覚地にして一生在ること有る也。或ひは云く、円教の初住に分に無明を破し仏性の理を見て亦た分に生ずるを得。乃至等覚に皆な分生の義有り。但し無明と変易生死の果報の拘する所有り。故に果報に住すと云ふ也。妙覚は永く尽く。故に一人のみ浄土に居すと言ふ也。前の四十一地は若し果報の土をいはば名けて果報土に生ずと為す。若し分に真寂の理を見るは名けて常寂光土に生ずと為す也(1)。


ここでは常寂光土が「不生不生」の土であることを踏まえたうえで、それを分別して二つの説を述べている。第一説は下の寂滅忍を第十地、中の寂滅忍を等覚とするのである。そのいうところは、第十地の菩薩の居する所を下の常寂光土、等覚の菩薩の居する所を中の常寂光土ということであろう。そうするとそこに言葉はないが、妙覚の仏の居する所は上の常寂光土となる。先に「究竟の常寂は」といっていたのはこれを指している。つまり常寂光土に上・中・下の三種があることを示しているのである。そして第二説は円教の初住以上は分に無明を破して仏性の理を見るから、常寂光土において分生の義があるというのである。ただしこの初住地以上は無明と変易生死の果報であるから果報土に住するともいっている。果報土についてはいまの文の直前に「果報無障礙土の来生を明さば、若し同居土、有余土に於て通惑を断じ尽し無明を侵除する。別教の初地、円教の初住、皆な往生を得。乃至十地也」とある。別教の初地、円教の初住以上の来生する土なのである。ということは常寂光土の分生と果報土の来生の行位は同じになる。その相違点がどこにあるかといえば、円教初住以上は通惑(見思の惑)を断じ尽くしているとはいえ、いまだ塵沙の惑と無明の惑があり、また変易生死を受ける。その果報の点から果報土となるのである。それに対して分に真寂の理を見るという点から常寂光土となるわけである。いわば観点の相違ということになるであろう。ただ果報土は「乃至十地也」といって、等覚を入れていないが、いまの文のなかに「前の四十一地は若し果報の土をいはば名けて果報土に生ずと為す」とあるから、等覚も果報土に生ずる意としなければならない。そうでなければ「四十一位」にならないからである。「四十一位」の「一位」は元品の無明が残っている等覚である。そして「妙覚は永く尽く」といっているのは完全に無明を断じ尽くしたことであって、前の「究竟の常寂は」である。それを第一説に合わせれば、上の常寂光土になり、等覚は中の常寂光土であり、初住以上は下の常寂光土となる。このように常寂光土を三種に分別しているところはほかにもあり、「下品常寂光」「中品常寂光」「上常寂光」といっている(2)。

※果報土について、塵沙の惑、無明の惑がのこり、変易生死を受けるというのは、本文に「但し無明と変易生死の果報の拘する所有り」とあるところから理解したのであるが、方便有余土のことであるかもしれない。再考を要する。

(1)『維摩経文疏』巻一(『大日本続蔵経』一八・四六八頁下)
(2)『維摩経文疏』巻八(『大日本続蔵経』一八・五一八頁上~中)

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