天上の月影

勅命のほかに領解なし

承元(建永)の法難の結末(4)

2017年08月14日 | 小論文

 これに烈しく反論されたのが平雅行氏であった(1)。まず死罪については「伊藤唯真氏の研究を無視した」といわれる。というのは昭和五十四年(一九七四)、滋賀県にある玉桂寺阿弥陀如来立像の胎内から勢観房源智の願文と膨大な数の結縁交名が発見された。願文によれば、建暦二年(一二一二)十二月二十四日に源智が先師・法然の恩徳に報いるために、師の一周忌を期して三尺の弥陀像を造立し、像内に数万名人の姓名を納め、これら衆生の極楽往生を願ったものである。そのなかの「源頼朝等交名」第二紙裏には源智の筆による「法然房源空 真観房感西」らの名前が見える。その時点で彼らはすでに過去者である。伊藤氏は「この過去者の名を挙げているのは、源智自身にそれら先輩僧を弔う気持ちがあってのことであるが、そのような心を誘発したのは、なによりもかれらが源智にとって、忘却できない重要な人物であったからである」といわれる。そして彼らの二行後に「安楽房遵西 住蓮房 善綽房西意 聖願房」の四名の名前が記されているのである(2)。伊藤氏は「この四名こそ、承元の法難で死刑に処せられた人物である」といい、

源智は記憶の生々しいまま、交名に死罪の四人の名を記したのである。『歎異抄』に伝えられた死罪者の名がこの結縁交名によって裏づけられたことになる(3)。

といわれている。これをもって平雅行氏は「こうして『法水分流記』『歎異抄』の四罪四名説が確定した。つまり『愚管抄』が記す安楽・住蓮以外にも、処刑された者がいたのである」といわれるのである。

 もっとも森新之介氏も玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書に注意されているが、「多くの史料が西意と性願房の斬首を伝えていないことは不審である。また『法水分流記』は、西意と性願房は摂津国で佐々木判官に誅され、遵西と住蓮は近江国馬淵で二位法印尊長に誅されたとの別伝を載せており、これらは二つの異なる斬首事件が後に混同されたものとも考えられる(4)」といわれている。しかし『法水分流記』(一三七八年成立)が後の混同であったとしても、玉桂寺の結縁交名は法難のわずか五年後である。混同することはないであろう。伊藤氏がいわれるように「源智は記憶の生々しいまま、交名に死罪の四人の名を記した」と見るのが穏当と思われる。

(1)平雅行氏「専修念仏の弾圧原因をめぐって」(同氏『鎌倉仏教と専修念仏』〈法蔵館、二○一七年、三四二~三四三頁〉)
(2)『玉桂寺阿弥陀如来立像胎内文書調査報告書』(一九八一年)一九一頁。なおこれが源智の筆であることは『同書』八頁に「第二紙の終りから裏面にかけては、源智筆と思われる」といわれている。
(3)伊藤唯真氏「玉桂寺阿弥陀仏造像結縁交名にみる法然教団」(同氏著作集Ⅰ『聖仏教史の研究 上』〈法蔵館、一九九五年、三二三頁〉)。なおそのなかに先の『調査報告書』一九一頁に「善綽房 西意」と二人のように翻刻していることについて、氏は『前掲書』三一九~三二○頁に「善綽房は西意の房号である。訂正したい」と述べられている。
(4)森新之介氏『摂関院政期思想史研究』(思文閣出版、二○一三年)三○六頁。

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