天上の月影

勅命のほかに領解なし

阿弥陀経の無量寿仏

2017年08月10日 | 水月随想

 『阿弥陀経』には鳩摩羅什訳と玄奘訳がありますが、通常、所依として用いられるのは鳩摩羅什訳です。正宗分のはじめには、次のように説かれています。

    そのとき、仏、長老舎利弗に告げたまはく。「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。(『註釈版』一二一頁)

『阿弥陀経』は阿弥陀さまをあらわすのに「阿弥陀」という訳語を用いています。そして、

    舎利弗、なんぢが意においていかん、かの仏をなんのゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も、無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。(『註釈版』一二三~一二四頁)

と光明無量・寿命無量なるがゆえに阿弥陀と号すと説明されています。ところが『大無量寿経』には、

    仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。(『註釈版』二九頁)

等と「無量寿仏」という訳語を用いています。「阿弥陀」の光明無量・寿命無量のなか、「寿命無量」から「無量寿仏」といわれているのです。この『阿弥陀経』の「阿弥陀」と『大無量寿経』の「無量寿仏」が同じ阿弥陀さまを指していることはいうまでもありません。

 何年か前、行信仏教文化研究所の研究発表会の休憩時間のとき、喫煙所におりますと、若い学生さんが「あのう」と質問してきました。自分はいま『阿弥陀経』を勉強しているのだが、六方段における西方の諸仏のなかに「無量寿仏」と出てくる、これは阿弥陀仏と同じか別かという内容でした。素朴に疑問に思ったのでしょう。私はいちおうの答えをし、詳しい研究書として藤田宏達氏の書物を紹介しました。「わかりました」ということで別れましたが、しっかり勉強してほしいと思いました。

 というのは、それよりもっと何年か前、あるお寺の報恩講法要にお参りをし、おつとめが終わったあと、休憩所で他の住職さんたちと雑談していますと、どういう流れだったのか忘れましたが、ある住職さんが先ほどの西方の無量寿仏について、「おかしいやないか」と発言をはじめました。それは、私だけが感じたのかもしれませんが、自分がはじめて発見したような言いぶりでした。しかしこの問題は昔からいわれていることです。厳密に調べたわけではありませんが、親鸞聖人以前にも遡りましょう。そして先哲・先学の議論もあります。にもかかわらず、自分が発見したように発言するのは、勉強していない証拠です。その傍若無人さにあきれました。私たちはお聖教に接して疑問に思ったら、まず先行研究を学ぶべきです。たいていはすでに議論されていることに驚くことがあります。それを踏まえてさらに思索し、自説を展開すべきでしょう。先行研究を無視することはただの独りよがりです。若い学生さんに「しっかり勉強してほしい」と思ったのはそのことです。

 ただし私の行空研究は、先哲・先学が遺してくださった成果を尊い遺産と崇めながら、なお疑問に思い、再考することからはじまっています。

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