天上の月影

勅命のほかに領解なし

行空上人研究の問題点(3)

2017年08月05日 | 法本房行空上人試考

  そうすると、いまの方法論では内藤氏が警鐘を鳴らされているとおりになってしまう。佐藤氏のいわれる「砂上に築く楼閣」であり、花野氏のいわれる「独りよがりの信仰(信念)告白のような論文」である。行空はこのようにいわれているけれども、親鸞が「行空」と記している以上、そうではないという論法であるからである。客観性が欠如している。それでは単なる推測であって立論にならないといわれるであろう。しかしながら、文証を示そうにも資料が少なすぎて示せないのである。またそのわずかな資料もどこまで正確なことを伝えているのかわからない。あるいは何を意味しているのかわからないものもある。前節に述べた行空研究の壁である。そこに立ち止まってしまえば従前どおりで、前に進めない。「義に依って文を捌く」という姿勢になることは充分に承知している。たとえ独りよがりと批判されても前に進もうと思う。先の花野氏の文中に、

識者の批判を覚悟の上で、その時点で、自分があたう限りの資料や文献を駆使して、勇気を出して自分の主体的な「思い」を客観化(論文化)してこそ学者の価値があります。

といわれているのを目にしたからである。この一文が私を突き動かしている。「あたう限りの資料や文献を駆使」しよう。ただそこに生まれる主体的な「思い」は、親鸞の「行空」という記名を鍵としているとはいえ、理証・文証をそろえた立論ではないから、あくまで試論にすぎない。そこで「試考」と題しているのである。

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