天上の月影

勅命のほかに領解なし

高野堂「行空上人の墓」について(25)

2017年04月25日 | 未発表論文

   七、おわりに

 高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」は正面に「高野山講坊先師行空上人」とある。注意したいのは、「開基」ではなく「先師」であることである。和田重雄氏『郷土の史話(一) 貞享版 黒木物語』所収の本覚院の過去帳には「当寺開基行空上人四家(=星野、川崎、黒木、草野家)の帰依によって筑後に下向し」(二○八頁)とある。ここでは「開基」としているが、実のところは高野山本覚院から筑後に下向した「先師」であったのではなかろうか。『本覚院は筑後国を檀家とする由来』には行空の前身を「元来天台宗の人なりしが、真言門に入り秘蔵の奥旨を極めらる」(二一五頁)とある。これは『法華験記』にも『元亨釈書』にも記されていない。創作であるかもしれないが、真言宗の奥旨を極めた高徳であるから、「偶々(たまたま)筑後国に趣く時、忽ち名、四方に轟き渉りて」(二一五頁)となったのであろう。そして大いに活動するなか、江頭 亨氏の言葉でいえば、星野村と黒木町の境界にある高牟礼峠を越して星野に下る途中、縫尾久保という所で急に卒倒して没した。それが天文十六年(一五四七)七月六日であり、その墓が高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」であると思われる。その後、天正十二年(一五八四)九月に黒木氏が没落し、天正十六年(一五八八)に本覚院が罹災したことから、高野聖によって待宵小侍従説話が語られるようになった。そのなかで「先師」であった行空が「開基」として物語を構成したのであろう。『紀伊続風土記』などに「中興を行空上人といふ」とあるのは、高野山にいたときに中興したのかもしれないし、高野聖が語る説話によって中興とされたのかもしれない。いずれにせよ、高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」はこの行空の墓であって、決して法本房としての行空のものではない。行空という名の僧は複数いたのである。その解説版は短い文章のなかで見事に文脈が通っているように見えるが、法本房としての行空の部分は削除しなければならないであろう。

 

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高野堂「行空上人の墓」について(24)

2017年04月24日 | 未発表論文

 ところが『聖方紀州風土記』には、最後に、
  行空上人の命日 天福元年七月六日
  第二世 行阿
  現今  第卅七世
とあるのである。その「現今 第卅七世」とは稲葉宗瑞師のことである。師の代になって急に行空の命日を「天福元年七月六日」とするのである。まったく不可解としかいいようがない。なぜ先代の文永年中を改めたのであろうか。何か資料があればいいのであるが、そのようなものはない。國武久義氏も私信①において「『聖方紀州風土記』の著者は何にもとずいてそう書いたのかについては、全く分かりません」といわれている。天福元年説は「?」とせざるをえないのである。ひそかに思うには、その著者の前に現在の墓標の正面にある「天文十六年/七月六日」と書かれたメモのようなものがあり、それを行空の命日と見て、「天福元年七月六日」と写し間違えたのではなかろうか。もっとも「天文元年」ならともかく、「十六年」を「元年」と間違うことがありえるかどうか疑問であるが、もしそうならケアレスミスとなる。あるいは「天文十六年」を罹災した「天正十六年」と混同して誤りと考え、建久年間(一一九○~一一九八)に開創されたという伝承によって、文永年中(一二六四~一二七四)に没したとすれば年月が経ちすぎるので、共通する「天」から「天福元年(一二三三、翌十一月五日に文歴と改元)」としたのかもしれない。もしそうなら作為的といえる。いずれにせよ、それらは推測である。推測になるのは、わずか一代で変更された天福元年説の根拠が明確でないからである。それでも現在の本覚院は天福元年説と採っているので、否定はできない。ただ『高野山本覚院因由并に筑後国檀縁之由来』『聖方紀州風土記』など、すべての本覚院の伝承のなかに開基の行空が法然門下になった、あるいはのちに法然門下になったということはいわれていないから、法本房としての行空の命日とはいえない。

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高野堂「行空上人の墓」について(23)

2017年04月23日 | 未発表論文

 そして天福元年という年代は、管見の及ぶかぎり、『聖方紀州風土記』を遡れない。和田重雄氏『郷土の史話(一) 貞享版 黒木物語』所収の『本覚院は筑後国を檀家とする由来』には行空の没年を文永年中とし、最後に「第三十六世 堯運述」(二一六頁)とある。また國武久義氏より姫野恭子氏を通じて手許にある『高野山本覚院因由并に筑後国檀縁之由来』(=活字本)のコピーの最後には「明治四十五年一月 第三十六世堯運述」とあり、誰かの「昭和三年九月廿五日登山」等の書き込みがある下に、「和歌山県□□郡高野山本覚院□□(住職?)/稲葉宗瑞」という二行の印が押されていて、その名の上には「現住」、左には「第三十七世代」と書かれている。それが「昭和三年」等の書き込みと同時筆かどうか正確にわからないが、ともかく第三十六世の堯運師は明治四十五年(一九一二)一月には生存されていたことがわかる。そして昭和三年(一九二八)ころには稲葉宗瑞師が第三十七世であったこともわかる。それを踏まえて『聖方紀州風土記』を見ると、「開基行空上人の墓、筑後生葉郡現は八女郡星野村黒木谷にあり。嘉永年□(?)に建立の石塔あり、石の印塔を繞らし現存す。堯運先師十九才 慶応三年冬 墓参 又明治四十四年 六十三才の時の冬参詣す」等とある。堯運師は慶応三年(一八六七)と明治四十四年(一九一一)に行空の墓を訪れているのである。江頭 亨氏が『郷土史物語』一四五頁に「行空上人の墓は五十年毎に高野山本覚院講坊から使僧が出張して供養祭典が行われます。前回は大正元年十月に行われました。私の父が五十四才の時その世話をしました」といわれているが、堯運師の墓参はそれをいうのであろう。ただ『聖方紀州風土記』は堯運師が訪れたのを明治四十四年といい、江頭氏は大正元年(明治四十五年七月三○日に改元)といわれている。これはおそらく『聖方紀州風土記』のほうが誤りと思われる。江頭氏は父が世話をしたといわれるのであるから、確かであろう。そして氏はそのとき「本覚院から行空上人伝のパンフレットを持って来てありました」といわれている。年代的にいうと、それが先ほどの『高野山本覚院因由并に筑後国檀縁之由来』であった可能性がある。「明治四十五年一月 第三十六世堯運述」とあるからである。そこにも行空の没年を「文永年中」と記されている。

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高野堂「行空上人の墓」について(22)

2017年04月22日 | 未発表論文

      六、天福元年九十歳説

 ここに一つ残った難問がある。それは前に触れた行空の命日を天福元年(一二三三)七月六日とすることである。『聖方紀州風土記』→今村和方氏『純忠星野氏』→江頭 亨氏『郷土史物語』という経過を経て、『星野村史 年表編』にも採用されていた。また本覚院自体も文永年中としていたにかかわらず、今日では天福元年説を用いている。高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」に昭和五十九年(一九八四)七百五十二回忌が修されたときの記念碑が建っているが、天福元年から数えたものである。二○一二年四月二十六日に拝見させていただいた本覚院の『当国過去帳』にも赤字で「天福元癸年七月六日寂 西暦一二三三年」の書き込みがあった。文永年中から切り替えたようである。

 それはとくに江頭 亨氏『郷土史物語』の影響であろう。一三八頁にも記されているが、一四五頁には「天福元年七月六日、黒木町と星野村の境界近く、高牟礼峠の下、星野村内縫尾久保という所で、頓死しました。行年九十才と元亨釈書にかいてあります」といわれている。この「行年九十才」については氏自身が示されているように前節で述べた『元亨釈書』、遡れば『法華験記』に記されているが、一宿上人としての行空の没年齢であることはいうまでもない。ただ江頭氏はそれを法本房としての行空と同一視されているので、天福元年に九十歳で没したとすると、天養元年(一一四四)の生まれとなって、法然(一一三三~一二一二)より十一歳年少、親鸞(一一七三~一二六二)より二十九歳年長となる。年代上、無理はないといえよう。そこで氏は一四三頁に「法然上人が八十才で死んだ時、行空上人は六十九才、親鸞上人は三十九才であったのであります」などといい、行空の年齢を示されている。それを承けて花田玄道氏は「法本房行空について」(『仏教論叢』三五、一九九一頁)や『鎮西教学成立の歴史的背景』(大本山善導寺開基八百年慶讃大法要記念出版、一九九六年)六一頁に行空の生没年を「一一四三~一二三三」と明記されている。しかし「九十歳」という年齢が一宿上人としての行空のものである以上、容認するわけにはいかない。

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高野堂「行空上人の墓」について(21)

2017年04月21日 | 未発表論文

 第二に一宿上人としての行空は『法華経』を「日に六部を誦し、夜に六部を誦し、日夜に十二部を誦して」「一生に誦するところの部数は三十余万部なり」とあるように、まったく法華の行者である。本覚院は行空がつねに『法華経』を講じていたので「講坊」と称せられたというから、『法華経』を介して、この一宿上人としての行空と開基としての行空を重ね合わせて伝記を用いたのかもしれない。もともと伝説なのであるから、それはそれでいいであろう。ただ高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」の解説版に法本房としての行空が諸国を巡錫して一宿上人と称せられたというのは問題である。まったく年代が合わない。解説版は十中八九、江頭 亨氏の『郷土史物語』に基づいていると思う。その一三八頁に『元亨釈書』の行空伝を載せ、一四一頁に「元亨釈書に鎮西に歿す、年令九十というのは、前記福岡県八女郡星野村下小野高野の墓の現存することで証明が出来ます」(これについては次節で述べる)といい、一四四頁に承元(建永)の法難のころは「元亨釈書にあるように五畿七道を足にまかせて跋歩(ママ)するという事もなかったと思います」と述べ、一宿上人としての行空と法本房としての行空を同一視されていることは明白である。しかし、前者は法華の行者であり、後者は念仏の行者である。まったく性格を異にしている。前に引用したように氏は一四四頁の所述の直前に「中央に於ける大弾圧(=承元(建永)の法難)をよそに行空上人は黒木にあって念仏宗の布教に余念なかったのであります」といわれている。念仏を勧めつづけていたということである。ところが一宿上人としての行空は生涯に三十余万部も『法華経』を誦していたのである。論述が矛盾しているといわざるをえない。それは両者を同一人物と見るからである。事実は行空という名が同じであっても別人なのである。年代も、行状も、両者は異なるからである。そこでたとえば重松明久氏『日本浄土教成立過程の研究─親鸞の思想とその源流─』(平楽寺書店、一九六四年)巻末の索引に「行空(一宿聖人)」「行空(法本房)」とあるように区別しなければならない。

 

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高野堂「行空上人の墓」について(20)

2017年04月20日 | 未発表論文

これを見れば、『元亨釈書』の行空伝は明らかにこの抄出である。『元亨釈書』が『法華験記』を素材にしていることは、すでに禿氏祐祥氏「元亨釈書の素材と法華験記」(『龍谷学報』三二七、一九四○年)や黒川訓義氏「法華験記と元亨釈書との関係」(『皇学館論叢』一二─六、一九七九年)に指摘されているが、いまもその一つである。したがって一宿上人と称せられた行空は、『法華験記』に記述がある以上、その成立以前の人物といわねばならない。年代を特定できないが、遅くとも一○三○年ころまでに没したと考えられよう。そうすると、本覚院の伝承として行空が建久年間(一一九○~一一九八)に開いたといい、その伝記を『元亨釈書』に求めるのは無理がある。また行空の没年を文永年中(一二六四~一二七四)とするのも同じである。おそらく行空を開基とするにあたって、『法華験記』に記述があることを知らず、行空といえば『元亨釈書』というように伝記を構成したのであろう。

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高野堂「行空上人の墓」について(19)

2017年04月19日 | 未発表論文

 しかしこれについては二点を述べたい。第一にこの伝記はほかに『今昔物語集』巻第十三(『岩波古典文学大系二四 今昔物語集』三・二四一頁)や『三外往生伝』(『岩波思想大系七 往生伝 法華験記』六七四頁)にも記されていることが指摘されている。國武久義氏『「はんや」舞の研究』二○○頁などである。『今昔物語集』は一一二○年代以降、『三外往生伝』は一一三七~一一三九年に成立したと考えられている。しかし、それらよりも『法華験記』巻中にあることに注意しなければならないであろう。天台宗の鎮源(生没年不詳)が長久年間(一○四○~一○四四)に撰述したものである。そこに次のように述べられている。

沙門行空は、世間に一宿の聖と称ふ。法華の持者なり。日に六部を誦し、夜に六部を誦し、日夜に十二部を誦して、更に退き欠くことなし。出家入道して、心を発してより以後、住む所を定めず、猶し一所にして両夜を逕ず。況や庵を結びて住せむや。猶し三衣一鉢を具足せず。況や余の資具をや。身に具するところのものは、法花一部ならくのみ。五畿七道に、行かざる道なく、六十余国に、見ざる国なし。その間、路に迷へば、天童路を示し、渇乏して水を求むれば、神女水を与へたり。もし悩むところあれば、天の薬自らに臻り、もし食に飢うれば、甘き飯前にあり。妙法の力に依りて、賢聖常に現じ、天神身に副ひたり。乃至老後に、鎮西に出でたり。九十に及びて、法華経を誦せり。一生に誦するところの部数は三十余万部なり。終の時に臨みて、普賢摩頂して、文殊守護し、蓮華足を承けて、天衣身に懸け、浄土に往生せり。(『岩波思想大系七 往生伝 法華験記』一三七頁)

 

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高野堂「行空上人の墓」について(18)

2017年04月18日 | 未発表論文

     五、一宿上人のこと

 本覚院は石碑「本覚院累代記」などに行空の伝記を『元亨釈書』によって記している。それは臨済宗の虎関師錬(一二七八~一三四六)が著した日本初の仏教通史で、元亨二年(一三二二)に朝廷に上程された。権威ある書といえよう。その巻十一に次のように述べられている。
 

釈行空。世に一宿上人と称す。居る所、両夜を経ず。故を以て五畿七道行遍せざること無し。身に随えるの資具、三衣猶ほ全からず。况んや其の余をや。只だ法華一部ならくのみ。昼六部を読み、夜又た爾り。行旅の間或ひは道に迷ふ。天童これを示す。渇乏の時天女、水を与ふ。若し病苦すれば天薬自ら至る。供を欠けば甘露現前す。年九十にして鎮西に歿す。臨終、天衣自ら身を纏ふ。蓮華、雙足に承く。普賢文殊降現し摩頂して云はく。生平誦する所、三十余万部。(『国史大系』一四・八二五~八二六頁)

これによれば、行空は一宿上人とも呼ばれ、二夜を重ねず諸国を遍歴し、ただ『法華経』のみを昼夜に六部づつ誦して、生涯三十余万部に達したというのである。そして「年九十にして鎮西に歿す」とあるところから、高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」がその墓と見られ、九十歳という没年齢がいわれるのである。

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高野堂「行空上人の墓」について(17)

2017年04月17日 | 未発表論文

  第四に本覚院が待宵小侍従説話を創建説話としているから尊重しなければならないが、ただそれが伝説であるなら、実際の開基は前に述べた『紀伊続風土記』などにあるように、「開基不詳」いうべきであろう。五来 重氏がいわれるように隔夜聖であったかもしれない。また高野堂「行空上人の墓」の解説版には文永年中(一二六四~一二七四)に遷化されたといわれている。和田重雄氏『郷土の史話(一) 貞享版 黒木物語』所収の『本覚院は筑後国を檀家とする由来』にはその「文永年中」に「一二六五」という右註がある(二一一頁)。本覚院が建久年間(一一九○~一一九八)に開創されたとすれば、約七十年後ということになる。とても同一人物とは考えにくい。江頭 亨氏の天福元年説については後に取り上げるが、本覚院が「文永年中」という年号を出していることは、その文永年中に没した人物が開基であったという推測もできよう。ただしそれが誰であるかはわからない。あるいは先に触れた『筑後志』巻之四(一七七七年〈黒岩玄堂氏校訂、本庄知新堂、一九○七年〉)には「定善が男成実、其男治郎大夫俊実、待宵が為に一院を紀州高野山に建造し、講の坊と号す」(二七八頁)とある。定善というのは黒木四郎定善のことで待宵小侍従が産んだ子とされる。今村和方氏『純忠星野氏』一○○頁の「黒木氏略系」には「黒木四郎貞(ママ)善─成実─俊実」と次第している。つまり黒木氏の子孫が待宵小侍従の供養のためであろう講坊本覚院を建立したというのである。その「黒木四郎貞(ママ)善」には「建久五年生」という註記がある。そうすると孫の俊実あたりに開創され、開基となった人物が文永年中に没したといっても年代的には合うであろう。しかしこのような伝承は他に見られないから、史実かどうかわからない。そこで「開基不詳」といわざるを得ないが、「中興を行空上人といふ」というのは注意すべきではないかと思われる。

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高野堂「行空上人の墓」について(16)

2017年04月16日 | 未発表論文

 第三に待宵小侍従説話は高野聖によって編纂されたといったが、國武久義氏「唱導文学としての『黒木物語』」によれば、本覚院は天正十六年(一五八八)に罹災し、その再建のために彼らが勧進の手段として「語り」を通して寺の縁起を人々に説き、喜捨を願ったのではないかと推測するといわれている。説話の成立はそれでいいであろう。ただ氏が資料としたのは『聖方紀州風土記』である。そこには「天正十六年罹災、稲葉公の再興」とある。石碑「本覚院累代記」にも「第十七世生□天正十六年罹災 豊後臼杵城主稲葉一□(鐵?)□(玉?)建之」と刻まれている。天正十六年に罹災したことは間違いない。それを稲葉一鉄(一五一五~一五八九)が再建したというのである。彼は斉藤道三(一四九四?~一五五六)、織田信長(一五三四~一五八二)、豊臣秀吉(一五三七~一五九八)などに仕えた戦国武将であり、その子孫は徳川時代に豊後国臼杵藩主となった。本覚院はその稲葉一鉄が美濃国にいたころからつながりがあったようである。それを示すのが本覚院に伝わる文書である。平成二○年(二○○八)に大分県立先哲史料館に寄贈され、平成二十八年(二○一六)三月に目録が作成された。その『収蔵史料目録 9』の櫻井成昭氏による「解題」には、寛文五年(一六六五)の臼杵藩家老等からの書状(A1-16-1)に「高野山千手院谷光明院講坊者稲葉代々為檀那之因、先祖一鉄公直判之証文被成置候」とあり、天保二年(一八三一)の「勧進記」(A11-2)に「本覚院者濃州大桑以来御先君由緒深重」とあることによってわかるといわれている。稲葉家は本覚院の大檀越であるから、再建に尽力することは大いにあるであろう。ただ稲葉一鉄の没年月日は天正十六年十一月十六日(新暦では翌年一月五日になるので先に没年を一五八九年とした)であるから、本覚院が天正十六年の何月に罹災したのかわからないので、稲葉一鉄が生存中に再建が完成したかどうか疑問である。稲葉家代々にわたったかもしれない。こうして本覚院は高野聖の勧進とともに稲葉家によって再建されたのであるが、問題は本覚院改称の件である。享保十二年(一七二七)の「稲葉薫通書状」(A1-17-1-1)に「講坊院号当家先祖本覚院法号所望之旨、御存念承届候」とある。そこに「当家先祖本覚院法号」というのは臼杵藩四代藩主・稲葉信通(一六○八~一六七三)のことである。その法号は『臼杵史談』第一巻(歴史図書社、一九七八)の「温故年表録」三二二頁によれば、「本覚院殿前能州刺史一關宗如大居士」である。それに改称することを了承する内容である。『広報うすき』(臼杵市役所、二○○七年五月)「歴史へのいざない⑥」には「臼杵藩四代藩主・稲葉信通の院号使用を許可されて以来、本覚院をその呼称に用いるようになりました」と述べている。しかし、そうすると本覚院改称は享保十二年になる。本覚院は元禄年間(一六八八~一七○三)といっていて、矛盾が生じる。これはおそらく、講坊には待宵小侍従説話がすでにあるから、その法号によって元禄年間に改称したのであろう。ただそれが恩のある稲葉家の信通の法号と同じであったため、享保十二年に改めて許可を得たのであろうと思われる。

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高野堂「行空上人の墓」について(15)

2017年04月15日 | 未発表論文

 第二に伝説とはいえ本覚院は待宵小侍従の願により行空が建立したということを由来として謳っているということである。先に述べた石碑「本覚院累代記」などを見れば明らかである。現在でも本覚院の公式サイトに記されている。また前の和田重雄氏『郷土の史話(一) 貞享版 黒木物語』一二頁には本覚院の過去帳の一部を写真で掲載し、二○八頁に活字化されている。そのなかに「本覚院殿湛然如真善女 (略)助能内室 十一月十八日」という一行がある。待宵小侍従の法号と命日である。ただし年号はない。そして『同書』所収の『本覚院は筑後国を檀家とする由来』には「講坊」について「元禄年中に小侍従の法号により本覚院と改称せり」(二一四頁)とある。元禄年間(一六八八~一七○三)に待宵小侍従の法号「本覚院」によって「講坊」から改称したというのである。石碑「本覚院累代記」には「廿三世□(由?)□(経?)又□(營?)之改名本覚院」と刻まれているが、年月を経ているので正確に読めない。改名の理由を示しているわけでもなさそうである。いづれにせよ、待宵小侍従の法号によって改称するほど、その縁を重視している。そこでたとえ伝説であっても決してないがしろにしてはならないであろう。

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高野堂「行空上人の墓」について(14)

2017年04月14日 | 未発表論文

 しかしこの物語について四点を述べておきたい。第一にまず待宵小侍従説話が伝説であるなら、この物語もまた伝説と見なければならないということである。國武久義氏は私信②において黒木助能や待宵小侍従などと同じくここに登場する行空も架空の人物であると見られている。そして私信①においては「伝説上の人物に歴史上の事実を重ね合わせてはいけないのです」といわれるのである。ところがそれを法本房としての行空と重ね合わせたのが江頭 亨氏の『郷土史物語』であった。行空という名が同じであったからであろう。ただ氏は「事実は官女美人を配した宗教伝説、怨霊思想と加持祈祷を取りまぜた行空上人の伝説とも思われます」(一四一頁)といわれているところもある。それでも行空が講坊を建立したのは建久年間(一一九○~一一九八)とされているが、今村和方氏『純忠星野氏』所収の「紀伊国高野山本覚記録」に「内道場 本尊阿弥陀如来」(一○一頁)とあるのに基づいて、江頭氏は「この時早くも源空の弟子となって、念仏宗に入っております」(一四三頁)といわれている。しかし本尊が阿弥陀如来であるからといって、必ずしも法然門下に入っていたとはいえまい。また法然門下なら、なぜ高野山上に寺院を建立するのであろうか。さらに氏は先に述べたように元久三年(建永元年、一二○六)に筑紫に配流になったといわれるのであるが、巻末の「郷土史物語年表」にはこの年に「黒木助能行空を黒木に迎える」(六○六頁)とされている。そうすると建久年間に講坊を建立することはできない。そしてこのときの助能の妻が待宵小侍従とすれば、その墓と顕彰碑の解説版には一二○一年に没したとあるから、彼女ではありえない。もう一ついえば、行空は八女の山中部に念仏を布教していたとするなら、待宵小侍従に念仏を勧めたはずである。なぜ念仏のことがいわれていないのであろうか。とくに行空がつねに『法華経』を講じていたから講坊と呼ばれたというなら雑行である。法本房としての行空が雑行を修するはずはない。このように種々の不自然な点が出てくるのは、伝説上の人物を歴史上の法本房としての行空に重ねたからである。

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高野堂「行空上人の墓」について(13)

2017年04月13日 | 未発表論文

 それは先の待宵小侍従説話の続きである。ただしすべての文献に記されているわけではない。國武久義氏の私信②に取り上げられた六種の文献では『聖方紀州風土記』と『北肥戦誌』と『筑後志』である。『筑後志』は後に譲り、『北肥戦誌』は巻之廿四に「されば又待宵侍従下向の時、所願ありて高野山に一寺を建立し、講妨(〔坊カ〕)と号す。是れ調姓の菩提所なり」(五七九頁)とあるだけである。『聖方紀州風土記』は原本が手許にないので(今村和方氏書写のコピーのみ)、いまは和田重雄氏『郷土の史話(一) 貞享版 黒木物語』所収の『本覚院は筑後国を檀家とする由来』によってみると、『黒木物語』では「剣一振、潭に沈めければ、祟(たたり)も止み」(一六八頁)とあるところを、「たたり息まず」(二一三頁)といって、話を進めるのである。そのいうところは、待宵小侍従は一子を産んだが牛であって哀殺して葬った。放逸の難が及ぶ時、行空の遍歴を聞き直に招請して事情を述べ済度を願った。行空は宿世の因縁輪廻し現世の業報の遁れ難きを説示したので、黒木助能や待宵小侍従は大いに懺悔し厚く帰依し、業障消滅、家運長久のため資財をなげうち行空に依頼して高野山に「講坊」を建立したというのである。

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高野堂「行空上人の墓」について(12)

2017年04月12日 | 未発表論文

 しかし本覚院自身は、『紀伊続風土記』に「寺伝に」とあるのと相違するが、行空をもって開基とする。門をくぐって右手にある石碑「本覚院累代記」(最後に「明治廿七年七月」という年月日がある)には、「□(夫?)当講坊本覚院者後鳥羽帝建久中釈行空因待宵侍従之請而所立也」と刻まれている。後鳥羽帝の建久年間(一一九○~一一九八)待宵小侍従の請いによって行空が建立したというのである。和田重雄氏『郷土の史話(一) 貞享版 黒木物語』所収の『本覚院は筑後を檀家とする由来』などにも記されている。平成二十四年(二○一二)四月二十六日に本覚院を訪れた際、御住職の御高配によって特別に拝見させていただいた行空の位牌にも、新しいもののように感じられたが、「開基 行空上人 不生位」とあった。そしてたとえば『紀伊続風土記』には行空が「常に法華経を講読す故に、世人講坊といふ」(『続真言宗全書』三六・六二頁)と記されている。高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」の正面に「高野山講坊先師行空上人」とある「講坊」がそれである。本覚院はもともと「講坊」と呼ばれていたのである。建久年間に開かれ、その開基は行空であり、待宵小侍従を願主とする。ここに両者がつながるのである。

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高野堂「行空上人の墓」について(11)

2017年04月11日 | 未発表論文

   四、本覚院の創建

 次に本覚院の建立について述べよう。本覚院は高野山千手院谷に現存する。高野堂(こうやんどう)「行空上人の墓」の解説版には待宵小侍従が行空に帰依して本覚院を建立したとあるから、その開基は行空ということになる。ところが『紀伊続風土記』には「寺伝に中興を行空上人といふ」(『続真言宗全書』三六・六二頁)とある。また今村和方氏『純忠星野氏』一○一頁に収録されている「紀伊国高野山本覚記録」にも「開基不詳中興行空上人」とある。そして五来 重氏『増補 高野聖』(角川書店、一九七五年)二四四頁には、「大和・河内では長谷寺門前の隔夜堂と奈良高畑の空也堂および河内磯長(しなが)の叡福寺門前の隔夜堂のあいだを往復するので、隔夜聖(かくやひじり)、訛って『かっけさん』とよばれる遊行者が、江戸時代までおったという。このような聖が、平安時代の高野山にのぼって本覚院をひらいたもので、これは行空その人でなければ、その亜流の隔夜聖だったろうとおもわれる」といわれている。そうすると、本覚院は開基不詳(隔夜聖?)で中興が行空ということになる。

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