天上の月影

勅命のほかに領解なし

残念ですが……

2017年09月21日 | 水月随想

拙寺における親鸞聖人七百五十回大遠忌法要が近づいてまいりました。総代さんたちとの会合等、いろいろ準備があります。住職である私が盛り上がらなければ、皆さんがついてきてくれません。そこで残念ですが、しばらくのあいだ休ませていただきたいと思います。また再開しましたら、お立ち寄りください。

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悪人正機の教え

2017年09月20日 | 水月法話

 浄土真宗の究極の教えとして、悪人正機(あくにん・しょうき)ということがいわれます。阿弥陀さまは、善人よりも悪人をまさしき目当てとしてお救いくださるということです。これを究極というのは、阿弥陀さまの大悲の焦点を言葉であらわすのにギリギリの表現を用いているからです。人間の常識からいえば、悪人よりも善人が救われると思うでしょう。それが当然です。けれども、阿弥陀さまは違うのです。善人よりも悪人に大悲の焦点を当てておられるのです。悪人は救いようがないからです。その救いようのないものを救おうとするのが阿弥陀さまの大悲というものなのです。
 けれども、誤解しないでください。その悪人というのは、いわゆる犯罪者のことをいっているのではありません。日々、悪を作らずに生きていけないわたくしたちのことをいっているのです。それに対して善人とは仏道修行にひたすら励み、仏陀に近づこうとしている人たちのことです。そうした人たちを傍(かたわ)らにして、日常生活のなかに埋没しているわたくしたちに焦点を当てて、救おうとしてくださっているのが悪人正機ということです。
 わたくしたちは阿弥陀さまの正客(しょうきゃく)なのです。お相伴(しょうばん)ではありません。それをありがたいことと阿弥陀さまにおまかせ申し上げていくのが浄土真宗でいう信心ということです。

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ビールかけ

2017年09月19日 | 水月法話

 プロ野球で広島カープがリーグ優勝しました。おめでとうございます。広島へは何度も行っておりますので、嬉しく思います。けれども、申し訳ありませんが、心の底から喜べません。私の応援しているチームではないからです。人間って勝手なものですね。
 ところで、優勝すると、ビールかけがあります。選手たちが喜びを弾けさせています。でもあれは全員が参加しているのでしょうか。というのは、拙寺の御門徒のなかには驚くほどアルコールに強い方がいます。とくにある方は、朝・昼・晩、ずっとお酒を呑むので、一升瓶の蓋をしないそうです。ところがある人は反対に、弁当のなかに奈良漬けが入っていると、蓋を開けた途端に、その匂いで酔ってしまうそうです。そうしたアルコールに弱い方もおられるので、優勝のビールかけはどうなんだろうと思ってしまいます。しょうもないことですが……。
 蓋といいますと、浄土真宗では阿弥陀さまのご本願のみ言葉をそのまま聞き入れている状態をいいます。そこに蓋をすることは許されません。蓋をすれば阿弥陀さまのみ言葉が入ってこないからです。奈良漬けの場合はその方の体質ですから、どうしようもありませんが、阿弥陀さまのみ言葉を前にしたときは、一升瓶の蓋をしないというように、開けっぱなしにしておくことです。どんどん入ってきます。それが信心です。そしてお念仏が口に出て下さいます。お酒と一緒にするのは適当でないかもしれませんが、広島優勝から思いあわされます。

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幸せはどこに

2017年09月18日 | 水月法話

 浄土真宗というのは、一言でいえば、口に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏を申させていただき、やがていのちが終わったならば間違いなく阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただき、即座に仏陀としてのおさとりを得させていただく教えです。逆にいえば、おさとりのお浄土を目指し、お念仏申させていただく教えです。それが真実まことの道であると説くのです。
 そうしますと、ある人がいいます、「それで幸せになれますか」と。この問いは、一見、筋が通っているように見えますが、実は、問い自体が間違っているではないでしょうか。というのは、幸せというものがどこか遠くにあって、それを得られるか得られないか、と思っているようですが、そのように考えていれば、一生涯幸せは得られないでしょう。不平と不満と愚痴の生活しかありません。世の中には、幸せという名の幻を餌(えさ)にして勧誘する宗教がわんさとありますが、決してだまされてはいけません。幸せというのは、自分自身が感じていくものです。感じられないのは心が貧しいからです。目が見える、手が動く、心臓が動いている、当たり前だというけれど、その当たり前を不思議なことであるといただき、お念仏のなかで心豊かに幸せを味わっていくのです。

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大寂定にいりたまひ

2017年09月17日 | 水月法話

 静かな朝を迎えました。テレビをつければ、台風十八号がもうすぐ鹿児島に上陸すると伝えています。やがて私どものほうへ進んでくるでしょう。本堂で予定していた敬老会も中止になりました。小学校の運動会も順延になったと聞きました。今日の月参りの家からも「また来月でいいですよ」と電話がありました。けれどもいまは、静かな朝です。
 親鸞聖人は『浄土和讃』「大経讃」に
  大寂定にいりたまひ 如来の光顔たへにして
  阿難の慧見をみそなはし 聞斯慧義とほめたまふ
と詠われています。ここでは『大経』の異訳である『如来会』によって造語されています。正依の『大経』で申しますと、お釈迦さまがマガダ国の首都・王舍城の郊外にある耆闍崛山(ぎしゃくっせん)の山上で一万二千人のお弟子と無数の菩薩方とともにおられたとき、突如、光り耀くお姿をあらわされました。それを見た常随の弟子である阿難尊者が驚いて立ち上がり、「私はいままであなたのそばを離れたことがありませんが、今日のようなお姿を拝見したのははじめてでございます。これはいったいどういうわけでありましょう」と、お釈迦さまのお徳を五つに分けてたたえたところ、お釈迦さまは「そなたは誰かに教えられて問うているのか」と逆に問われました。阿難尊者が「いえ、誰かに教えられたわけではありません。私自身が不思議に思い、お尋ねしたのです」と答えますと、「おまえ、ええこと聞いたなあ」(むかし、梯實圓和上が大阪弁で翻訳してもええやろ、とおっしゃった言い方)といわれ、みずからの出世本懐なることを述べ、阿弥陀さまのおいわれを詳しく説かれていくのでした。これが『大経』の発起序(ほっきじょ)と呼ばれる一段の概要です。
 そのなかで、お釈迦さまが光り耀くお姿をあらわされたというのは、阿弥陀さまに溶け込み一体になっているということで、弥陀三昧と呼ばれます。阿弥陀さまと一体になって説かれるのが『大経』です。お釈迦さまの言葉はそのまま阿弥陀さまの直説であることをあらわします。それを『如来会』では「大寂定(だいじゃくじょう)」といわれています。そこで先ほどの和讃では「大寂定にいりたまひ」と詠われているのです。ただ語感からですが、いまの静かな朝、「大寂定」という言葉が思い浮かびました。

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新米をいただいて

2017年09月16日 | 水月法話

 昨日、ご門徒から新米をいただきました。今年は不作であろうかと思っていたら、わりと豊作であったらしいです。そのお仏米でした。
 真宗学で「行信半学」という言葉があります。行と信の問題がわかれば、親鸞聖人のみ教えの中心はほぼ学ぶことができるという意味です。それは真宗学全体の半分を占めるというので「行信半学」と呼ぶのでしょう。そのなかでもとくに問題になるのは大行論です。先哲は心血をそそいで微に入り細に入り研鑽され、蘭菊の美を競うがごとく、幾多の学説が生じました。大別すれば、能行か所行かに分かれます。ただし所行といっても、先哲によって定義が異なることがあるので注意しなければなりませんが、おおよそ能行とは衆生の称名、所行とは法体名号です。そのどちらであるかという問題です。私は学生時代、なぜ大行論に二説、細分すれば諸説あるのか疑問でした。親鸞聖人はそんなはっきりしないようなことをおっしゃったのだろうかと不思議でなりませんでした。いまは思うところがありますが、それはさておき、利井鮮妙和上(一八三五~一九一四)の大行論は能所不二の法体名号とするものでした。その理由として、一に行信次第の行なるが故に、二に第十七願建立の行なるが故に、とされます。ところがここに問題が出てきます。法体名号を行とすると、それは阿弥陀さまが成就された果ではないか、行とは衆生往生の因である、その因である名号をただちに行といえるかということです。そこで鮮妙和上は譬喩をもって示されました。すなわち、今年収穫した米は果に違いないが、来年に向かえば籾種の因となるといわれるのです。阿弥陀さまは五劫の思惟と兆載永劫のご修行によって南無阿弥陀仏のお名号を成就されました。南無阿弥陀仏は確かに果です。しかし、その果である南無阿弥陀仏は私たちにとってそのまま往生の因となるのです。それを頂戴するのが信心です。信心は仏果である南無阿弥陀仏という法体名号を頂戴した状態をいうのですから、私たちの上で信心が正因となるわけです。ご門徒からいただいた新米を見て、鮮妙和上の譬喩を思い浮かべたことでした。

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りゅうちゃん

2017年09月15日 | 水月法話

 五、六年くらい前でしょうか。まだ梯實圓和上がご健在のころ、大阪の「行信会」という勉強会で、ある先学の論文を高く評価されお話をされたのですが、それがどこの学術誌にあるのかわからず、お電話でお尋ねしたことがあります。ご回答いただいたそのついでに、「犬は浄土に往生できるのか」という質問をさせていただきました。ちょっとしたことがあったからです。ただし和上がどのようにお答えになったかは控えさせていただきます。
 月参りをさせていただいておりますと、いろいろな犬に出くわします。たいていは吠えて吠えて仕方ありません。とくにある家ではお仏壇の前に座った私のすぐ近くで吠えっぱなしです。家の人がおられれば、すぐ奥に連れて行ってくださるのですが、お留守のときはもう吠えっぱなしです。あまりのうるささに、
「光顔巍々、威神無極……」
「やかましいわ!!」
となったこともあります。まさに「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(『歎異抄』第十三条)でした。またある家では吠えはしませんが、私が家に上がってお仏壇に向かおうとした瞬間に目が合い猛ダッシュで走ってきてスネをガブッとされたこともあります。逃げる間もありませんでした。けれども、そうした犬ばかりではありません。玄関の戸を開けて声をかけると、出迎えてくれて、読経中はずっと伏せています。私が帰ろうとしたときには玄関まで見送ってくれるような、おとなしい犬もいます。
 その一人、ではない、一匹が「りゅうちゃん」という名の犬です。一時期は首に赤いバンダナを巻いてもらうのが嬉しいらしく、「これ見て。オシャレでしょ」といっているようでした。昨日は首に念珠のようなものを巻いてもらっていました。読経中は私の後ろで気持ちがいいのか、すやすやと居眠りしていたそうです。そして読経が終わって振り返り、ご夫婦と何気ない会話をしていると、ずっと黙って聞いています。犬の姿はしていますが、まるでおとなしい人間のようです。それでも犬はやっぱり犬です。話しかけても、答えはありません。何か悲しく思います。「この子(りゅうちゃん)が喋れたらいいですのにねえ」と思わず口に出ました。今生(こんじょう)の生(せい)を終えたら、どうか人間に生まれ、ご信心をえて、お念仏申す身になってくれよと、見送ってくれる、りゅうちゃんの顔を見ながら、家をあとにしました。

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染香人のその身には

2017年09月14日 | 水月法話

 厳しいお方からはお叱りを受けるかもしれませんが、私はいつも車で月参りをさせていただき、コンビニに用事があるときには、いったん帰って着替えるもの面倒なので、いつも衣(ころも)を着たまま店に入ります。昨日、行き慣れた店に入ると、顔なじみの定員さんの姿がなく、はじめて見る女性定員さんがレジに立っておられました。しかも制服を着ず、名札だけつけておられます。いったいこの人はどういう人なのだろうと思いながら、商品を取り、レジで精算してもらっていると、その定員さんが「お香のいい香りがしますねえ」とおっしゃいました。先ほどまで月参りを何軒かしてきたのですから、むしろ当然なのかもしれませんが、人にそのようにいわれたのははじめてでした。誰も気づいていたとしても、何もいいません。それがはじめて見るお客さんが衣(ころも)を着ているお坊さんだというので、その定員さんの愛想言葉だったのでしょう。けれどもとっさに、「染香人のその身には 香気あるがごとくなり」のご和讃が頭に浮かびました。ただ私が「染香人」というのではありません。煩悩具足の凡夫です。お恥ずかしいかぎりです。それでも阿弥陀さまが私のなかに宿ってくださっているのでした。ゆえにこそ私の口に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と出てくださるのです。お念仏は私の行為でありながら、「しかるにこの行は大悲の願より出でたり」阿弥陀さまが私をしてお念仏申させしめてくださっているのです。お念仏を私の手柄にするのではありません。お念仏が出たら、いよいよ阿弥陀さまを仰がせていただくのです。阿弥陀さまが私に宿ってくださっている証拠なのです。お線香の香りが私に染みついて、私の身体から香りが放たれるように、阿弥陀さまが私に染みつき、お念仏が出てくださるのでした。「お香のいい香りがしますねえ」何気ない定員さんの愛想言葉に味あわせていただきました。

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小咄(こばなし)から

2017年09月13日 | 水月法話

 御一同さまにようこそお参りいただきました。御当家奥さんのお通夜の御縁にあたって、しのびごとを申し上げるとともに、お取り次ぎをさせていただきたいと思います。
 奥さんと私とは同い年であり、坊守とはよい友達でありました。お寺に来るときはいつも「かずちゃ~ん」と呼びながら玄関の扉を開けて入ってこられました。また、近所でもあることから、うちの子どもが小さいころ、私どもが法務で忙しくてお寺にいないとき、よく遊びに行ってそのまま御飯をいただいたものです。昔ふうにいえば、乳母のような存在でした。3月にお母さんの3回忌の法要がありましたとき、はじめて病気のことを知り、それでもお元気な様子に見えましたから、まさかこんなにも早くこのようなことになるとは思ってもいませんでした。いま思えば、家の前を車で通るとき、よく物干し竿に洗濯物を干している姿をお見かけたものです。
 物干し竿といいますと、このような悲しみの場で、このような話をするのはたいへん恐縮ですが、戦国時代から江戸時代のはじめにかけて、安楽庵策伝(一五五四~一六四二)というお坊さんがいました。浄土宗西山深草派の方です。浄土宗といいますと、普通は京都・東山の知恩院を連想しますが、そこは法然聖人(一一三三~一二一二)の弟子の弁長上人(一一六二~一二三八)の系統です。九州で活躍されたお方ですので、私どもは鎮西派(ちんぜいは)と呼んでおります。それとは別に西山派(せいざんは)というのがあります。同じく法然聖人の弟子の證空上人(一一七七~一二四七)の系統です。そのなかからまた、いくつか派が分かれ、證空上人の弟子の円空立信上人(一二一三~一二八四)の流れが浄土宗西山深草派です。京都に新京極通りというアーケードのある長い商店街がありますが、そこを四条通りから歩いていきますと、三条通りまでのあいだに誓願寺というお寺があります。そこが総本山です。安楽庵策伝のお墓もそのお寺の裏にあり、「落語の元祖」といわれています。そして小咄(こばなし)を集めた『醒睡笑(せいすいしょう)』という本を残しています。
 そのなかから一つ、有名な小咄を紹介しましょう。イメージとして、昔テレビでやっていた「一休さん」を想像してみてください。念のため、一休さんのことではありませんよ。ある日の夜、お寺の小僧が物干し竿のような長い棒を縦にもって振り回し、境内を走り回っていたというのです。それを見つけた御住職が、
「お前、この夜に何をしとるんや」
「はい。夜空を見上げておりますと、星があまりにもキレイなんで、一つほしいと思い、この棒で何とか取りたいと頑張っているんです」
「お前、アホか。そんなことで取れるわけないやろ。屋根の上にのぼれ」
 これは小咄(こばなし)ですから、それでオチがついていますが、よく考えてみますと、私たちの〈いのち〉というのは、棒を振り回しても、屋根の上にのぼっても、手のつけようがありません。奥さんの〈いのち〉もまたしかりです。自分の無力さにうちひしがれます。禅をきわめたお方ならば、生にとらわれず、死にとらわれず、一切は空なりと達観するのでしょうが、私たちにはそのようなことはできません。悲しいものは悲しい、辛いものは辛い、どうしようもありません。けれども、私たちには阿弥陀という如来さまがいらっしゃいます。阿弥陀さま、どんなものも決して見捨てはせんぞ、必ずこの手で救いとってみせるぞとおっしゃいます。奥さんの〈いのち〉、私たちの〈いのち〉、阿弥陀さまに抱かれているのでありました。いまこの悲しみのなかで、老少不定(ろうしょう・ふじょう)、人生の無常に思いをいたしつつ、阿弥陀さまのましますことのたのもしさに安心し、お念仏申させていただきましょう。

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拳と合掌

2017年09月12日 | 水月法話

 御一同さまにようこそお参りいただきました。御当家お父さんのお通夜の御縁にあたって、しのびごとを申し上げるとともに、お取り次ぎをさせていただきたいと思います。ただ、しのびごとと申しましても、お父さんの場合、あまりにも多うございまして、お話をいたしましたら、それだけで終わってしまうでしょう。御縁の深いお方でありました。二点だけ申しますと、お父さん、拙寺の責任役員を四期十六年つとめてくださり、拙寺のために多大な御尽力をいただきました。また私個人にとりましては、まさに親代わりのお方でありました。ただただ感謝というよりほかにありません。
 誰がいったのか存じませんが、「同じ五本の指、握れば拳となり、合わせれば合掌となる、あなたはどちらの生き方を選びますか」という言葉があります。これは何も実際に拳を握る、手を合わせるということではなくて、「握れば拳となり」とは人を恨み憎しむ生き方です。「合わせれば合掌となる」とは人に感謝し敬う生き方です。どちらの生き方が美しいであろうか、ということです。
 昨日(2017.9.9)アメリカでWHO世界スーパーフライ級チャンピオンの井上尚弥選手が六度目の防衛を果たしたそうです。その試合中、選手は拳を握って殴りあっています。けれどもそれは何も相手が憎いわけではありません。また勝利したとき、拳を突き上げますが、グローブをはずせば、「応援してくださった皆さまのおかげです」といいます。「この汗なくして結果なし」といわれますが、彼は途方もない努力をしたのです。それでも、自分が努力したから、俺の力で勝ったとはいいません。皆さまのおかげですといいます。まさに感謝です。感謝の生き方です。形であらわせば合掌です。また合掌は敬うことでもあります。人を見下げたり、さげすんだりするのでなく、敬っていくのです。こうした仏事も同じです。阿弥陀さまをお敬い申し上げるのです。そのとき、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏というお念仏を忘れてはなりません。ただ合掌するのでなく、お念仏を申すのです。なぜなら、阿弥陀さま、みずからの善根功徳のありだけを南無阿弥陀仏の六字にこめて、どうかこれを受け取っておくれよ、どうかこれを称えておくれよと、恵み与え施してくださり、必ず救うと仰せられているからです。お父さんはそのみ言葉を受け取って、お念仏申し、阿弥陀さまのお慈悲のなかに包まれてありました。そしていま、お浄土へと生まれていかれました。あとにつづく私たちは、お父さんを手本として、拳を握る生き方をせず、合掌してお念仏申す人生を歩ませていただきたいことです。それがお父さんの御恩にむくいることにもなりましょう。

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浄土真宗の肝要(7)

2017年09月11日 | 水月法話

 浄土真宗は生と死を超えていく教えです。それは浄土真宗にかぎらず、仏教全体です。仏教は生と死を超えていこうとするのです。たとえば、禅宗では禅を組んで、生にとらわれず、死にとらわれない境地をめざします。本当の仏教はこういうものなのです。
 そうすると、仏教は私たちの生活とかけ離れた、無用のものという感じがします。しかし、そうでしょうか。私たちは確かに一生懸命生きています。その一生懸命さのなかで忘れていますが、私たちの足元には生と死が横たわっています。人生の根本問題です。いかなる時代であっても、いかなる人であっても共通した問題です。たとえば、受験で悩んでいるとします。それはたいへんな問題ですが、受験を考えていない人にとっては関係のない問題です。また受験などなかった時代には関係なかった問題です。しかし、生と死の問題は普遍の問題です。関係ないという人は一人もいないはずです。これを解決しないと、人生が落ち着きません。落ち着いていないから、何か事がおこると、フラフラ迷うのです。迷う元はここにあります。まったく人生に不誠実と言わねばなりません。しっかりと足をおろして生きていきましょう。禅に縁がある人は禅に、浄土真宗に縁がある人は阿弥陀さまのみ言葉にしたがって生と死を超えさせていただくのです。

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浄土真宗の肝要(6)

2017年09月10日 | 水月法話

そこで浄土真宗の信心は、お念仏となって相続され、娑婆の縁が尽きたならば間違いなくお浄土に生まれさせていただくと、人生のゆくえ、〈いのち〉のゆくえを聞き開いていることになります。親鸞聖人がおかくれになったあと、奥さまであった恵信尼公がお手紙を書かれています。必要なところだけ申しますと、親鸞聖人は二十年間、比叡山で学問と修行に励まれましたが、二十九歳のとき、生涯の師・法然聖人と出遇われました。そして百日間、降るにも照るにも、いかなることがあっても、法然聖人を訪ね、教えを聞かれました。法然聖人は「生死(しょうじ)出(い)づべき道」をただひとすじに説かれ、親鸞聖人はそれを「うけたまわりさだめ」たといわれています。「生死(しょうじ)出(い)づべき道」とは、生と死を超えていく道です。生と死を超えるとは、生と死に新しい意味を見出すことです。人間は事実で生きているのではありません。意味で生きているのです。たとえば過去につらいことがあったとしても、事実は変わりませんが、お念仏をいただく糧(かて)であったと気がつけば、つらい過去にも意味があったと転換します。また死も、死ぬと思えばただ空しい滅びでしかありませんが、お浄土に生まれていく縁であると気がつけば、死にも意味があるんだと受けて入れていくことができます。

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浄土真宗の肝要(5)

2017年09月09日 | 水月法話

 こうして浄土真宗の信心は、阿弥陀さまのみ言葉を、自分で考えるという疑いの心をさしはさまず、そのとおりいただいている状態をいいます。
 ところが、人間というのは一筋縄でいかないもので、疑い心をまじえていないつもりでも、ちよっと疑い心を加えてしまうのです。阿弥陀さまのみ言葉を、自分で考えて理解しようとしてしまうのです。これは聞き損ないです。昔から聞損(もんそん)といっています。親鸞聖人はこれを厳しくいましめられました。わたくしたちは、よくよく注意しなければなりません。
 阿弥陀さまの「必ず助ける」という仰せを「本当だろうか?」と疑うのは申すまでもありませんが、どんな悪を造っても助けるという仰せを聞いて、それだったら悪いことをしてもかまわない、むしろ悪いことをしなければならないと考える、これを造悪無碍(ぞうあく・むげ)といいます。また一声のお念仏で救われると聞いて、それだったら一声だけでいいので、多くお念仏称える必要はないと考える、これを一念義といいます。逆に多く称えなければ救われないと考える、これを多念義といいます。 それらはすべて聞き損ないです。わずか一声のお念仏で救われる、それを一生涯相続していくのです。その一声・一声のなかに「大丈夫、大丈夫」と聞いていくのです。

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浄土真宗の肝要(4)

2017年09月08日 | 水月法話

  そこで、阿弥陀さまのみ言葉を、疑いのフタをはずし、そのとおり聞かせていただいたらどうなるか。阿弥陀さま、われにまかせよ、必ず助けるとおっしゃいますから、わたくしたちは阿弥陀さまにおまかせ申し上げて必ず助かるとなります。そうでしょう? もしならないというなら、それはフタをしている証拠です。またお念仏申しておくれよ、とのおおせでありますから、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申していく。申さないというのはフタをしている証拠にほかなりません。ただ障害などがあって、口にできないというお方は、心の中でもいいのです。お念仏申させていただきましょう。また大丈夫だよ、大丈夫だよ、とのおおせでありますから、大丈夫、大丈夫と聞いていく。それを不安に思うというのは、フタをしている証拠であって、阿弥陀さまを見損なっているのです。
 フタさえ横に置けば、阿弥陀さまにこの〈いのち〉おまかせ申し上げ、必ず助かるわたしである。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。そのお念仏の中で、大丈夫、大丈夫と聞かせていただく、これが信心です。
 そして、その心は何も自分で作ったわけではないしょう? 阿弥陀さまのみ言葉がわたしに入ってきただけです。宿っただけです。そこで浄土真宗の信心は「如来よりたまわりたる信心」といわれるのです。

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浄土真宗の肝要(3)

2017年09月07日 | 水月法話

 では水にあたる阿弥陀さまのみ言葉とは何か、それを専門用語で「本願」といいます。あるいは親鸞聖人は「如来の御ちかひ」といわれています。呼び名は違っていても、同じことです。阿弥陀さまがわたくしたち一人一人にかけられた願いのことです。これが浄土真宗の本体です。詳しく申し述べたいのですが、紙数の都合上、別の機会に譲ります。いまはただ、味わいをこめて、次のように申しておきましょう。
 阿弥陀さま、わたくし一人一人にたいして、そなたの本当のいのちの親はこの阿弥陀であるぞ。親である以上、親の名にかけて、そなたを必ず救う。だから安心して心配することなく、われにまかせよ。そしてたとえわずか十遍でもいい、お念仏申しておくれよ。そなたの悲しみはわが悲しみである。そなたの苦しみはわが苦しみである。自分一人で悲しいと涙するなよ。自分一人で苦しいと歎くなよ。いつでもどこでも、この阿弥陀が寄り添い、ついておるぞ。さあ一緒に前を向き、一歩ふみだそう。大丈夫だよ、大丈夫だよ。
 わたくしたちはこの阿弥陀さまのみ言葉をそのとおり受け入れていくんです。聞き入れていくんです。決してフタをするんじゃありません。フタをはずして、そのまんまいただいていくんです。それを信心と呼ぶわけです。

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