クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

日本赤軍の終焉(2)

2009年02月23日 | 日本関連
(3)共産同…『共産主義者同盟』が正式であるが、『ブント』とも言われる。ブントとはドイツ語で連盟・同盟の意味である。昭和35年の60年安保の前に、共産党はその党大会で武装闘争の方針を放棄した。これに反発して離党あるいは除名された学生党員が、昭和33年末に結成したもので『社学同』の上部組織でもある。安保闘争の主役を演じ、60年安保で圧死した樺美智子もこの派閥に属する。彼等はレーニン主義の復権を基調として、大衆闘争主義と世界革命論を主張したが、発足当初から派閥が多く、大ブント構想で昭和41年に一度は統一をしたが、昭和44に再分裂している。赤軍派の出身セクト。(4)社学同…『社会主義学生同盟』の事であり『共産同』の下部学生組織でこれも通称はブントであった。学生セクトの中では最も大衆的なエネルギーを結集できたセクトである。それだけにノンセクトの過激学生の大衆結集が衰退すると、組織は崩壊する。昭和45年の70年安保以後は、ほとんど解体に近かった。 
(5)社青同…『社会主義青年同盟』の事。日本社会党の青年組織であり、60年安保や三池争議の後に、社会党が組織の若返りを目的として結成した。昭和40年に『解放派』などの過激派閥が生まれるが、それらは組織から追放され、後に九州大学への米軍機墜落事件で活躍して居る。
(6)革マル派…通称は『革共同革マル派』であるが、正式には『日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派』でありこの学生組織が通称『マル学同革マル派』と言われた『日本マルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派』である。一般的にはこちらを『革マル派』と言っていた。本来はこのマル学同は『革共同』の学生組織であったが、これが
革マル派と中核派に分裂し、以後この両派は流血の反目をすることになる。
(7)革共同…『革命的共産主義者同盟』が正式名称であり、昭和32年に結成されていた『日本トロッキスト連盟』を改称したもの。しかし昭和34年には、反帝国主義・反スターリン主義を掲げた『全国委員会派』とトロッキズムを掲げる『第四インター系』に分裂、さらに昭和38年には全国委員会派が『主流派』と『革マル派』に分裂、この主流派が『中核派』を名乗る。
(8)第四インター…正しくはダイシインターと読む。『日本革命的共産主義者同盟第四インターナショナル日本支部』が正式名称。『革共同』からの分裂派閥で全共闘時代にはデモにも参加せず、評論活動を主として居たが昭和45年以降は、成田管制室破壊などの過激闘争に転じている。
(9)中核派…通称『革共同中核派』で正式には『革命的共産主義者同盟全国委員会』。少々混乱するが一般的に中核派と言っていたのは、『革マル派』のマル学同中核派のことであり、上記全国委員会の学生組織。正式には『日本マルクス主義学生同盟中核派』。
(10)京浜安保共闘…もともとは、日本共産党左派グループの中で、毛沢東の野戦理論を信奉する労働者中心の一派であったが、大菩薩峠事件以後に体力の弱まった共産同赤軍派と合体、連合赤軍を結成し、あさま山荘事件で壊滅する。
(11)赤軍派…元来、京大生を中心とする共産同の一派閥であったが、全共闘運動が終息するにしたがって、内部対立によって関東派と関西派に分かれ、その内の関西派が独立して赤軍派を形成する。当初は『共産同赤軍派』を名乗っていたが、昭和44年の鉄パイプ爆弾事件から赤軍派と名乗る。後に大菩薩峠の軍事訓練で53名が検挙され壊滅状態となるが、マネー作戦を展開し、ここで資金を得た残党が武器略奪の京浜安保共闘と合体して連合赤軍事件を引起す。
(12)日本赤軍…元は共産同赤軍派であるが、昭和44年の大菩薩峠の大量検挙などで国内活動に行き詰まった赤軍派は、田宮などが昭和45年に『よど号』を乗っ取り北朝鮮に拠点を求め、重信房子・奥平剛士が、偽装結婚をして昭和46年にレバノンへ脱出、翌年の5月にロッド空港で銃乱射事件を引き起こし日本赤軍を名乗る。現在6名が国際手配中。                                 ⑤日本赤軍の爪痕…昭和44年になると、過激派のシンボルであった東大安田講堂立て籠もりも排除され、各大学も過激派の排除のために機動隊をドンドン学内にいれるようになる。こんな状況から過激派は、機動隊に立ち向かうのに火炎ビンとゲバ棒だけの力の限界を思い知らされ、密かに武装化を図る。この年の9月に新たに結成の『共産同赤軍派』は11月になると、首相官邸占拠を計画して山梨県大菩薩峠で鉄パイプ爆弾などの武闘軍事訓練を行おうとしたが、警察に察知され山荘『福ちゃん荘』に宿泊して居た53名の学生労働者全員が『凶器準備集合罪』の現行犯で逮捕され、赤軍派の壊滅の端緒となった。この時の逮捕者の中には、今は18年の刑期を終えて出所し、重信逮捕時にはテレビでもインタビューを受けていた、当時の赤軍派議長『塩見孝也』も含まれて居る。
昭和45年の1月に、赤軍派は『国際根拠地建設』をスローガンの一つとして発表する。これは、革命を達成するために北朝鮮・キューバ等の社会主義国に国際根拠地を作り、そこに赤軍派の活動家を送り込んで軍事訓練を受けさせ、再び日本に逆上陸して武装蜂起を行うと言うものである。しかし3月からは、大阪万博が開催され世の中は次第に平和路線を辿って居た。そしてこれ以後、赤軍派は路線が分裂し、よど号での北朝鮮脱出組・レバノン脱出組・国内連合組に分かれることになる。
そして3月末、赤軍派は羽田発福岡行きの日航ジャンボ機『よど号』を乗っ取り、福岡空港・韓国金浦経由で北朝鮮の平壌に脱出した。犯人は大阪市大・田村高麿、東大・小西隆祐、明大・田中義三、関西大・阿部公博、同志社大・若林盛亮、京大・岡本武(公三兄)大阪市大・赤木志郎、高校生・柴田勝弘、工員・吉田金太郎の九人である。それから30年、彼等の運命は過酷である。田村、吉田はすでに病死、岡本も事故死、田中は平成8年にタイで贋ドル事件で逮捕され、この件では無罪になったものの、日本に移送されて逮捕され公判中、柴田は偽造パスポートで日本入国をしようとして逮捕され、現在北朝鮮に残って居るのは、4人であり最近家族共々の帰国を模索している。
                                       昭和45年の末になると、赤軍派は資金強奪、京浜共闘が武器強奪に走るようになる。
12月に京浜安保共闘が東京上赤塚交番を襲撃するが、一人が射殺、二人が重傷を負って失敗する。続いて46年の2月、京浜安保共闘の横浜国立大生3人が栃木県真岡市にある銃砲店を襲って散弾銃十丁と散弾1.500 発、空気銃一丁を奪う。
2月の末、重信房子と奥平純三が偽装夫婦となってベイルートに脱出する。3月には赤軍派はM作戦で相模原市の銀行支店で150 万円、宮城県の相互銀行支店を襲い150 万円を奪ったのを初めとして、7月には鳥取県の信用金庫に押し入り600 万円を奪うが翌朝までに犯行の四人は逮捕、使った銃が真岡で奪われたものと判明し、両者の関連が浮かび上がる。こうして武器の京浜共闘、資金の赤軍は合体し連合赤軍を結成するが、追い詰められて、46年11月には群馬の山間部に逃げ込む。そして14名の同志たちをリンチ殺害した後昭和47年の2月、あさま山荘事件で連合赤軍の国内部隊は全滅する。
ロッド空港事件…こうした事からアラブの重信は、3月には従来の赤軍派との決別を宣言し『アラブ赤軍』を名乗り海外を拠点にしたテロ活動を独自に進めることにする。その手始めは直ぐにやってきた。この年の五月、一つの事件が世界を震撼させ、世界の中で日本人の肩身が狭くなる。イスラエルのロッド空港で岡本公三・奥平剛士・安田安之の赤軍派の三人が銃を無差別発射して死者二十四人、負傷者七十六人が犠牲になった。この黒幕が重信房子とされ、国際手配される。この事件で奥平・安田は現場で爆死し、岡本が逮捕された。彼等はレバノンに脱出後にパレスチナ解放戦線と共闘を組み、ベカー高原を根拠地として世界同時革命を目指していたのである。岡本はイスラエルと戦ったアラブの英雄として祭り上げられ、日本赤軍を名乗った重信らは、アラブの中での地位を確立する。しかし同時に重信は、黒幕から首謀者としての手配をされることになる。重信はこの日を日本赤軍誕生の日としている。                ドバイ事件…その後も日本赤軍はテロを繰り返し、昭和48年7月には、丸岡修と4人のバレスチナゲリラが、パリ発東京行の日航機をオランダ上空でハイジャックし、アラブ首長国連邦のドバイ空港を経てリビアのベンガジ空港で爆破した。
ハーグ事件…昭和49年9月、西川純・奥平純三・和光晴生の三人がオランダ・ハーグのフランス大使館を占拠し、その直前に偽造旅券使用の容疑でフランス当局に拘束されて居た日本赤軍の一人を奪取する。
クアラルンプール事件…昭和50年8月、奥平純三・日高敏彦・和光晴生ら5人がマレーシア・クアラルンプールの米国大使館を占拠し、人質と交換に日本で勾留中の連合赤軍の坂東国男と日本赤軍の西川純・戸平和夫らの5人を奪還。西川・戸平の二人はこの年の3月にスェーデンで逮捕されていた。このとき始めて超法規措置が採られた。
ダッカ事件…昭和52年9月、インド上空で日航機が日本赤軍にハイジャックされ、バングラディッシュのダッカ飛行場に強制着陸させられる。人質は156 人、犯人は『坂東国男』『丸岡修』『戸平和夫』『佐々木規夫』『和光晴生』の5人で身代金600 万ドル(当時のレートで約16億円)と指名九名の釈放を要求された。再び超法規の屈辱で日本政府はテロに降伏し、身代金と脱出を拒否した3名を除く6名が日本を離れてダッカに行き、ハイジャック機でアルジェリアに逃亡した。この時の逃亡者は『奥平純三』『大道寺あや子』 『浴田由起子』『坂崎勉』『仁平映』『泉水博』であり、大道寺と浴田は連続企業爆破事件の犯人、泉水は強盗犯である。
この後、なぜか彼等の動きは一時止まるが、約十年後に対米テロで再開する。     ジャカルタ事件…昭和61年5月、坂崎勉が日・米大使館に爆発物を仕掛けて爆破する。若王子事件…昭和61年11月、三井物産支店長誘拐は丸岡の犯行の疑い。   ローマ事件…昭和62年6月、奥平が米・英大使館に爆発物を仕掛け爆発させる。
ナポリ事件…昭和63年4月、奥平が米軍クラブ前に爆弾を仕掛け5名殺害。
                                       昭和63年は、1988年である。この翌年にはベルリンの壁は崩壊し、昭和も平成に変わる。平成2年の湾岸戦争の後、東西冷戦構造の崩壊で中東でも次第に和平が進み、レバノンの後ろ盾であったシリアは、頼りのソ連の崩壊で米国にすり寄り、共闘関係にあったパレスチナ解放人民戦線は主導権をハマスなどのイスラム原理主義の過激派に奪われた。その上、パレスチナ暫定自治合意によって、日本赤軍はアラブの中での存在意義を失っていく。
レバノンベカー高原のキャンプも閉鎖せざるを得なくなり、中東の動きを封じられた日本赤軍は、他の中東地域や南米・東欧・アジアに散らばっていく。しかし、こうした新拠点作りは、各国の治安当局によって追い詰められ、思わぬ所でメンバーたちが拘束され始める。                                      昭和62年…丸岡修、日本国内で逮捕、服役中
     63年…泉水博、フィリピンで逮捕…終身刑で服役中
    平成7年…浴田由起子、ルーマニアで逮捕…東京地裁で公判中              8年…田中義三、タイで逮捕…公判待ち
      坂崎勉ネパールで逮捕、米国へ連行され公判中
      吉村和枝、ペルーで逮捕                          9年…岡本公三・和光晴生・足立正夫・山本万里子・戸平和夫レバノンで拘束
      西川純、ボリビアで逮捕…東京地裁で公判中
   12年…和光晴生・足立正夫・山本万里子・戸平和夫逮捕…東京地裁で公判開始
     …重信房子、日本国内で逮捕
現在逃走中…奥平純三・坂東国男・佐々木規夫・大道寺あやこ・松田久・仁平映
  亡命中…岡本公三
北朝鮮在住…小西隆祐・赤木志郎・阿部公博・若林盛
⑥女闘士・呆気ない逮捕
重信房子をターゲットとする作戦が本格化したのは、平成11年からである。日本赤軍の動向を追う警視庁警備局外事課国際テロ対策室のJRA担当者たちが、極東に舞い戻って来たメンバーの一部の動向を掴み、彼等が香港・マカオ・北京に出没していることを把握し、マカオの拠点を監視することに成功していた。この対策室は、重信が出入りして居たギリシャの地中海料理店に捜査員を従業員として張り込ませたり、平成12年3月には、レバノンを国外追放された日本赤軍4名を第三国経由で日本に強制送還させることに成功している。そんな当局に決定的な情報がもたらされたのは、平成12年7月21日である。日本国内に居る支援者の中に大阪府警の協力者がいて、その筋から重信らしき女性に遭遇したと連絡があった。つまりスパイは重信支援者の中にいたのである。その情報を元に、元赤軍派メンバーの支援者の借りて居る西成区のマンションにいた、一人住まいの女性がいち早く割り出され、捜査員の執拗な尾行が始まる。しかし事件から時間が経ち過ぎて居たので、捜査員たちは重信本人を知らないので、確証が掴めなかった。
しかし、逮捕の半月ほど前に警視庁の保有する彼女の個人データーファイルに、煙草を吸うときの顕著なしぐさの癖が記載されて居るのに気付き、入念な観察によって本人であるとの確証を得た。
11月7日、比較的動きの無かった重信が遂に動いた。西成区から電車で高槻市に向かって移動する。その日、支援者の集まりがあることを当局は掴んでいた。彼女の連絡役であった高槻の病院の職員と元国鉄労組員あたりから通報があったらしい。高槻市は京都との境に位置する、高山右近の作った城下町である。彼女の行く先はその高槻市の中心部にある『たかつき京都ホテル』であった。当局はすぐさま彼女の西成のマンションから、指紋の付いたコップを入手し、指紋の照合に成功した。更に彼女の新旧の写真から断層写真を作り容貌は変わって居ても鼻・耳・唇の形が一致することも確認した。
彼女の入ったホテルでは、複数の人間が集まり会議らしきものが開かれたらしいが、ホテルには、男性の名前で予約がしてあり、宿泊者カードも同じ名前で、彼女は男に変装して居たのである。予約人は『高槻市南芥川8-1松尾整(ひとし)』となって居たが、この男性は実在の人物で当局もマークして居た一人である。大阪府警が、日本赤軍の支援者を徹底マークするうちに、高槻市の精神病院が浮かんできた。ホテル予約の人物は、その病院の職員であり、彼女が逮捕されたときに、付き添って居た男性二人もこの病院の人間であった。この病院の事務長がかっては赤軍の関係者であり、そのつてで、病院内には10名以上の赤軍シンパがいることが分かって居る。この病院は、それまでにも、ベカー高原に支援物資を送ったり、カンパによる資金援助をしているので当局は長年のマークをして居た。逮捕翌日のテレビで、この松尾氏の記者会見があると言うので待っていたら、出てきたのは例の事務長であり『私は弁護士と相談した結果、私自身の刑事責任に関わることなので、一切お話しできません』と言うメモの読み上げに終ってしまったのを思い出す。これらの支援者たちは、容疑者隠匿の罪にはならないのであろうか?
翌日の午前中、すっかりオバサンになった重信が、周囲の喧騒に誇らしげに親指を立て
虚勢を示し連行される姿に多くの人は、哀れささえ感じた。
彼女を追った事もある元公安・菅沼氏は『時代にとり残された哀れさ』を見たと言い、元連合赤軍の植垣氏は『かってヒーロー扱いされたあのポーズをしても、老いのテロリストには、誰も感銘しない。皆、革命が幻想である事に気付いているんです。その時間を知らずに帰国した彼女は、自分が戻れば大きな運動が起きると未だ勘違いしている。哀れです』元赤軍議長の塩見孝也氏も、『彼女は何に対して戦うと言うのか?何を頑張ると言うのか?まだ夢想から覚めて居ない』と言う。
危機管理第一人者の佐々氏は、他のメンバーが入国している可能性が強いので、かってやったように一発逆転の奪還作戦がないとも限らないので、警戒が必要と説くが、シャツポを失った残党たちにその元気があるとも思えない。しかし、法曹関係者によると、最高幹部でありながら何時も安全地帯に退避していて実行犯にはなって居ないこの臆病な自称女帝を、今後の裁判で共謀共同正犯として立証するのは、至難の技であり、最悪の場合、旅券法違反ぐらいになり、数年で社会復帰するかもしれない、と観測して居る。それでは、このグループのために命を落とした多くの人達とその関係者は、その怒りを何にぶつければ良いのだろうか?
正直な話、彼女らはCIAかモサドに捕まって、死体で発見されたほうが、罪滅ぼしとなろう。
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