クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

フレッド和田・勇 東京オリンピックを呼んだ男

2009年02月23日 | 米国関連
和田・フレッド・勇                          
東京にオリンピックを呼んだ男

2001年 2月12日、ロス在住の日系二世・和田勇氏が肺炎のため93歳の生涯を閉じた。新聞も彼の死と日本に対する功績を伝え、彼の恩を一番分かっている古橋廣之進氏も追悼文を寄稿しているが、どのくらいの人がそれに目を止め、彼の冥福を祈ったであろうか?あまりテレビでも取り上げなかった様であるので、相も変わらぬ日本人の忘れっぽさ、後世に伝えることを知らないマスコミの姿勢には少々落胆する。出来レースの芸能情報をやる時間枠があったら、少しでも伝えるべきである。それをやらないと、何を聞かれても目の前のこと以外は『知らない、教科書に出ていなかった、生まれて居なかった……』で片付ける阿呆餓鬼が、サルと大差ない知能程度のまま大人になり、21世紀に大量のゴミと化すことになる。

1958年(S-33)、日本は1960年のローマ大会の次の1964年第十八回オリンピック大会開催に立候補した。思えば、戦前の1940年(S-15)に紀元 2.600年記念行事として決まっていた東京大会は、泥沼の日中戦争による国際的孤立のため開催を返上せざるを得なかった。そして戦後第一回の1948年・ロンドン大会には敗戦国日本はドイツと共に招聘されて居ない。参加を許されたのは1952年のヘルシンキ大会からである。この大会には日本・ドイツの返り咲き組のほかに、ソ連が初参加してその高度なレベルは米国に匹敵する程であった。敗戦国日本は振るわず、レスリング石井、体操小野の活躍はあったものの、陸上では吉野トヨが円盤投げ四位、三段跳び飯室六位、棒高跳び沢田六位だけ、水泳では鈴木・橋爪二位のみで、頼りの古橋は決勝で最下位と惨敗してそのまま引退する。
ヘルシンキの次の1956年メルボルン大会は、スエズ動乱、ハンガリー動乱の最中に、始めての南半球の開催であったが、日本は水泳の古川・山中・吉村・石本が活躍して前回の汚名を挽回し、全盛期の体操では小野・竹本・相原・久保田が活躍、御家芸と言われたレスリングも笹原・笠原が注目された。しかし陸上はマラソン川島の五位入賞のみで全滅に近かった。こんな状況の時、日本は立候補したのである。
2002年のカナダ・ソルトレイク冬季オリンピックを巡っての一大スキャンダルが1995年の招致決定に関して発覚したことは、我々の記憶に新しい。この事件は五輪委員会正副会長が辞任するまでになった金品贈与事件である。これはオリンピック招致委員会がIOC委員をその投票のために買収しようとし、特にアフリカ諸国などの委員がそれに便乗して積極的に買収に応じた事が暴露され、誘致運動が金まみれであったことを証明してしまった。尤もそこまでエスカレートさせたのは前回の長野冬季オリンピック招致での日本のなりふり構わぬ買収作戦での金満家ぶりにあったことも事実である。
しかし、今から37年前の東京オリンピックに関しては、些か事情が異なって居た。当時の日本は金はなし、外貨もなしで今のような派手な招致運動など出来る筈はなかった。しかし、この東京大会は、結果として参加国 94 、参加選手・役員 7.582人とその時点での史上最大の大会となったが、日本にとっては、単なるスポーツの祭典と言うことだけではなく、19年前の1945年に焦土と化した日本が、その復興ぶりを世界に示し、先進国の仲間入りを果たすための絶対に必要不可欠のイベントであった。このオリンピックに際して日本は、当時の国家予算に相当する一兆円を費やして、首都東京を徹底的に改造する。新幹線建設 3.800億、高速道路 700億、一般道路整備1.070 億、地下鉄建設 2.328億ホテル建設その他 2.529億などである。そしてこの思い切った投資があったからこそ、奇跡と言われた戦後の経済の高度成長が実現したとも言える。                 ところで、1964年開催の候補地として立候補したのは、ベルギー・ブリュッセル、オーストリア・ウィーン、米国・デトロイトそして東京の四都市である。その中から敗戦から13年しか経っていない東京が選ばれる可能性は限りなく零に近いと見られて居た。しかし、1959年にミュンヘンで開かれたIOC総会で、東京は全 58 票中、過半数を超える 34 票を獲得して開催地に指名された。この奇跡の大逆転をやってのけた影の功労者が日系二世の和田勇と妻の正子である。この和田夫妻は政府の高官でも外交官でもなく、ロスでスーパー17店を手広く経営していた日系二世の一般市民である。
オリンピックの開催地は、開催の6 ~7 年前のIOCの総会でのIOC委員の投票で決まる。1958年頃の委員の総数は58名であったが、主として欧州と南北アメリカ大陸に集中していて日本が得票を見込めるアジアでの委員は10名にすぎなかった。因みに現在の委員数は110名を超えるが、20年以上会長の椅子に君臨しているサマランチの政治力によるオリンピック競技種目の肥大と加盟国の増大による。                1958年、55回目のIOC総会が日本で開催された時、日本は候補地に立候補している。しかし、状況としては全く絶望的であった。既に立候補を表明して居た三都市のうちアメリカ・デトロイトが圧倒的な優位を伝えられて居たからである。それは、時の大統領アイゼンハワーが、各国のオリンピック委員に対して『私は米国国民を代表して貴方をデトロイトに招待したい。IOC総会では是非協力を願う』と言う親書をばら蒔いて居たからである。このとき既に米国は、全58票の大多数を占める欧州と南北アメリカの票をしっかり押さえていたのである。日本は招致運動をしたくても、開催費用さえ時の大蔵大臣・田中角栄氏が世界銀行から一億五千万ドル借款しようとしていたくらいであるから、余裕など一切なかった。招致のための海外派遣の費用として一人たったの300 ドルしか外貨の割り当てがなかった。闇ドルが420 円もした時代である。日本の招致委員会が目を付けたのは、まず中南米の11票であり、ここを崩せばデトロイトとの差は差引き20票は変わるからである。早速交渉委員をメキシコに派遣するが、運悪く旅先で病に罹りそのまま死亡して終う。新たに派遣するには人もいない、金も無しで諦めかけていたとき、水連会長の田畑政治と古橋廣之進の頭に、予てから面識のあるロスの和田勇のことが浮かんだ。和田は10年前の全米水泳選手権に派遣された古橋などの日本選手団を世話した人物であり、その後も渡米する日本スポーツ選手を徹底的に面倒を見てくれていた。
1958年から溯る事 13 年前、焦土と化した東京に昭和天皇の終戦の詔勅が流れ、日本は米国の占領下に置かれた。それから僅か3年後に、国内水泳大会で驚異的な世界記録を連発したのが、古橋・橋爪たちである。参加を断られたロンドン大会に時刻も合わせた意地の国内大会での世界新記録を世界は信用しなかった。日本のプールは、爆撃によって損傷して短いとか、日本のストップ・ウォッチは精度が悪くて遅く回るとかの中傷がされたのである。そこで翌年の1949年、日本選手団は、全米大会に出場のため渡米する。しかしこの時、講和条約の前でもあり、民間人の渡米は認められ無かったが、占領軍総司令官マッカーサーの『全米選手権に出て米国チームを粉砕しろ』の一言で決まった。但し米国国民の対日感情は極めて悪く、ジャップと侮蔑され『ジャップ出入り禁止』の店も多かったので、外務省は『選手団の生命は保障できない。なにかあったら一切抵抗せず在米のスイス領事館に保護して貰う事』と指示している。国交のない日本は大使館が無かったのである。
開催地のロスのホテルはトラブルを避けて日本選手団の宿泊を全て拒否して終ったので、やむなく事務局は現地の日系新聞にホームステイ募集の広告を出した。これを見て手を挙げたのが、ロスに住む当時41歳の和田勇と35歳の正子夫人である。
この夫婦は戦前からこの地で数軒の八百屋を経営し、日系人社会に信頼は厚かった。彼等は唯日系人と言うだけで長い間白人社会から謂われ無き差別を受け続けて居た。和田夫妻は選手団9人を自宅に宿泊させ、一週間以上の間も食事の世話をした。終戦直後で芋ばかり食べて居た選手団は、その見たこともない豪華で豊富な食材に唯々驚くばかりであったという。和田夫妻としては、何とかして彼等を勝たせて日頃の鬱憤を晴らし、日系人の立場をジャップの蔑称からジャパニーズと呼ばれる存在に引き上げたかったのである。
そして選手権初日の1949年8 月16日、予選A 組の橋爪が1.500 ㍍で18分33秒の世界新で米国選手を破るとその30分後には古橋が18分19秒を出して会場を唖然とさせた。そして決勝では古橋・橋爪・田中が上位を独占し、実力を世界に示した。この瞬間から米国民は、彼等を英雄と認め一目置くようになる。白人社会もびっくりしたが、何より驚いたのは日系人たちであった。日系人逹は胸を張って街を歩けるようになったのである。
しかしこの後の古橋は悲惨であった。帰国後は招待試合で休む暇もなかった。特に1950年の80日間に亘る南米遠征が古橋に不幸をもたらす。ブラジルで不用意に飲んだ一杯の水でアメーバー赤痢に掛り、体力は全く失われる。快復しないままに臨んだ1952年のヘルシンキでは、400 ㍍に絞ったが予選通過までで力尽き、決勝では最下位であった。この時優勝したフランスのボゾンの父親がプールに飛び込んで話題になった時である。ロスにいて、ラジオでレースを聞いていた和田も、彼の不運に涙が止まらなかった。        それから年が経って1959年、オリンピック招致関係者の頭に浮かんだのは、ロスの輝かしい思い出である。当時の和田氏は既に中南米にも顔の利く実力者となっていたのである。準備委員会は、和田氏を委員に任命するように総理大臣・岸信介に働きかける。こうして一通の親書が大平洋を渡った。それには『貴殿に東京オリンピック準備委員会委員の就任方を依頼し今後の活動をより強固なものに致したく、何卒就任方ご承諾下さいますよう、お願い申し上げます』とあり、署名は『日本国総理大臣・岸信介』とあった。
この親書を見て和田氏は昔の事を思い出していた。1951年、ロスの全米選手権の時の協力のお礼として日本水連から35年振りの日本に招待され、田畑氏と会談した時、田畑氏が日本にオリンピックを招致するのが夢であると言っていたのが心に残って居たのである。和田夫妻は日本が国際的にジャンプ出来る切っ掛けとなるオリンピック招致に協力する決心をする。それは事業を犠牲にする覚悟がなくてはならなかった。          夫妻は全てを自費負担してメキシコへ飛び立っが、まだ中南米諸国を説得する当てなどはなかった。夫妻は仕事上の伝てからメキシコIOC委員との面会の約束を取り付ける。当時の中南米ではメキシコのIOC委員で次期会長とも噂されていたクラーク将軍が大きな発言力を持って居た。和田氏は誠意を込めて説得に当たるが、米国の傘の下で国が成り立って居たメキシコとしては、米国からの要請がすでにきているので簡単には応じられなかった。第二次大戦後には、メキシコは完全に米国の経済的支配を受けて居たのである。しかし度重なる折衝での一般市民の情熱と、自立のために努力する日本の状況がアメリカ支配から脱しようとしているメキシコに似ていることから、クラークは次期オリンピックに立候補しようとしているメキシコを応援する事を条件に、メキシコの二票を東京に投ずるよう大統領を説得することを約束する。
和田氏がメキシコの同意を取り付けたとの知らせは、直ちに日本の招致委員会に伝わる。クラークは同時に中南米諸国のIOC委員に宛てた東京開催支持を要請する親書を発行してくれた。こうして不可能と思われた東京招致への光が微かに見えてきた。親書を携えて、和田氏は中南米諸国を歴訪する。その活躍ぶりは各国のマスコミにも取り上げられ、各国IOC委員との会談の模様は写真入りで新聞紙上を賑わせた。しかしどの国も協力を約束してはくれるが、問題の性質上、書類上の契約をするわけではないので、実際に投票するかどうかは確信が持てなかった。
1907年(M-40) 、和田・フレッド・勇は米国ワシントン州の小さな町・ベリングハムに7人兄弟の長男として生まれる。両親は和歌山県出身の移民で漁業生活者であったが生活は苦しく、1911年に彼は口減らしのため、和歌山の祖父母の元に引き取られる。その5年後、商売に成功した父に呼ばれて再び渡米するが、実の母は既に亡くなって居た。やがて父の事業は再び窮地に陥り、12歳の和田は家を出る。彼は農園の雑役夫を皮切りに住込みの仕事で転々としながらも自力で学校へ通った。その六年後、父親が亡くなると彼は八百屋の店員をしながら兄弟たちを養ったが、2年後の二十歳のとき自分の店を持って独立する事ができた。1933年、同じ和歌山出身の正子と結婚した時は、三つの店と25人の従業員を持っていた。1941年、対日戦争が勃発すると米国政府は西海岸三州にいる日系二世に対して、その地域からの退去か、収容所行きを命令する。米国全土に広まる反日感情の様子から移住しても安全に暮らせる保障もなかったので、日系人の殆どは全ての資産を投げ捨てて収容所行きを選んだ。こんな時、彼はユタ州の農園が人手不足で困っていることを聞き、有志に呼び掛けて1942年 3月にユタ州奥地・キートリーに集団移住して耕地を借り受け自給自足の生活に挑戦する。しかしこの山間の地は土地は痩せ、冬は零下十数度にもなる厳しい土地であった。仲間たちの多くは脱落するが彼を含む数家族が頑張った。彼はここで生まれた次男にエドウィン(江戸が勝つ)と名前を付けている。
1945年、祝勝ムートに沸き立つロスに戻った和田氏は、天皇とマッカーサーの並んだ写真に涙した。
1959年5 月 5日、40日間に及ぶ中南米歴訪の旅を終えて夫妻はロスに戻る。IOCの総会は20日後に迫っていた。その矢先、日本からの緊急依頼がくる。今度はミュンヘンへ行って呉れと言うのである。中南米の役員に念を押させようとしたのである。夫妻の動きとは別に、日本の招致委員たちはソ連と東欧諸国に対して必死の説得工作をやり8票を確保して居たので、中南米の確約があれば当選は確実なところまできていたのである。
直ちに夫妻は総会の舞台となるミュンヘンに行き、中南米工作に専念する。そして1956年5 月26日の正午、投票が始まる。その30分後、会場の外で待つ彼の元へ当選の知らせが届く。日本の新聞は一斉に東京オリンピック決定のニュースを一面で伝えた。投票内訳はブリュッセル5票、ウィーン9票、デトロイト10票そして東京34票と言う圧勝であった。1964年オリンピックの会場には、57歳に成った和田氏と妻の正子さんの姿があった。彼はこれで日本は四等国から一等国になったと確信して居た。
大任を果たして再び日常の仕事に戻っていた夫妻に、予期しない事態が起こった。日本から次々と依頼が舞い込んできたのである。『そちらに日本選手が行くので面倒を見てほしい』『今度は札幌に冬季大会を招致したいので応援して欲しい』等の事であったが、その内容が徐々に変化し始めた。『好意に甘えで恐縮ですが、選手団の滞在費・交通費・資材費等に付いて、格別のご配慮を以って何分の御援助を頂きたい』と言う類いである。何か釈然としない気持ちの儘、彼は渡米してくる選手たちの面倒を見た。同じ頃、あるロスの日系人よりとして、一つの投書が日本の新聞に載る。『米国人である日系二世に対して渡米する日本オリンピック選手に寄付をしろと言うが、在米二世にとってのオリンピック選手とは米国代表のことである。日本は独立国ではないのか?独立国とは何事も自分で処理の出来る国のことではないのか?』と言う厳しい口調であった。
晩年の彼は、少年期を過ごした故郷の和歌山の漁村の風景を思い出すようになる。その漁村は、地引き網で暮らしを立てている漁村であったが、魚を売った分け前は、地引き網を引く家も引かない家も平等に分配されるのがしきたりであった。彼はそこに日本人の人を気遣う素晴らしい面を感じて居た。そして67歳のとき、彼は私財を投げ出して『敬老リタイアメント・ホーム』の建設に情熱を傾ける。自分の家を抵当に入れて100 万ドルを調達し、空き家を購入してホームに作り替えたのである。そして生活に苦しんで居たり、家庭で孤立している日系一世・二世の老人を収容した。米国で苦労した人達に老後の楽しみを与えてやりたかったのである。現在このホームは、病院も併設され400 人が収容されて居る。
1999年、91歳で老齢のため殆ど寝たきりの彼は、それでもにこやかに日本からのインタビューを受けた。その時、人生は挑戦だと言った彼は21世紀をはっきりと見てからその使命を終わったかのように永眠した。

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