明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

天武天皇から継体天皇(古代史の新しい見方)

2017-05-19 15:00:08 | 古代史あれこれ
今日ネットで天武天皇を検索していたら面白い記事が見つかったので報告と私見を述べてみたい。それは天智と天武の年齢について調べていて気が付いたのだが、中に「継体天皇の年齢」について書いているのがあった。記事を書いた人は神谷政行という人で本も出している。で、継体天皇だが、応神天皇五世の子孫という触れ込みで越前からやって来た謎の大王である。教科書では武烈天皇の次に王位を継ぐ事になっているが、彼の判断は雄略の後「清寧-顕宗-仁賢-武烈の4人の天皇と継体は並立して」いたとするのだ。このダブりを発見したのは年齢差が丁度4人の天皇位の期間と一致しているということだから偶然のようにも見える。楠葉宮-筒城宮-玉穂宮は3人の天皇の即位年に歩調を合わせていて弟国宮は仁賢の4年とズレているが、ほぼ各天皇の宮と考えて間違いないと言う。この並立説は前々からあった説だそうだが、私は九州王朝説を思い出した。つまり白村江で唐・新羅連合軍に大敗するまでは九州倭国が列島の代表者であり、独自の年号を使用していたとする説である。尊敬する古田教授の提唱する説だが、この継体天皇と4人の天皇が並立していたとする考えと一致する部分があるように思ったわけである。

古代史は言わば何でもアリの世界であるわけでそれが魅力の一つでもあるのだが、なんでもありといっても何か大筋で一本話が通っていないといけない。それを私は「天智は百済系の渡来人」という視点を立てて見た。645年のクーデターで古人大兄が「韓人が入鹿を殺した」と叫んだのは謎でも何でもない。今まの諸説では天智を在地勢力-天武を高句麗系渡来人としていた為に謎と思っていたのだが、天智を渡来人・天武を在地勢力と見る私の立場からすれば当然の発言なのである。話を継体天皇に戻すと、雄略天皇の後に清寧天皇という流れは近畿大和王朝の系譜であり、それを継体天皇(つまり前王朝より新しくやって来た新渡来系の首長)が並立王朝を建てて争ったという事である。継体天皇の出自と勢力が日本海側からやって来たのは、既に中央は既存の勢力が王朝を築いていた為、韓国から日本に来るルートの一つである越前でしばらく力を溜めていたものと思われる。ようやく機が熟したので南下して各地を転々としながら各地を占領し勢力を拡張して行ったために、並立期間が長期に渡ったのだと思う。

継体天皇の次は安閑・宣化の2代だが、百済の歴史書に「天皇・太子・皇子が同時に死んだ」という記録が残っているらしく、欽明天皇が王位に就く前に「もう一波乱あった」とする見方に私は賛成したい。どちらにしても近畿大和王家内の王位継承争いであるから、九州倭国側からすると静観していたのかも。結果的に欽明天皇が王位を継承してその後蘇我氏全盛の時代が到来するのであるから、欽明は新羅系もしくは反百済系の王統だとも言える。しかし天智がクーデターに参加して入鹿を殺し蘇我本宋家を倒したのは、百済がどうの新羅がどうのという出自の問題とは違って、同じ百済系渡来人達の中での権力争いと見た方が良いと思う。敏達や用明は佛教受容に関しても立場が逆で、欽明王朝はむしろ近畿大和の国内を纏め発展させることに注力したと見るべきで、百済・新羅という半島内部の勢力争いが倭国や大和国で激しくなった訳ではないと思われる。亡命百済貴族が大量に倭国に流入したのは白村江大敗の後662年以降であり、日本国はどちらかといえばカヤの外であったと見るべきである。

大体において日本での天皇位というのは象徴的な存在で、足利から戦国時代にお」「ける「権威のみで武力は無かった」存在とするのが妥当なところではないだろうか。そもそも平安時代に藤原氏が台頭し実権を握るようになってから久しく、天皇が政治の表舞台に介入することは出来なくなっていたと思われる。その一番の理由は「外戚」と言うシステムである。天皇でありながら妻の父親であり子の祖父という立場の人間には容易に口出しは出来ないという儒教の教えにがんじがらめになった弱い人間が、味方も武力も無しに権威だけを持たされている構図はその後、面々として現代に至るまで続いているではないか。だから雄略や継体や欽明の時代の「日本人のメンタリティ」は、現代の日本と「それほど違ってはいない」と私は思う。九州倭国が「倭の五王」として当時の中国とある意味で対等の意識を持っていたとしても、宋や梁などに使持節都督郎・安藤大将軍といった役職名を貰い東アジアの盟主として冊封されていたのは、やはり現代の日本がアメリカに冊封されて(口では安保法制などと言ってはいるが)、政権を維持しているのと同じと構造だとも言える。

結局継体天皇の並立説は「どうやらそうらしい」のレベルを脱してはいないが、大まかな筋だては「政権内部に混乱があり、大きな意味で王朝交代があった」と見て良さそうである。そのどさくさから蘇我氏が力を持つようになり、それに異を唱えた孝徳がクーデターを起こして河内に新政権を建てたが、急激な改革に旧来の権力基盤がついていけず、反旗を翻し皇極が重祚して斉明となって破滅的な白村江へとなだれこんでいくのである。白村江の戦いは九州倭国が国家的事業として行ったものであるが、半島情勢が緊迫するに従って百済への加勢応援を強めていき、その流れに乗って邪魔者を粛清していくのが天智であるという構図をしっかり頭に入れておけば、自ずと天武の立場は明確になってくるのではないだろうか。ここで間違えやすいのが渡来系と大和民族の色分けである。一般に近畿日本国が大和民族のように思っている学者が多いのだが、私は「天武一族だけ」が大和民族で、その前も後も日本の天皇は「皆な渡来人」であると思っている。仏教でもそうだが、日本人は昔から「TOPは外国人」という島国未開民族的考えが骨の髄まで沁み渡っていて相当に根強いのだ。雑誌の表紙を飾るファッションモデルに特徴的に見られる外人崇拝である。だから天皇=権威という「象徴としての存在」は、渡来人の系統がずーっと支配してきたのである。それに抵抗したのが唯一「天武天皇」であるというのが、私の分析である(泉涌寺の天武系排斥は後付である)。この新説は意外と当たっているかもしれなくて今後も研究を続けてみたいと思っているので、新しい発見があったらまた報告したいと思います。とりあへず六国史を読み進めて行こうと思っているが、天武系王朝をフィーチャーした「続日本紀」はもっと精査しなくてはいけない本だ、と最近は肝に命じている。


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