明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

祝!リーガでレアルが優勝!

2017-05-22 20:00:05 | スポーツ
ベンゼマの2点目のシュートはテレビを見ている視聴者にははっきりオフサイドだったのに、線審の判断でゴールと認められたのには、現代サッカーの矛盾が如実に現れていて面白かった。これが現在のルールだから私は文句を言うつもりはないが、誰でもがスマホで世界中の人とリアルタイムに会話出来る世の中に、何だっていつまでも独りの人間の判断で試合の行く末(これがリーグの優勝決定戦であっても)を左右する仕組みにしがみついているのか。というのも、人間でなければ判断できない反則というものもいっぱいあって、それはそれでイエローなりレッドなりで対処せざるを得ないのはわかる。だがオフサイドというルールは単純にキーパーとパスを受けるオフェンス側の選手との間にディフェンダーを最低1人入れなければいけないというもので、人間が裁かなくても「機械的に結論が出る」類いのルールである。ラグビーのノックオンとちょっと違うが、趣旨は概ね攻撃側と防御側とでバランスを取るためのものだろうと思う。一概にイギリス発祥のゲームは、テニスでもサッカーでもルールは10個くらいの単純なものである。そのうちで、球がゴールに入ったかどうかの判定に電子的な機械を導入したとニュースに出ていたのは、つい去年のことである。それさえも「サッカー文化」とか言うものを盾に反論する識者、という人達が世界中にいるのには不思議な気持ちがした。

選手たちはゴールを目指して必死に戦っているのであり、入ったか入らないかは「まさに選手であることの意味を問うて」いるのである。全身全霊をかけて戦っている選手にしてみれば、目の前でボールがゴールラインを割ったかどうかは「誰に言われなくても自分が一番良く分かっている」筈である。テレビ放映でボールが間違いなくゴールラインの中に入った映像を見ている人々にとっては、答えは明確で迷う余地は無いのである。しかしそれがノーゴールの判定になることも稀ではないから問題になる。公明正大であるべき審判も人の子であれば、見る角度によって見づらくなっても仕方がないし、単に「思い込み」の場合もあろう。あってはならないことだが、数年前には八百長問題で審判がニュースに出た事もあった。こういう誤審問題は、テレビ放映という「審判の目を超えた神の視点」で映し出される映像を一般視聴者が見る、という機械の進歩がもたらした恩恵でもある。審判の数も増えて4人になり、だんだん見る角度による死角も減ってきてはいるがなお、先ほど言ったベンゼマのオフサイドのような問題がなくなる訳ではない。マラガのキーパーは猛然と抗議したが「逆に審判からイエローカードを出されて」しまった。黙って言われた通りにしろ、と言わんばかりである。これじゃ選手の立つ瀬が無いではないか。

ワザとやったのか不可抗力なのか判断のつきにくいファウルは別として、少なくとも物理的に答えが出るいくつかの問題については、機械の導入を考えるべき時に来ていると思う。アメリカのバスケット(NBA)では既に映像の見直しによって審判の判定が覆る可能性もあり、そうすることによって選手が「無用な感情」でプレーをし続けなくてもいいと言う利点も見受けられて、これはこれで素晴らしい事だと思っている。試合の流れを止めないというのが良い審判だと言われるが、笛を吹くタイミングなど審判に要求されるものは非常に高度で、機械でそのまま代用できるようなものでは無い、と言う理屈もわからないでもないが、しかし万人がテレビの映像を見ていて「オフサイドだ」と判断し、選手もそう自覚しているにも関わらず「ゴール!」とされたのでは、誰が納得するのだろうか。「人生は正しいことがいつも認められるとは限らない」と言い、それも含めて「サッカーなのさ」としたり顔をする一部の自称サッカーファンには可哀想だが、時代はどんどん進化している。いずれ貧乏人のスポーツと言われたサッカーにも、タブレットで映像確認をしながら笛を吹く審判の姿が、当たり前に見られる時代がやって来ると私は信じている。人間より機械の方が正確だ、とは「将棋の名人がAIに負ける」時代にあっては当然かも知れない。ただしAIが美しい詩を書いて人間が感動することはあっても、果たしてAI自身が感動するのかどうか、私は大いに疑問を持っている。

思うに「AIは祈ることが出来るのか?」という問いかけに答えられる程にロボット技術が進歩するのには、まだ1000年くらいはかかりそうである。

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