ドゥテルテ大統領について

2016年10月12日 | 雑感
フィリピンで強権を振るうドゥテルテ大統領。犯罪者を抵抗次第で即時殺害するその手法には、賛否両論の声がある。

賛成派の賛成の理由は単純かつ明快である。「その圧倒的な効果・実績を見よ」「いまやフィリピンに建国以来の平和が訪れた」というものだ。

他方、反対派の理由はもう少し複雑かつ高尚で、「近代国家として、罪状の告知、弁明の機会の付与など、適正な手続を守り、最低限の人権を保障せよ」という。

反対派の考え方から分析したい。

近代法治国家の「適正手続の保障」という考え方は、非常に難解である。
この考え方の背景には、国家に対する徹底した不審がある。国家は、放っておけば、その権力を利用して、意にそぐわぬ者を次々と抹殺する。それが国家というものの自然かつ通常の状態であると考えるのだ。事実として、近代市民革命以前の国家は、国王や皇帝が、まさに反対派を「きままに」拷問して殺害してきたのだから、この国家観は、歴史的に見ればきわめて正しい。そのような「きままな国家」を前提としたとき、国民の自由と利益を守るためには、犯罪抑止よりも何よりも、まず、国家の「きままな」行動を制限するルールが重要となる。国家という猛獣を、犯罪というウサギを捕るのに使うな、個々の犯罪よりも、国家の暴走のほうが結果的には国民の不利益になるのだという警告である。国家の暴走の例としては、ヒトラーやスターリン、毛沢東の大量殺人を思いおこせばよいのだろう。

反対派は、犯罪者を擁護しているのではもちろんない。この手法では冤罪が発生するとか言っているのでもないと思う。国家が、最低限のルールを守らなくなり、そのくさびから解き放たれて暴走したときには、フィリピンに犯罪の闇よりも濃い、国家による本当の闇が訪れてしまうと警告しているのだ。

しかし

そのように反対派の考え方を斟酌しても、なおわたしはこれに同調することをためらう。
日本に住む私たちは、犯罪というものを本当に理解しているのだろうか。さらってきた子供の手足を切り落として見世物にして金を集めるような、私たちが想像もつかない残虐行為が世界各地で行われている。それを日常にしていた人たちを、反対派のいうようなロジックで説得するのは不可能だ。反対派の人々は、抽象論に終始しており、フィリピンのかかえる具体的な問題に誠実に向き合っているとは思えない。

私は、ドゥテルテ大統領の荒療治は必要なことだったと思う。
しかし、そこには「国家の暴走」に対する最低限の歯止めを欠いているというのも事実だろう。
最も単純かつ効果的な歯止めは目標と期限を設定することだ。ドゥテルテ大統領は、その政策によって達成すべき目標を明確にし、その達成が明らかとなったときはこれを中止すべきであるし、達成できないとしても一定の期間の経過を持って中止することを約束するべきであろう。なぜなら、期間が経過しても目標を達成できないということは、目標に対して手段が効率的でないということの証左であろうから。

現在の報道されているところでは、ドゥテルテ大統領の政策に目標や期限は見えない。これを永遠に続けるつもりなのだとしたら、「国家による闇」も抽象論ではなくなるだろう。

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