わんわんず

日々のあれこれ、感じたこと考えたこと

やってみたいと思うゲーム

2010-01-29 | 日記・エッセイ・コラム
 

前回は、子供にとってゲームは面白く、親がうまくコントロールしないといけないということを書いた。さて、そこで自分が時間を費やしてもいいと思えるようなゲームはどんなものかと言うと、情報の不確定さを織り込んだゲームだ。

 どこかにも書いているけど、旅の速度と情報の速度が同じだった時代、具体的には電信が発明される前の時代に興味がある。そういう時代は、自分が今手にした情報がすでに違っていることが当たり前なので、現在とは情報の意味が違う。もちろん、いわゆるニュースは時間がかかるだけで同じものが伝播していくことに変わりない。ゲームとして成立するようなものを考えるのだから、自分と(潜在的な)競争相手がアクションを起こすことで変化する状況を考えている。

 例えば、戦国時代を舞台にした、誰もいないと情報があった砦に後詰がいたり、救援要請を受けて、すぐに応援を向かわせたところすでに敗走していた、ということが普通に起きかねないようなゲームだ。いくら正確な情報を得ようと思っても、彼我の距離によって情報が正確さを失ったり、作戦指示は先を見越して送らないと手遅れになるというような、一言で言うと「リアルな」ゲームだ。
 こういうゲームが一般受けすると思えないし、自分自身、本当にプレイするか判らない。しかし、索敵すれば瞬時に正確な情報が手に入ったり、指示したことが即座に反映するようなゲームは、あまりにも簡単な気がする。
 ゲームと言えばボードゲームだった頃は「戦場の霧」をどうやってゲームに持ち込むかを競って考えたことがあった。まだまだゲームが一部のマニアの物だった頃だ。プレイヤーがそれぞれ地図を持つようにしたり、乱数で移動力が変わったり、不発弾を混ぜてみたり、索敵に失敗したり、敵味方の識別を間違えるようなルールを導入したり、いろいろと考えたものだ。

 もしかしたら、戦場の霧をうまく再現したゲームが存在するのかもしれない。誰か教えてくれないだろうか。

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ゲームに熱中

2010-01-25 | 出産・育児

 うちの子はまだ2歳にもならないので、どんな種類のゲームにも興味がないが、知人の子はニンテンドウDSでゲーム三昧で困っているようだ。食事のときしかゲームを手放さないというほどだから、相当熱中しているのだろう。布団の中でも遅くまで遊んでいるようだ。
 大人のゲームデザイナーが子供が熱中するように智恵の限りを尽くしているのだから、何の制限もなく子供がゲームをやっていれば当然の結果だと思う。やはり、親が何らかのストッパーにならないといけないだろう。

 ゲームが悪いといっているわけじゃなくて、「ゲームだけ」に時間を費やすことが問題だと思っているので、念のため。わんわんずも若い頃は30時間くらい続けてPCでゲームをやったりしていたので、楽しさは十分判っているつもりです。

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若者のXX離れ

2010-01-22 | 社会・経済

 よく、若者のXX離れと言われる。XXに入るのは、車だったり、理科だったり、活字だったり、音楽だったり、まあ、何でもいい。得てして、若者向けと考えられている消費が振るわないことの原因として挙げられている。

 個人の消費態度は、おおむね成長期に形作られるし、特定のメーカーや商品を買い続けるといった、いわゆる忠誠心は余程のことがないと若いうちにしか形成されない。そういう意味でメーカーが特定のブランドを若者に売りたいということは判る。

 しかし、この言葉は本当に検証されているのだろうか。昔に比べて人数は減っているし、人口構成に占める割合も減っている。その上、選択肢が増えている状況で、過去と同じような消費(時間の消費も含めて)パターンを取ることがありえるのだろうか。

 例えば、社会全体で車が贅沢品だった頃は車にあこがれる若者は多かっただろう。また、高等教育を受けることが社会的なステータスになっていた時代は、書籍に対する需要は高かっただろうし、情報伝達経路が少ない時代は雑誌が売れていただろう。(わんわんずは雑誌を「本」に含めるような立場を取っていません。余計なことだけど)

 少なくとも20年前の若者よりも、今のほうが平均的に可処分所得が減っているわけだし、現在は小さくなったパイを大勢で奪い合っている状況なんだから、簡単に若者のXX離れなどと言って納得せずに、もう少し考えてみてはどうだろうか。

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おいおい、どうしたブログ人

2010-01-18 | デジタル・インターネット

 時には自分の名前を検索するように、このブログも検索してみる。普通にgoogleとかYahoo!なんだけど、"わんわんず"で検索すると、20位以内には見つけることができる。まあ、検索履歴なんかで変動はあるにしても、SEOをまったくやっていないのだから、大したものだろう。

 ところが、Blogzineのトップページから検索すると、「該当がありません」となる。おいおい、「ブログ人の検索」なのに、どうしたことだよ……。

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国内サービスだけで経済成長できるのか?

2010-01-14 | 社会・経済

 よく、これから規模拡大が見込める医療や介護に人や資源を投入することで、経済成長を求める論を目にする。自分自身、定期的に通院しないといけない身体だし、入院したときの経験から言えば医療職が激務であることは間違いないので、現在のサービスを維持するためには相当な規模で資源を投入しないといけないことは理解している。

 しかし、言ってみれば国内でサービスしているだけで、本当に経済成長できるのだろうか。経済自体は循環しているので、最初も最後も本当はないのかもしれないが、最初に交換価値を持つものを生産しないと経済成長に結びつかない気がする。

 端的に、食料を生産する人がいないと、いくら医療が充実していても意味を成さない気がするのだ。個人や企業が一つの業種に特化するのは当然のことだけど、地域や国を挙げて医療や介護に注力するのは、産業政策として意味があるのか疑問を感じている。

 極端なケースを想像すると、ある地域の住民全員が医療職であった場合、その地域は医療以外のサービスを外部に依存しないと生きていくことができない。単純に依存することはできないので、医療サービスを外部に開放して、対価を得ることで生きていくことにならざるを得ない。

 産業の主力が一次産業から二次産業に移ったように、いずれは産業の主力が交代することは避けられない。しかし、国内でサービスしているだけでは食料は手に入れられないし、モノも手に入らない。サービス業の振興は国際分業を進めることになるのだろう。

 まだまだ考えがまとまっていない状態なので、何を書いているのか自分でも判っていない。しかし、外需が見込めないから内需だと言ってみても、国内向けのサービス業を振興するだけで、本当に経済成長ができるのだろうか。

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