断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

経済学と時間の話

2012-12-01 23:13:44 | 日銀ウオッチ
大分せんに、足利の某クライミング団体の
M氏(その筋ではそれなりに有名)が
高崎の熊撃ちのK氏と会話しているのを
聞いたことがある。
Kが、金属製の水筒がへこんでしまったことを
M氏に話したところ、M氏が、「それなら、
水筒に水を入れて、冷凍室においておけば
一晩もすれば、水が膨張して、
多少もとの形に戻る」と説明していたのである。
90年代半ばのことだったと思う。

おいらは、この説明を聞いていた時、
ちょっと古いな、今、その熊撃ちの家にある冷蔵庫の
冷凍室でそれをやったら、たぶん、水筒は
壊れるな、と思いはしたけれど、
余計な口出しはしないで黙っていた。
はたせるかな、後日、熊撃ちは言われたとおりのことをやって、
結局、水筒は割れてしまったのだそうだ。

なんでそんなことが起こったのかというと、
当時熊撃ちの家にあった冷蔵庫は、
最新型の急速冷凍ができるタイプのもので、
そんな中に水を入れた金属製水筒を置いておけば、
瞬間的に、水は凍りながら膨張し
水筒の金属は縮みながら硬直化する。
両方の動きが瞬間的に生じるから、
当然、水筒は割れる。

昔であれば、つまり、冷凍庫の機能がそれほどよくなく、
水が氷るまでにも相当時間がかかるようなものであれば、
水筒が硬直化し、縮むのにも時間がかかるであろうし、
両方の動きがゆっくりと進むので、
その結果、なじんで水筒のへっこみが
改善される、ということもあるだろう、と思う。

経営学、というか、原価計算や管理会計と、
経済学、とりわけ、ミクロ経済学の考え方の違いとして、
時間について、どう考えるのか、がある。
もう少し限定して言うと、
relevant range 原価計算や管理会計では
しばしば「正常操業圏」という訳語があてられる問題について、である。
relevant range と、言うのは、
直訳すれば、関連する範囲、相関する範囲、という意味である。
ところが、それでは意味が分からないので、
適切な日本語として選ばれたのが
「正常操業圏」というようなわけである。
これは、少なくとも、「信用創造」とか「資本の積極理論」とか
「可変費用、固定費用」とか「相対的剰余価値の生産」というような
訳語よりは、日本語にならない言語を、何とか
日本語にして意味が通る言葉にしよう、という努力の跡が見られるし、
実際、おいらも、もしもこの言葉が訳語として定着していなかったとしても
翻訳に際して選ぶなら、この言葉ということになるであろう。
まあ、訳語についてはともかく、実は、
これにあたる考え方、というか、概念は
ミクロ経済学には存在しないのである。
これが、おいらが、ミクロ経済学をマクロ経済学の基礎づけてして
用いることの危険性を感じている理由のなかで、
最大のものの一つとなっている。

簡単に言えば、企業が現時点の手許資源の下で
合理的な判断をできる環境はある程度決まっており、
それを超える変化があると、もはや合理的な判断は
できなくなってしまう、そういう範囲のことを
relevant range、日本語で正常操業圏と呼ぶ。

英語でrelevant range という言葉のもともとの意味は
上で述べたとおり、関連する範囲、相関する範囲
あるいは、相関関係をとれる範囲、とでもいうような
統計用語である。この統計用語が、なぜ「正常操業圏」という
日本語になってしまうのかは、
例えば、Horngren et al あたりの教科書でも読めば、
自然と理解できる。要は、
生産活動に投入されるそれぞれの経済資源の間の関係が
既知であり、生産水準を変化させたときの
原価や売り上げ、棚卸残高などの変化の見通しが立つ
範囲、ということである。通常企業は
様々な経済環境の変化を想定して経済活動を行っているわけではある。
そして、先行きの経済変動やそれに伴う
販売量、生産量、投入物や賃金、金利の変化、
そうしたものを予測しながら、生産計画、
調達計画、資金繰り・資金調達計画を立てている。
そのなかで、「この範囲の変化なら、何かの
経済変数が変化したとき、それに対応して
他を合理的に調整することができる」そういう範囲を
「正常操業圏」というわけだ。だから、
一見すると全然違う訳語ではあるが、
日本語として考えると、(数理的な考え方に慣れていない
日本の学生などを相手にするときには)この訳語は
それほど不適切というわけではないだろう。

そして、Horngren et al あるいはその他の教科書にあるとおり、
この正常操業圏内では、
通常、企業は、生産量の変化と諸投入資源の変化の間に
線形的な関係を想定している。(ここで線形的な、というのは
単純に生産量と諸投入量の間に一次関数的な関係がある
というよりは、生産量の変化と諸投入量の変化の間に
一元的に規定できる関係がある、という意味で用いている。)
しかし、この正常操業圏の範囲を超えてしまえば、
こうした関係は見いだせなくなってしまう。
この変化を超える生産量の変化は
現在の固定設備や固定費を前提とした場合、
どのような投入資源によってベストミックスを実現できるかは
事前にはわからないし、ましてや
固定設備や固定費を一旦調整してしまえば
現在の正常操業圏をベースとした生産量と諸投入量との間の
関係も、薄まってしまう。
さらには、同時に生産物価格や資源価格、金利まで
大きく変化してしまえば、企業は合理的な予測を立て
合理的に判断することなど不可能で、
つまり異常操業圏に踏み込むことになる、というわけだ。



企業の判断能力についての
こうした、原価計算・管理会計論的な考え方は、
経済学のマーシャル体系におけるの包絡線定理や
長期均衡の理論とは
全く異質の考え方であるし、
一般均衡論における生産可能集合(凸形状の)の概念とも
全くそぐわない。
もちろん、経済環境は常に変化しており、
企業の手許資源(生産設備や資金量)や相対価格比、消費者の嗜好も
常に変化している。だから、この正常操業圏も
あらゆる企業について、常に変化している。
この変化が、その変化自体が予想の範囲内にとどまり、
連続的で穏やかなものである限りは
さほど問題にならない。
もちろん、個別の企業にとっては浮き沈みもあろうし、
中には倒産するところも出てくるであろう。
だが、経済全体の変化が連続的なものにとどまっている限り
個々の企業が「正常操業圏」として計算できる範囲の変化も
穏便なものにとどまり、経済全体の変化が
連続的なものにとどまる。
包絡線定理や定義可能な生産可能性集合の概念が
意味を持つのは、こうした状況である。この場合には、
生産主体が、資本制経済の下での営利企業であることを
無視して、物質的な生産手段が
営利企業の資産である、という事実を無視して、
物理的な生産可能量を
経済的な生産可能性集合として定義することには
さほどひどい矛盾はない。
まさに主流派経済学は、経済全体が
静穏な状況を前提にして、その中で
個別の企業の効率性の向上は
経済全体の効率性の向上に他ならないことを
証明しているわけである。

実際には、企業が合理的・効率的に意思決定できるのは
現在の価格体系と売り上げ予想、
手許資源残高(および資源調達可能性)と
資金調達力を中心にして、
一定の狭い範囲に限られるのであり、これらが同時に変化するとき、
個別の企業にとって、

その企業が、ある特定の判断をすることによって、
その企業自身がゴーイング・コンサーンとして
存続しうる判断の集合

は、極めて曖昧になり、不連続的に
変化する。
要するに、経済環境が激しく変化しているときに
物理的諸条件から生産可能集合が定義できるというのは
全くの空論であって、実際には
この定義は、暗黙の裡に、経済環境が
企業の予想の範囲内で、
経済全体としては、
時間とともに穏やかに正常操業圏が変化するような
そのようなことを前提としているのである。
それはちょうど
へこんでしまった金属製水筒に水を入れて
冷凍庫へ置いておくようなものである。
変化が緩やかであれば、水筒のへこみは元に戻るであろう。
しかし変化が急速過ぎると
水筒は、元に戻るどころか、二つに割れてしまう。

ここでは別にミクロ経済学のことを、
無意味だだとか、無効だなどと言っているわけではない。
そうではなくて、マクロ経済政策論の基礎づけてして
ミクロ経済学を用いることの危うさについて
論じているのである。ミクロ経済学をマクロ経済政策論に
適用するときの問題点は
それが抽象的すぎるというようなことより
捨象され、切り捨てられてしまっているものが
多すぎる、ということなのだ。だから
簡単に、経営状況が悪い企業=効率性が悪い生産者
=退出すべき製品供給者・資源需要者
という図式が出来上がってしまう。
実際には、ある経済環境を前提に効率的と判断された決定は
経済環境が大きく変化してしまえば
非効率な結果をもたらすことにしかならない。
それを情報収集の不手際、予測の誤りとして、
企業の経営者の責任にしてしまえば
結果として、すべての経営者にとって合理的な判断とは
経済環境が著しく変化して
急激な売り上げや生産量の収縮の可能性が
ある程度でも予測される場合には、
投資を徹底的に手控え、手許流動性を最大限に
確保しておくことと、
固定費用を徹底的に削減することとが、
唯一の選択肢となってしまう。
企業が合理的な判断をできる前提は
少なくとも、合理的な「正常操業圏」が、一定期間にわたり
継続し、その変化が連続的なものであることが必要だ。
マクロ経済政策論に必要なのは、
そうした観点であって、いたずらに、
現実から遊離したミクロ経済学の理論を取り入れることで
見せかけの精緻さを誇ることではないはずである。

幸いなことに、あれほど隆盛を極めた精緻なマクロモデルも
リーマンショックを機に、実際の政策論モデルにおいては
IS=LMモデルまで「後退した」といわれる。
この「後退」あるいは「退化」は、
結局、精緻なマクロモデルは、変化が急激なマクロ経済環境の下では
使い物にならない、という、ごく当然の判断の結果ではあるが、
しかしその一方で、
金融政策論などを見ていると、結局、足元の企業動向や
金融機関の行動、家計の行動についてのミクロ理論が
結局、全く欠如してしまっているのである。
(リチャード・クーのバランスシート不況論が
唯一の例外か?)
おいら自身が、中小企業で財務を担当しているせいもあるが、
経済学者やエコノミストといわれる人たちの議論は、
あまりにも、地に足がついていなさすぎる。
別に、丸山真男を批判する吉本隆明を気取るわけではないが、
大学の教養理論が効果的なのは、
状況が安定しており、変化が連続的な場合だけであろう。
そうでない場合、
金融緩和をすれば、自動的にインフレが起こるとか、
震災が起きたのに、その直後になぜ円高が昂進したのかが
わからない、とか、
あまりにも現場の感覚と違う結論や問題意識を
持ちすぎている。教養のほうが先に立ち、
現場の生活感覚が全く忘れされれているのである。
(実際、震災後に円が急騰したのが、
なぜ問題になるのか、さっぱり見当がつかない。
これが、対外借り入れが多い国であればともかく、
日本のように多くの企業や金融機関が余剰資金を一定保有しており、
その少なからぬ部分を外国債券に短期投資しているような
国で、あのような震災が月の半ばに起これば、
多くの企業が、月末の資金繰りのため、
急ぎ短期の外国資産を解約し、手許流動性を高めておこうと考えることは
おいらの勤務先のようなど田舎の田んぼの真ん中の工場でさえ
当たり前の話である。これは、大学の教養「投資理論」では
そもそも考慮されていない要因であるかもしれないが、
そもそも投資資金自体が多くの企業の一時的な遊休資金によって
調達されている以上、当たり前の結論にすぎないのだが。。。
日銀は結論として、「企業の予備的資金需要」によって
この円高は引き起こされた、と判断しているが、
この判断を下すのに少なからぬ時間がかかったということは、
いささか異常ではないだろうか?というより、
多くのアナリスト、経済学者にとって、
資金とは金融市場だけの問題であり、通常の企業の資金繰りというのは
経済問題ですらないのである。)
もちろん、すべて現場が正しいわけではない。
しかし、現場にいれば3秒で感覚的に理解できることすら
全く頓珍漢な難しい説明を駆使して、
出てくる結論が全く現場の感覚からすればあり得ない話で、
そして実際、全く期待された結論が現実に現れなければ、
そろそろ、何か自分たちの考え方におかしい、
というものが浮かんできてもおかしくなさそうな話である。

などと、感じるのであるが、いかがであろうか。。。


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