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  理阿弥の 題詠blog投稿 および 選歌・鑑賞など

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みぎわさんのうた

2009年12月07日 | 八首選 - 題詠2009
みぎわさんの歌から8首。


098:電気
頭頂に煙立つみゆ電気椅子ゆ火花散るみゆ 人はかく死ぬ

091:冬
Womanのおゐどにも似てオオミヤシ冬の日本に種蒔きにくる

086:符
民族の違ひ見分ける符丁なる母国(くに)の名前を名乗れ 在日

041:越
若さゆゑの自惚れつらつら浮き上がり腰越状は哀しき手紙

025:氷
氷襲(こほりがさね)色目の枕くぼみをり若き患者の朝つつがなし

017:解
解毒剤もたずに恋は堕ちるべし泥濘ふかく身は汚すべし

012:達
裏木戸を開けて手招く日まで《死よ!》どうか達者でゐてください

002:一日
脛長媛にあらねど一日(ひとひ)の仕舞ひ湯に静脈瘤の下肢を踊らす



「わたくし」を詠った作品が多い(殊に今のネットの)短歌界において、
政治、社会などの「公」についても、多く詠まれるみぎわさん。
その直截な作風は、題詠blogの中では異彩を放っているように思う。

86番。
この一首は、採りあげるかどうか、とても迷った。
しかし、心を揺らされた(いろんな意味で)歌を黙殺してしまっては、
ごまかしになってしまうな、と思って、やはり選ばせていただいた。

この歌の主張はシンプルで明快。
「在日は通名ではなく、本名を名乗りなさい」
しかし、その本意はなんだろう。
「そうしたところで、我々は差別無くあなた方を受け入れる。だから誇りを持て」なのか、
「そうしてくれれば、日本人ヅラした朝鮮人を苦も無くあぶりだせるから」なのか。
あるいはまた別のこころがあるのか。

(「在日」という語は広くは在日外国人全般を指しますが、一般的には
 在日韓国および朝鮮人を指すことが多く、ここではそちらの
 意味で使われていると考えます。でなければ意味が通らないので。)

歌意をひとつに限定するのは、とても難しいし、最終的には不可能かもしれない。
最後に一字明けでぽつんと置かれた在日の二文字が、
冷たく叩きつけられているようにも見える。

そもそも、自分のように国や言語を選ぶ必要の無い立場で
生まれたものが安易に語れるのか、という疑問もある。
在日と一括りにしても、在日朝鮮人と在日韓国人では立場が異なるし、
また、三世、四世と世代が下ればこれまた違う。
ハングルすら読めない人も多いだろう。

そして、本来的にはこの主張をしている主体の来歴が分からないと、
じつは決定的なことは何もいえないのだ。
たとえば名乗れ、と言っている人自身が在日であった場合、
この一首は同胞へ向けての応援歌となり、あるいは一種のアジテーションともなる。

このように、主張者の立場はもとより、問題の背景まで描写するには、
短歌はあまりに言葉少なく、心もとない。
それこそが「社会問題を扱うには向かない」詩形だといわれるゆえんであり、
多くの歌人(プロもアマも)が、そのようなサブジェクトに関しては評論や
ブログなどに譲って、「わたくし事」を詠うに専念する大きな理由の一つであろう。

私がこの一首を読んですぐに思い出したのが、斉藤斎藤氏の次の歌だ。

 アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました

この歌に出くわした当時(そんなに大昔ではないけれど)、
正直いって面食らった。
「なんだろう、この歌は。一体何が言いたいんだ?」
憤慨し、混乱した。眩暈を覚えるほどに。
その頃の私は、
作者=作中主体 かつ 作者の主張=作中主体の主張
そう思い込んでいたから。
というより、そうでない考え方がある、ということ自体を、
ほとんど短歌バージンであった自分は、恥ずかしながら知らなかった。

私を含め日本人の大方を占めるであろう、「反戦」「非戦」の思想をもった、
多くの日本人は、この一首を読むとガツンとやられる。
「反対です」と漠然と思ってはいても、
そのための「こころのじゅんび」なんかしたことはないからだ。
この歌の作中主体は、
「俺はイラク攻撃に賛成するぜ。よくよく考えて覚悟したんだぜ。
 あんたはどうだい?なんとなく反対って言ってるけど、
 そうやってテレビの前で座ってるだけなんだろ?
 戦争の事なんか、ほんとは熟考したこともなく、
 時間が来ればテレビのスイッチを切って忘れるんだろ?」
そうアジってるのだ。

アジられて、憤慨した時点で、読み手はもう斉藤斎藤の術中にはまっている。
斉藤斎藤氏は、読者の心をざわめかせることが優れた短歌の使命であることを、
よく知っているわけだ。
もともと短歌という小さなメディアでは、正論を吐き、その背景を理解させ、
そして最終的に人を説き伏せる、そのようなことに関しては限界があるわけだ。
だったら、まず読者の脳味噌を一気にワシ掴みにしておいて、
あとは各々に考えさせたほうがよっぽどいい、というロジックだ。
もしこの歌が「イラク攻撃に反対です」という一首だったら?
多くの人が「うんうん、そうだよねぇ」と言いながら、
軽く読み流していたのではないだろうか。
そして歌集を閉じるのだ。テレビのスイッチを切るように。

みぎわさんが、歌作時に同じようなことを考えておられるかは、私には分からない。
しかし、次のようなことは言えると思う。
この一首を読んで、
「主義主張が自分と違う!」
と、作者本人に対して異議を表明したり、抗議したりする必要は無い、ということだ。
あるいは黙殺する必要もない。
短歌は評論ではなく、あるいは論文でもエッセイでも、新聞への投書でもないのだから。
(逆に言えば、政治的あるいは社会的な主張がしたければ、
 短歌以外の場所でやるほうがよっぽど効率がいいということでもあるが。)

もしこの歌を読んで、心がざわついたのなら、
じゃあ自分の立場はどうなんだろう、と胸に手を当てて
考えてみるのが、一番いいのではないだろうか。
少なくとも、ある種の社会問題・政治問題に対して、
自分がどういう立場で、これからどういう態度で接するべきなのか、
それを考えさせるだけの力が、この一首にはある。

短歌には、短い詩形であるからこそ備わっている、
入り口をこじ開けて、読み手の世界を大きく広げる力がある。
みぎわさんの歌は、そのことを改めて考えさせてくれた。
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