009:菜 裏庭が祖父の手放れ母の手へ野菜畑は花畑へと 065:骨 納骨をペアで済ませる祖父と祖母 遺影もペアで並んでおりぬ 038:空耳 「さようなら」空耳じゃない祖父は言うびっくりしながら「さようなら」言う 032:苦 漢方の苦い薬を飲んでいる痴呆に効くと調べれば出る 029:利用 夜もすがら溶け合うような愛しさで私的利用をしてみたい夏 『あいうえおあお』 |
母方の祖父は庭づくりが好きで、祖母は美術や音楽が好きだった。
祖父母が亡くなるとすぐ、伯母が手のかかる庭の樹をみな切り倒し、
画集もレコードも全て売り払ってしまった。
一軒家は見る影もなく、今風に改築されて貸し出された。
もともと伯母夫婦が祖父母の側に住んで、彼らの面倒をみていたのだから、
遠方の自分に文句を言える道理はない。
そして、世界は生者のものなのだ。疑いようもなく。
しかし、人はどんなあり方で他者の存在を認めるかを考えると(そのひとと相対している時を除けば)、
もちろん彼/彼女を想起することによって、それに他ならない。
つまりその場に居ないときに人間は、生者であれ死者であれ、
思い出してもらうことによって同じように生かされるのである。
伯母が思い切りよく全てを抹殺してしまったのは、私には衝撃だった。
故人を思い出すことは、彼女には辛すぎたのかもしれない。
だから何もかも無くしてしまったのだろう。
だが、もう少し穏やかで優しいバトンタッチの方法はなかっただろうか―――
そう、野菜畑を花畑として活かすように。
かつてそこにあったものを思い出させる、そんなよすがが僅かでもあれば、
人は生の終わったあとも、長く生きていけるのだから。
祖父の樹と祖母の画集を売り急ぐ疎遠の伯母に会うときの顔 理阿弥
祖父祖母の骨董品を売りさばく物に埋もれた晩年悲し 畠山 拓郎
物に埋もれた晩年悲し。いい歌ですね。
祖父母の世代って、とにかくモノを捨てなかったような気がします。
自分の生活を振り返ると、後世に残すようなものは
何ひとつ持っておらず、潔いようでいて、虚しいような…
お家、風情をいかしたカタチでリフォームできるといいですね。
なにかひとつふたつ、残るだけで違うのかもしれません。
今年もたくさんの歌を読ませていただきました。
ありがとうございました。