Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

チューリッヒの図書館で

2014-06-09 18:54:52 | 日記

★ 1916年から、レーニン夫妻は、チューリッヒに移った。ここの図書館がとくにレーニンの気にいったからであった。
チューリッヒの生活も「どん底」というべきもので、狭くるしい袋小路の靴屋の一室に住んでいた。クルプスカヤの記すところによれば――
「おなじ部屋代で、ずっといい部屋を見つけることはできたのであるが、私たちは主人夫婦を尊重したのである。ここは労働者の家庭で、革命的な気分があり、帝国主義戦争を非難していた。この家はまさにインターナショナルであった。主人夫婦が二部屋に住まい、他の一つにはドイツ人の兵隊、パン屋の妻が子どもたちとともに住み、第二の部屋にはあるイタリア人、第三の部屋にはオーストリアの俳優たち、にんじん色の子猫、そうして第四の部屋がわれわれロシア人であった。ここにはショーヴィニズムのにおいはすこしもなかった。」

★ このような環境のなかで、1916年の秋から17年の初めにかけて、レーニンは理論的な仕事に没頭した。朝は9時までに図書館にいき、12時まですわりどうし、ちょうど12時10分に帰宅して、昼食後はまた図書館に出かけて6時まですわりとおした。家で勉強するのは不便であった。彼らの部屋は明るかったけれども、外庭に面してソーセージ工場が建っており、悪臭がひどくたちこめていたので、夜ふけになってからでないと窓をあけることができなかった。

★ まったく目立たない存在だった。この中立国スイスで、各国の外交官は一、二年前まで交際していた人々も、たがいに敵国人としてそ知らぬ顔をしてすれちがいながら、しかも当然、情報網は縦横に張りめぐらされていたのであるが、この貧相なウラディミール=イリッチ=ウリヤノフに注意を払うものはなかった。著名な社会主義政党の指導者たちについて侮蔑的に語り、その方法を正面から批判するこの狷介とも思われる人物が、無産者たちの小さなカフェーに招く会合には、せいぜい15人か20人の青年が集まる程度だった。

★ この年、彼はヴェルダン要塞の攻防戦を聞きながら、有名な『帝国主義論』を脱稿した。彼は戦争の進展につれて、反戦運動が強まり、革命の機運の進むことを疑わなかった。しかし、それがいつになるかは予知できなかった。1917年1月22日、チューリッヒの人民ホールで、1905年のロシアにおける「血の日曜日」の12周年を記念して一場の講演がおこなわれたが、47歳のこの亡命革命家は、きたるべき革命がプロレタリア革命、すなわち社会主義革命であることをくりかえし強調しつつも、講演を次のように結んだ――
「われわれ老人は、もしかすると、この革命の決定的戦闘まで生きのびられないかもしれません。」

<江口朴郎責任編集『第一次大戦後の世界』(中公文庫・世界の歴史14―1975)>




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