Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

単独性と“世界市民”

2014-03-25 14:09:01 | 日記

★ ここで私は混乱を避けるために言葉を定義することにしよう。まず一般性と普遍性を区別する。これらはほとんどつねに混同されている。そして、それはその反対概念に関しても同様である。たとえば、個別性や特殊性や単独性が混同されている。

★ したがって、個別性-一般性という対と、単独性-普遍性という対を区別しなければならない。

★ たとえば、ドゥルーズは、キルケゴールの「反復」に関してこう述べている。《わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりの一般性と、単独的なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなす》(『差異と反復』)。ドゥルーズは、個別性と一般性の結合は媒介あるいは運動を必要とするのに対して、単独性と普遍性の結合は直接(無媒介)的であるといっている。これは、別の言い方では、個別性と一般性は、特殊性によって媒介されるが、後者はそうでないということである。ロマン派においては、普遍性は実は一般性というべきものである。

★ たとえば、ヘーゲルにとって、個別性が普遍性(=一般性)とつながるのは、特殊性(民族国家)においてであるのに対して、カントにとって、そのような媒介性は存在しない。それはたえざる道徳的な決断(反復)である。そして、そのような個人のあり方は単独者である。そして、単独者のみが普遍的でありうる。むろん、これはカントではなくキルケゴールの言葉であるが、根本的にカントにある考えである。

★ 個人は、たとえば、まず日本語(日本民族)のなかで個々人となる。人類(人間一般)というような普遍性はこのような特殊性を欠いたときは空疎で抽象的である。「世界市民」が彼らによって侮蔑されるのはいうまでもない。それはいまも嘲笑されている。しかし、カントは「世界市民社会」を実体的に考えたのではない。また、彼はひとが何らかの共同体に属することそれ自体を否定したのではない。ただ思考と行動において、世界市民的であるべきだといっただけである。

★ 実際上、世界市民たることは、それぞれの共同体における各自の闘争(啓蒙)をおいてありえない。

<柄谷行人『トランスクリティーク-カントとマルクス-』(岩波書店・定本柄谷行人集3、2004)>





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