Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

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1985年

2009-09-26 22:12:19 | 日記

まず最近ぼくが“たまたま”読んだ文章を引用するので、この文章が“何年に書かれたか”を当ててほしい;

★ 脳死の問題とは、人間はいつ死ぬのかという問題である。これまで常識的に「心臓死」、つまり心臓が止まったときに人は死ぬものとされていた。けれども人工呼吸器などの発達によって、脳が死んでも、心臓は生かしつづけておくことができるようになった。そこで心臓死よりも以前の、脳死の段階でも人間を「死体」と扱ってよいかという議論がおこる。このような主張が積極的にでてくる背景は、心臓などの移植のために、生きている臓器を医師が早くとりだしたいからである。
今年に入って日本でこの問題が、「政治的」にも急速に熱い問題となった理由は、このような医師団体と一部議員のつきあげをうけて、「厚生省が積極的に音頭を取って、脳死をもって人間の個体死を認める方向に社会の合意をとりつけようと動きを開始しているから」である(立花論文)。


この文章には日付がある。
1985年10月29日である。
この執筆者見田宗介はこの年、朝日新聞の“論壇時評”を書いていた、その10月の文章である(講談社学術文庫『現代日本の感覚と思想』1995の第2部“夢よりも深い覚醒へ”より引用)。

ぼくがここで注目するのは、“脳死はひとの死か”という問題以前の、“時間の問題”である。

すなわち、2009-1985=24なのである。
“24年”が経過した。

そして今年(2009)に、脳死がひとの死であることが“法制化”された。

24年前といえば、ぼくもまだ、40歳前だったのである(爆)
ひとの一生での“24年”は、スンゴク長い(というより、激しく変動する)

しかしこの間、“ひとの認識”は変化(進歩!)したであろうか?
たしかに“厚生省が積極的に音頭を取って、脳死をもって人間の個体死を認める方向に社会の合意をとりつけよう”という動きは、“政治的に”功を奏した。

問題は、この24年間に、人びとが、“脳死がひとの死であるか”ということを、なんら考えてきた気配が、ないことである。

またぼくは見田氏を“個人攻撃”したいのではないが、いったいこの東大社会学の重鎮は、現在、このような事態に対してどう考えているのかを問いたい。

ぼくは、見田氏の著書に啓発されてきたし、見田氏の“弟子”には大澤真幸らの優秀な方々がいらっしゃることを存じている。
今後もぼくは、見田氏(真木悠介氏)や大澤氏の著書を読ませていただくつもりである。

けれども、端的に言って、彼らの言葉は(言葉も)、この24年間の“ニッポンの無思考”に指一本触れ得なかったのではないか。
もちろんこれは、彼らの“個人的責任”ではないだろう。
ならば、“東大”には責任がないのだろうか。
あるいは、“東大的な人々”の言説で、“まだ商売できている”メディアや良心的出版社(たとえば岩波書店)“自身には責任がないのであろうか。

見田氏の言葉は24年前のこの本に収められた文章でも、“正当である”だけでなく、“美しい”。
けれども、これらの“美文”は、“ほんとうに”現実に拮抗してきたのだろうか。

“夢よりも深い覚醒へ”

美しい言葉だ。

しかしこの24年間の“現実のリアル”は、けっして“夢よりも深い覚醒”をもたらしては、いない。

もちろん“するどい”見田氏は、“24年前に”気づいていた;

★ 他者の死を待つ動物たち、それは、わたしたちであるかもしれない。死を待たれている身体も、またわたしたちであるかもしれない。
この血なまぐさい問題を抽象的に片付けるために、脳が死んだらその人間は「死んだ」と定義することにきめてしまおうと、オペレーショナルな理性はしている。(オペレーショナル。操作的/手術的。近代理性のいちばんスマートな手法は、現実の生々しい問題を、言葉の「オペレーショナルな」定義によってすりぬけてしまう仕方である。)
★脳死の状態の人間を「死体」として定義してしまおうという、立法化による解決は、この究極の倫理ともいうべき<自己提供>の思想をさえ、悪魔の倫理に転化するだろう。
(前掲書より引用)


では、どのようにすれば(生きれば)いいのか?

★ 欲望のない存在へではなく、執着なしに欲望する存在の方へ。(引用)


ぼくはここでの見田氏の論旨を支持する。

なによりも、以下の引用部分に;

★ オペレーショナル。操作的/手術的。近代理性のいちばんスマートな手法は、現実の生々しい問題を、言葉の「オペレーショナルな」定義によってすりぬけてしまう仕方である。(引用)


しかし、<オペレーショナルな理性>から、東大や日本の大学にいる“先生方”はまぬがれてきたのだろうか?まぬがれているのだろうか?

テレビで、新聞で、雑誌で、本で、授業で、講演で、しゃべりまくり、書きまくる方々の“言葉”は、<オペレーショナルな理性>に侵食・腐蝕されてきたのではないのだろうか。

それは、見田東大教授の方が、内田樹神戸女学院教授より“マシである”などという、コップの中の比較の問題とは思えない。

ぼく自身も《夢よりも深い覚醒へ》というような言葉を、このブログに書きえたなら“満足”であろうか。

もちろんそれは、女子学生に囲まれてはしゃいでいる、“ハーレム状態”の某教授よりは、すぐれた言葉である。

しかし、(くどいが)、これらの美しい言葉に感動しているうちに、24年間は夢のごとく過ぎ、<オペレーショナルな理性>が、“法”として、現実を次々と規定していくのだ。

これからの“24年間”を生き得ないものとして、これからの“24年間”を生きるものたちへ、警告したい。






<追記>

ぼくがこのブログのタイトルを“1985”とした時に、今年のベストセラー小説のタイトルが頭になかったなどということは、決してない。

あの小説については、
<夢よりも浅い愚昧へ>
とでも呼べば、充分である。

村上春樹が、なぜあのように愚鈍な夢しか見れなくなったのかも、この“時代の”問題(徴候、症例)である。
あるいは、村上春樹は、“あのような夢”が売れることを自覚したのだろうか。

ぼくたちは、“現実に”、もっと深い夢をみているのではないか。

あなたの夢に、あなたがみずからの言葉をあたえられないうちに、あなたの言葉は、愚昧な多数の言葉(夢)に奪われているのだ。

あなたの夢と、それにともなう言葉を奪還すべきである。

そのときこそ、《夢よりも深い覚醒》はおとずれるであろう。


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2 コメント

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宗教の出番はないのか? (rabbitfoot)
2009-09-27 13:15:56
日本で「脳死は人の死か否か?」の議論が前へ進まないのは、宗教が介在しないからではないのでしょうか?
物理的な「判定」では、人の死は決められないと思っています。
Unknown (warmgun)
2009-09-27 15:25:26
はじめまして。

ぼくのブログは、結論があって書いているのではないわけです。
だから、このブログがこれだけの長さを必要としたのは、この時点でのぼくの考えのプロセス自体を書いたからです。

どうもブログとかの文章を書くと、なにか“結論”を読者に押し付けることになってしまいますが、ぼくはほんとうは、そういうことを、あまり望んでいません(まったく望まないのでは、ありませんが)
また“あなた”とか“君”とか呼びかける場合も、当然、読者に言っているのですが、“自分自身”にも言っています。

このブログの場合も、“脳死をひとの死として法制化する”ことに異議をとなえることが、“核心”ではありません。
24年間、“ぼくをふくむ日本人がなにも考えてこなかった“という驚きを述べたものです。

《物理的な「判定」では、人の死は決められない》というのは、おっしゃる通りだと思います。
けれども、現在のぼくの考えでは、“宗教が介在する”ことの必要性ということは、この脳死の問題だけでなく、感じられません。

ただし、そもそも“宗教”というのが何を意味するのかは、ぼくにとっても問題です(つまりまだ結論はありません)
ぼくがここで“宗教が介在する必要を感じない”と述べたときの“宗教”というのは、既成宗教や新興宗教のことです。
いま、なにかを考えるために、いわゆる“宗教”が必要であるとは、思いません。

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