楽しく遍路

四国遍路のアルバム

松尾寺 金毘羅宮 金刀比羅宮 奥社 善通寺へ

2018-02-07 | 四国遍路

 
この記事の末尾へ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ


松尾寺へ 
松尾寺への案内板です。
   金毘羅大権現を祀る寺 松尾寺 曼荼羅霊場16番札所 
曼荼羅霊場とはHPによると、・・平成元年に巡礼の聖地、四国の幾千年の歴史を誇る代表的古刹八十八社寺が神仏の力を結集し、マンダラ(曼荼羅)の世界を作り上げました。 これが私達の「四国曼荼羅霊場」です。・・とのことです。
・・神仏の力を結集・・して、神仏の習合(折衷)でも、混淆(入り混じり)でもない、新しい信仰世界を造りたい、そんな意気込みが記されています。


松尾寺山門
金毘羅大権現の「金毘羅」は、ヒンドゥー語でワニを意味する、クンピーラの音訳だと言われています。ガンジス川の女神・ガンガーを乗せるワニ(クンピーラ)が神格化され、日本に飛来してきました。
大宝年間(701-704)、役行者が山中(現在の象頭山)で修行中、クンピーラ神を感得。これを金毘羅神として、祀ったと言います。松尾寺の創まり譚です。役行者は松尾寺の開山とされ、神変大菩薩と呼ばれています。
「大権現」の称号は、江戸時代、本地垂迹説の影響を受けて冠せられました。金毘羅神は、仏教の中では、仏法護法の善神、薬師如来十二神将の筆頭、宮比羅大将(くびら大将)とされています。宮比羅大将が神の姿で顕れたのが金毘羅大権現、となります。


松尾寺
松尾寺は金毘羅宮の別当寺でした。つまり、神仏習合の頃、松尾寺は、金毘羅宮の本体ともいえる存在でした。しかし、神仏分離→廃仏毀釈の嵐の中、松尾寺は廃寺とされ、金毘羅大権現も、その存在を否定されることになります。
「金毘羅宮」(こんぴら宮)から仏教の要素がすべて排除され、社名も「金刀比羅宮」(ことひら宮)と、音と字が似てはいるが非なる社名に、改称されました。ただし、あまりにも人口に膾炙した「金毘羅さん」の愛称は捨てがたく、ひらがな書きの「こんぴらさん」として残しています。山名の象頭山も、クンピーラ神が棲む宮に因むともされますが、実際、象の頭に似てもいますから、残しています。


山門大権現
そんなわけで、金刀比羅宮は今でも「こんぴらさん」です。ですが、「金毘羅さん」ではありません。金毘羅大権現は、♪そこに私はいません・・と、おっしゃっています。代わって「こんぴらさん」(金刀比羅宮)にいらっしゃるのは、後述しますが、大物主神です。
現在の松尾寺は、廃寺となった旧松尾寺の塔頭であった普門院が、その法灯を継いで、再興したものです。
  旧 松尾寺    象頭山 金光院 松尾寺
  再興松尾寺  象頭山 普門院 松尾寺


象頭山
金毘羅信仰は、古代、航海民が象頭山(と後に呼ばれるようになる山)を、航海安全の神として尊崇したことに始まります。人々は、いつまでも安全な航海がつづきますようにと、目当て山であるお山に向かい、手を合わせていたのでした。
自然なる存在への崇拝から始まる信仰に、大きな変化をもたらしたのは、「仏教伝来」、とりわけ光り輝く人型仏像の登場でした。
見える神さまが異国からやって来たのです。日本の神さまも、変わらざるをえませんでした。


象頭山
それまで不可視の存在であった日本の神々のなかに、「人格神」が登場するようになりました。神の「物語」が語られ、「神社」が建てられました。神さまが「定住」されましたから、人は巫女を介することもなく、自分の都合で、神を拝することが出来るようになりました。巫女の役割は、神を「降ろす」ことにありました。
「象頭山」の神にも人格神の名が冠せられ、社が建てられました。神の御名は大物主神(おおものぬし神)。神社は琴平社と呼ばれたそうです。
ただし琴平社に祀られる大物主神は、未だ地方神であるに留まっていました。その頃、航海神としてビッグな存在は、大山祇神や宗像三神でした。


丸金印
「象頭山」の神が全国区的存在となるのは、金毘羅神が飛来してからのことでした。
金毘羅神は、ヒンドゥー教ではワニ神でしたが、飛来先の日本では、龍神とされたようです。大物主神が蛇体をもつことと関わるのかもしれません。また、河に棲むワニを知る人はいませんでしたし、ワニは、古語ではフカを意味していました。もちろん龍も、(想像上の存在ですから)、知る人はいないのですが、想像は自由です。龍神の大いなる神力が、無辺に信じられたようです。
琴平社の大物主神は、金毘羅神への信仰が高まってくるとともに、後景に退き、ふたたび前面に出るのは、明治時代、廃仏毀釈の嵐の中でのことになります。


金刀比羅宮の丸金印
金毘羅大権現はご利益のウイングを、海難除けから雨乞い、豊作、金運、商売繁盛へと広げ、江戸時代中期から末期にかけて、金毘羅参り熱は、爆発的にたかまりました。
「丸金か京六か」・・「丸金」とは金毘羅大権現のこと。「京六」とは、京六条にある東西の本願寺のこと。・・「丸金」は「京六」に並ぶ信仰地とされ、一生に一度は金毘羅さんへ!が庶民の願いとなりました。
お座敷唄や講談にも、金毘羅さんが登場します。
  ♪金毘羅舟々 追風に帆かけて シュラシュシュシュ・・
  〽寿司くいねぇー 寿司くいねぇー・・アイドルグループのそれではなく、石松金毘羅代参 三十石舟道中の方です。


高灯籠
金毘羅参りは、丸金印の帆を揚げた、金毘羅舟で参る人が多かったようです。
灯籠は高さ28㍍ほどで、舟から見えたと言います。舟の灯台代わりになっていた、とも言いますが、これは、はたしてどうでしたでしょうか。地方乗りの時代では、夜間の航海はたいへん危険でした。客を乗せる船はたいてい、湊で夜明けを待っていました。
とまれ、金毘羅舟から降りた参詣者が、この高灯籠を目標に歩いたのは事実のようです。およそ12キロを賑やかに歩いて、金毘羅さんに着いたと言います。高灯籠の建立は、安政6(1859)だそうです。


備前焼の狛犬
金毘羅舟には、88ヶ所巡りの人もたくさん乗っていたようです。寂本さんは四国遍礼霊場記に、・・金毘羅は順礼の数にあらずといへども、(略)、遍礼の人当山に往詣せずといふ事なし・・と記しています。札所ではないけれど、皆さんお参りしていたようです。
また真念さんは、自著の「四国遍路道指南」と寂本さんの「霊場記」を、丸亀の書肆に置きました。丸亀から88ヶ所巡りの円環に入る人が多く、その人たちの便宜をはかったと考えられます。
なお、明治の鉄道開通を機に、丸亀湊の繁栄に陰りが見え始めます。


備前焼の狛犬
真念さんは、「道指南」と「霊場記」を’うけらるべき所’を、5ヶ所、記していますが、それらは大阪の2箇所と、四国の3ヶ所です。
四国の、丸亀の他の2ヶ所は、近畿から来る人の多い阿波徳島と、九州からの人たちが上がる宇和島の満願寺でした。・・真念さんは、得た収益を満願寺復興に充てています。・・丸亀には、中国方面の人たちが多かったようです。
写真の、備前焼の狛犬は、岡山の金毘羅講「長栄講」により、天保15(1844)、奉納されたとのことです。高さ五尺、と言います。


一の坂
幕末の絵図を見ると、この辺は坂道になっています。まだ石段ではありません。
これより本宮まで785段。奥社までなら1368段だそうです。私は今回は、奥社まで上ります。


賑わい
石段の両側に、土産物店や食べ物屋さんが櫛比。賑わっています。
ただしそれは、大門までです。その先での商い行為は、特別の例外を除いて、許されていません。


大門へ
名物の駕籠も、大門までです。駕籠屋さんは、「許してくれたら、奥の院でも行くけどね」と元気に話してくれましたが。


琴平の街
大門から見た琴平の街です。ギリギリまで店が来ていますが、ここまでです。


五人百姓
大門の先で唯一、商いを許されているのが、五人百姓です。五人百姓は境内で、加美代飴(かみよ飴)を売っています。
説明看板は、五人百姓とは、・・お宮の神事における役目であり、古書物によると、すでに明応年間(1492-1502)に五人百姓の神事に冠する記事が見受けられる。起源も至って古く、当山の草分けといわれ、先祖は御祭神に供奉をし、特に功労があって、お宮の境内・・と記しています。
神事において、「五人百姓」としての役目を果たしてきた、その功労を認められ、宮域内での商いを許されている、とのことです。


五人百姓
説明看板は続けて、・・(境内で売っている)加美代飴は、古くはお宮のご饌米を原料としていたものと伝えられて、古来から讃岐の代表的名物として広く・・とあります。饌米とは、神前に供える洗米を言います。
加美代飴は、今は、べっこう飴ですが、古くは、米の糖分でつくる、「阿米」(あめ)だったことがわかります。阿米は水飴だったでしょう。
べっこう飴の原料である白砂糖は、古くには国内生産されておらず、従って、べっこう飴は作れませんでした。オランダや中国からの輸入品があるにはありましたが、そんな超高級品が、土産品の原料に使われたはずはありません。


五人百姓
阿米がべっこう飴に替わるのは、早くても、天保(19C前半)以降と考えられます。高松藩が白砂糖の生産技術を確立したのが18C後半の頃、ようやく出回り始めたのが、19C前半でした。
高松藩に続いて丸亀藩、また徳島藩などでも、白砂糖が生産され始め、相変わらず高級品ではありましたが、国内需要に応え始めました。讃岐の白糖は、天保の頃には、国内生産の6割を占めたともいわれ、塩・綿とともに「讃岐三白」として、藩財政を支えていたとのことです。なお、綿ではなく、米またはウドンとの説もあります。


元祖御飴
大傘の白は、神域の清純を表すと考えられますが、また、讃岐三白の白を示すのかもしれません。とまれ、加美代飴がべっこう飴に替わった背景に、「讃岐三白」の伝統があるのは、間違いないでしょう。
時代により「百姓」の実体は異なりますが、「五人百姓」さんたちの社会的経済的地位は、けっこう高かったようです。


こんぴらさん
鳥居の扁額は「金刀比羅宮」となっています。
横断幕は「しあわせさん こんぴらさん」です。「金毘羅さん」ではないことは、前述しました。


神木楠 
神木の楠です。幹周り約4.7㍍、樹高約25㍍とのこと。
400段ほど上った所にある広場に、神木、御厩、こんぴら狗の像、奉納品の巨大スクリューなどがあります。


神馬
御厩には二頭の馬がいました。神さまがお乗りになるための馬で、シンメあるいはカミノウマと言うそうです。もう一頭は鹿毛でした。
「お十日」では、男児二人の「お頭人さま」を乗せて、神輿(シンヨ)に供奉します。この列に、五人百姓もいたのでしょう。なお、女児の「お頭人さま」は、駕籠に乗ります。


こんぴら狗(いぬ)
「金毘羅代参」と記された寄進袋を、首に巻いています。こんぴら狗に会うと、金毘羅参りの人は、見て見ないふりをすることはできません。金毘羅さんまで連れて行き、連れ帰ったそうです。
「流し樽」という代参もあったそうです。初穂(賽銭)を入れた樽に「奉納金毘羅大権現」の幟をつけて流す。これを見つけた船が届けると福があるというもの。木材を流したこともあったそうです。
かつて人は、信心深い以前に、人として素直だったのでしょう。


スクリュー
直径6㍍。車5000台搭載可能の船を、このスクリューが動かすのだそうです。イマゾーこと今治造船が、航海安全を祈願して、奉納したとのことです。


旭社へ
幅広の大石段の上に見える大きな屋根は、旭社です。右端は廻廊。
旭社が祀る神は、・・天地(あめつち)初めて発けし(ひらけし)時、高天原に成れる・・造化の三神、すなわち天之御中主神・高御産巣日神・神皇産巣日神。国生み・神生みの神である伊弉諾尊・伊弉冉尊。皇祖神である天照大神。そして天津国津の八百万の神々、です。
思うに旭社は、御本宮が祀る大物主神と、大和の神々をつなぐ存在であるようです。
大物主神が、その和魂(にきみたま)であるとする大国主神は、国津神の総帥です。そして、ご存知のように、出雲の神です。出雲と大和、国津神と天津神を結ぶ、なんらかの祭祀が、必要だったと思われます。


旭社
御本宮と見まごうばかりの立派さです。天保時代の建築だと言います。
遠州森の石松が、早っとちりして御本宮と間違えたのも、無理はありません。旭社は、(前述しましたが)神仏習合の頃は、金光院松尾寺の金堂でした。今は金刀比羅宮の末社と位置づけられています。
軒天井にワニ(クンピーラ)の彫刻がありますが、写真の写りが悪く、掲載できません。残念です。


回廊
旭社の前の廻廊には椅子が置かれ、格好の休憩所になっています。ここで一休みして、本宮へ向かいます。
旭社へは、本宮に参った後、お参りすることになっています。


御本宮
説明看板に、次のようにあります。・・(主祭神の大物主神は)大国主神の和霊にあらせられる。農業を始め水陸交通、医薬、技芸等、あらゆる産業や文化に顕著な神徳を発現せられたので、国土は大いに治まり、民生は安定した。
和魂とは、同一神の別の側面、とでも言えましょうか。


神楽殿
神楽の始まりは、天照大神が岩戸隠れなさったとき、天宇受賣命(あめのうずめ命)が踊った、「舞」にあると言われています。
これにより天宇受賣命は、技芸上達の神とされていますが、また天宇受賣命は、瓊瓊杵尊の天降りに随伴した、五随伴神のうちの1柱でもあります。天の八衢(やちまた)で・・道がいくつにも分かれている所で・・国津神の猿田彦命に「舞」を見せると、猿田彦命はこれに応えて、天降りの一行を先導しました。それがなれそめで、天宇受賣命は猿女という名をもらい、猿田彦命と夫婦になったとも言います。ここにも天津神と国津神の和合譚があります。


絵馬殿
生きた馬を奉納されても、正直、世話がたいへんで、困ってしまう神社もあったのでしょう。そんな時、絵に描いた餅ならぬ、絵に描いた馬ならば、納める側の負担も、そして受ける側の負担も、ずいぶん軽くなります。


丸亀平野
讃岐平野の中央部、丸亀平野です。土器川と金倉川に挟まれています。


奥社へ
奥社域への入り口に、「奥の社へお詣りの皆様方へ」の立て札が立っています。
・・白峰神社・奥の社のほか二つのお社が行く先にまつられ、由緒が記されています。山岳信仰・山伏・修験道ともかかわり深い神々です。(略)・・とあります。
ほか二つのお社とは、常磐神社と菅原神社です。


守れ権現
北原白秋の作詞であるとも、慶応大学山岳部歌であるとも知らず、聞き覚えて歌う高校生が、かつて、いました。格好いいつもりでした。ビートルズはまだ到来していない頃の話です。
  ♫守れ権現  夜明けよ霧よ 山はいのちの みそぎ場所
   行けよ荒くれ どんどと登れ 夏は男の度胸だめし


常磐神社
祭神は、武雷尊(たけみかづち尊)と誉田和気尊(ほんだわけ尊)。武雷尊は、天孫降臨に先立って出雲に下り、大国主神に国譲りを談判。成就させます。反対した大国主神の子神・建御名方神(たけみなかた神)とは、戦って降しました。雷神ですが、武神でもあります。誉田和気尊は後の応仁天皇。天孫族の神さまです。八幡さまと親しまれていますが、こちらも武名天下に鳴り響く神さまです。


常磐神社
社名の「ときわ」は、広辞苑によると「とこいわ」の約で、常に変わらない岩、永久不変なこと、を意味します。天孫降臨に始まる、日本(豊葦原中国)の常磐なることを、武神に願っているのかもしれません。
ただし、仏教にあっては、諸行無常 是生滅法、永久不変のものは一つもない、が基本ですから、「常磐神社」は、神仏が分離された明治以降のもの、と考えられます。


白峰神社
白峰神社(しろみね神社)は、崇徳院を祀る神社です。院は、保元の乱で讃岐に流され、不遇のうち崩御なさいました。また御母、山の神である大山祇神も祀られています。社殿は大正2年の建造だそうです。
私たちは79番高照院(天皇寺)、81番白峰寺で、崇徳院と再びお会いすることになります。H25初夏7 をご覧ください。


菅原神社
白峰神社の次が菅原神社とは!
しかし怨霊つながりではありません。讃岐つながりです。菅原道真公は、太宰府に流される前、讃岐守を務めたことがあります。私たちは80番国分寺へ向かう途中、讃岐府中の辺を通過します。 H25初夏8 をご覧ください。


石段
長い石段です。私は石段が苦手です。


奥社
奥社は正式には、厳魂神社(いづたま神社)と言います。
祭神は、・・金毘羅大権現第四代別当金光院宥越にして、今日、金刀比羅本教教祖として仰がれる厳魂彦命・・とのことです。「金光院」は、金毘羅大権現別当寺松葉寺金光院です。
宥越は慶長18(1613)、・・死して金刀比羅宮の守護たらんを誓い、・・姿を隠されました。奥社は、その遺志により、明治38(1905)、御本宮に向けて建てたものだと言います。元は威徳殿といわれ、絵馬殿の付近に鎮座していたと言います。奥社域は明治以降、時間をかけながら、整えられたようです。


景色
海抜は421メートルからの景色です。


善通寺へ
長い石段を下りて、・・これより75番善通寺へ向かいます。
真念さんは「遍路道指南」の善通寺の項に、・・こんぴらへかくるときハ、爰に荷物おき行。壱里半しるし石有。・・と記しています。善通寺に荷物を預け、金毘羅さんまで、片道約6キロを往復したようです。


善通寺へ
赤煉瓦のトンネルです。


司令部跡
明治38(1905)、日露戦争勝利報告の陸軍行進が挙行されました。行進を通すため、鞘橋が神事場近くに移されたことを、前号に記しましたが、その行進の部隊が、第十一師団でした。
第十一師団は四国編成の師団で、乃木希典大将率いる第三軍に編入され、旅順攻略戦に参戦した師団でした。日本海海戦とともに、日露戦争の勝敗を左右する作戦だったと言いますから、行進が熱狂的に迎えられたであろうことは、想像に難くありません。初代の師団長が乃木(当時は)中将でしたから、なおさらだったでしょう。


赤煉瓦の建物
今は自衛隊が駐屯しています。


夕日
我拝師山にきれいな夕日が沈んでいました。次は善通寺に向かいます。
善通寺の次は、海岸寺です。真魚ゆかりの地を訪ねることになります。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。次回更新は5週後の、3月14日とさせてください。春遍路の報告が出来るかも・・。

 この記事のトップへ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加