楽しく遍路

四国遍路のアルバム

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2017-03-08 | 四国遍路

 
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久万高原の朝
大宝寺はとても古い寺のようです。「一遍聖絵」(鎌倉時代)は、菅生寺(大宝寺の前身と考えられる)の興りを、次のように書き始めるそうです。
・・ 昔、仏法いまだひろまらざりしころ、・・
仏教は6世紀半に公伝したと考えられていますから、「昔・・ひろまらざりしころ」は、6世紀半よりも前の頃、ということでしょう。私見では、5世紀頃?でしょうか。


山門
その頃、安芸国の猟師が菅生の・・この地名はまだありませんでしたが・・山中、光り輝く処に、仏菩薩を感得しました。
・・この猟師、仏菩薩の名躰いまだしらざりけるが、自然発得して観音なりといふ事をしりぬ。・・
たちまち帰依の心がおこり、猟師は自分の菅蓑を観音さまにさしかけ、草舎をつくってさしあげました。


久万盆地
三年後、猟師が再びその地を訪ねてみると、草舎は跡形もありませんでしたが、菅蓑の菅が根づき生い茂るなか、仏菩薩は赫奕(かくえき)としておはしました。(美しくも光り輝いておられました)。
猟師は、・・いとうれしくおぼえて、かさねて精舎をかまへ、荘厳をいたして(本尊をお飾りし)、菅生寺と号し、あらためて帰依のこころざしを深くしたのでした。
かくて菅生寺が創りました。しかし、まだ大宝寺ではありません。



大宝寺が始まるのは、その名が示すとおり、大宝年間(701-704)です。四国遍礼霊場記(江戸時代)は、おおよそ次のように記しています。
・・文武天皇の御宇、大宝元年(701)のことです。菅生の山中に入った猟師が、光射す一所を見つけました。十一面観音像が輝いているのでした。猟師は堂を建て、菅を敷き、菅で掩い、像を安置してさしあげました。
かくて大宝寺が誕生しました。


石仏
山号は、・・菅を班ます(しきます)が故に菅生山と号し・・と四国遍礼霊場記にありますが、すでにおわかりのように、大宝寺の伝承と菅生寺の伝承は同根ですので、山号・菅生山は菅生寺に由来している、と考えていいと思います。


地蔵堂
二つの伝承は同根で、大筋は同じですが、時代の相違を反映しているのでしょう、違いも生じています。
菅生寺の伝承では仏菩薩が「感得」されるのに対し、大宝寺伝承では、具体的に、十一面観音菩薩の「像を見つけ」ます。
感得譚では、菩薩は存在すべくして存在していますから、それ以上の説明は不要ですが、猟師が「像を見つけた」となると、・・


大宝寺山門
その仏像はなぜ菅生の山中に在ったか?が問われることになります。
答を探していると、大宝寺の公式HPに出会いました。出典はわかりませんが、次のように記されています。
・・(この寺の)縁起は大和朝廷の時代まで遡る。百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。・・
この像を、後年(大宝元年になって)、猟師が見つける、と譚はつづいくわけです。


大宝寺山門
「大和朝廷の時代」は4-7世紀ですが、前述のように6世紀半、仏教が「公伝」しますから、百済の僧が菅生にやってきたのは、4-5世紀頃ではないでしょうか。
四国は早くから渡来文化の洗礼を受けており、秦氏(→幡多郡)の移住は、一説には5世紀だったとも言われますから、その頃、・・百済の聖僧が菅生の山中に観音像を安置した・・可能性はあります。



仏教を伝えるうえで仏具、とりわけ光り輝く人型仏像は、欠かせない役割を果たしたそうです。抽象より具象が、経典より仏像が、(とりわけ倭国では仏教以前、神聖なるものは不可視でしたから)、より強いインパクトを持ったといいます。
仏像を安置したとは、即ち、仏教を伝えたことを言います。菅生寺(そして大宝寺)の伝承は、仏教の公伝前・・ 昔、仏法いまだひろまらざりしころ、・・の仏教伝来を物語る話です。公伝以前の伝来は、(知るかぎり)歴史家は認めるところです。



岩屋寺は、今は大宝寺とは別の寺ですが、かつては大宝寺の奥の院だったそうです。弘仁13(823)、我大師が、大宝寺の奥の院として開かれた、と伝わります。
大宝寺と岩屋寺について・・両方を合わせて「菅生の岩屋」と呼んでいました。・・と話すのは五来重さんです。「四国辺路の寺」に記されています。
この場合、「岩屋寺」には、古岩屋も含まれていると考えられますので、「菅生の岩屋」は、大宝寺-古岩屋-岩屋寺を合わせて一体化した、辺路修行の場、だったことになります。


 
因みに五来さんの仕分けでは、菅生の岩屋での辺路修行は、「中行道」に当たるようです。
例えば四国全体をめぐる辺路修行は「大行道」。室戸岬の不動岩をめぐれば、これは「小行道」。西寺と東寺の間をめぐったり往復するのが「中行道」、だとのことです。
これに従うと、菅生の岩屋をめぐる行は、中行道と考えられます。険しい修行の道に結ばれた信仰空間が、ここに在ったわけです。


峠御堂トンネル
むろん、かつて存在した信仰空間は、今日、その姿をとどめてはいません。行場をつなぐ道は、途切れたり、消滅したりしています。
大宝寺の裏山から山道を歩いてきましたが、道はほどなく切れて、県道12号の峠御堂トンネル口に降りてきました。これより3キロほどは、県道12号を歩くことになります。


12号からの景色
県道12号の地名路線名は、西条-久万線です。今回まで、気づきませんでした。
愛媛県一の長い県道だそうで、石鎚山をまたぎ、瀬戸内海側の伊予西条に降りてゆきます。山岳道路の部分は「石鎚スカイライン」と呼ばれ、開通は昭和45(1970)です。
おそらくスカイラインのベースには、古くからの信仰の道、面河-土小屋-石土神社参拝道があるのでしょう。とするなら、県道12号歩きもまんざらではありません。面河からの参拝道は、へんろみち保存協力会地図「45番岩屋寺-石鎚山」を参照ください。


千本峠へ
千本峠(高野越え)の標識がありました。この道は、松山へ向かう三坂峠へのショートカットです。三坂峠の仰西(こうさい)に降ります。仰西については、次回、記したいと思います。
帰途、越えてみたいと思い、通りがかりの方に尋ねると、台風被害でもう何年も通れない、とのことでした。すこし用心すれば大丈夫では?と尋ねてみましたが、止めときなさい、とのことでした。もちろん、助言には従いました。



ここから12号を離れます。



八丁坂へ向かいます。



快適です。


切り通し
切り通しがありますが、登りはこれからです。


分岐
右を行くと、すぐ八丁坂の登り口です。坂を経て岩屋寺へつづきます。左は古岩屋を経て岩屋寺に至ります。
私は右に進み、帰途、古岩屋にまわりで、この地点に戻ってきます。ここから打ち戻ることになります。



八丁坂を上がると、前号の農祖峠のところでふれた、越ノ峠(こしのとう)を越えてくる道と合流します。45岩屋寺→44大宝寺と、逆打ちですが、道としては順なりで、「打戻り」なしの道です。
合流点に大きな石碑が立っています。


石碑
石碑について案内板があり、次のように記しています。
・・ここは野尻から中野村を経て槙ノ谷から上がる「打もどり」なしのコースとの出合い場所です。槙ノ谷は、昔、七鳥村の組内30戸ほどの人たちが、この道こそ本来のコースであることを示そうとの意気込みをもって、延享5年(1748)、・・この石碑を建てたとのことです。


景観
別の案内板が八丁坂について、次のように記しています。
・・昔の人は、急なこの延長2800メートルの坂道を、修行のへんろ道として選びました。弘法大師が開かれた岩屋寺は、霊場中、もっとも修行に適した場所であるから、参道は俗界の道を行かず、峻険な修行道として八丁坂を「南無大師遍照金剛」を唱えながら登りました。
あえて厳しい坂道を修行のへんろ道として選ぶ人たちがいた、と書いています。



他方、仏教の民衆化がすすむなか、四国遍路でも、巡拝の簡易化がすすみました。
現代でも言えることですが、四国遍路は時間がかかり、金もかかり、体力を必要とします。誰でもができるわけではなく、巡拝できる人は「恵まれた人」だともいえます。
そこで四国を巡拝できない人用に、在地でも比較的容易に巡拝できる、写し霊場が造られました。地四国、新四国、小四国などと呼ばれています。また「お砂踏み」という、よりいっそう簡易化された巡拝も、工夫されました。


走り根の馬の背
四国遍路の庶民化が進んだのは、江戸時代(中期-後期)だといわれています。背景に、富裕庶民層の増加、諸藩による幹線の整備、四国遍路道指南などガイドブックの発刊などがあったと思われます。
四国遍路の写し霊場も、この時期、各地に広がりました。領民を自領に拘束しておきたい為政者が、政策的に後押しした例も、あるにはあったようですが、そうではあっても、有り難いものは有り難かったでしょう。


11丁
・・俗界の道・・を離れた八丁坂の道は、岩屋寺の奥の院領域に入ってゆく道です。おそらく現代の基準では、未整備として通行止めとなるような、険しい道だったでしょう。
奥の院領域には、不動堂を中心にした三十六童子行場があり、また白山権現の逼割行場があります。


不動堂
不動明王は岩屋寺のご本尊です。赤不動が祀られています。


三十六童子行場
不動明王に従う三十六童子が、道沿いに祀られています。


逼割行場(禅定)
(私は登ったことはありませんが)、綱や鎖やはしごを頼りに30㍍、岩の裂け目を登ります。岩峰上に、白山権現が祀られているそうです。
そこから見る景色は、まさに、
   山高き 谷の朝霧 海に似て 松吹く風を 波にたとえむ
・・だそうです。海岸山と号する所以です。


逼割行場
岩峰の裂け目は、法華仙人が叩き割ったものだといいます。法華仙人は、めずらしくも女性です。
・・仙人は土佐国の女人なり。観音の効験あると聞きて、かの厳窟に籠もり、・・法華三昧成就して飛行(ひぎょう)自在の依身(えしん)を得たり。・・
飛行通力を得た法華仙人でしたが、大師の修法に篤く帰依。岩屋山全山を大師に献上した、といいます。時に弘仁6年(815)のことだそうです。


山門
門は向こう向きに建っています。こちら側が奥の院領域、向側が本寺の境内です。


礫岩峰
4-5000万年前、海底に堆積した礫岩層が隆起し、侵蝕されたものだといいます。


洞中弥陀、洞中塔婆窟
五来重さんは「四国遍路の寺」で、・・窟だらけの山を子細に見ていくと、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。・・と話されていますが、私には視えませんでした。


法華仙人の窟
法華仙人堂だそうです。


参道
八丁坂の案内板によれば「俗界」からの参道ということになりますが、この参道、けっこう長く、急な坂道です。



直瀬川に架かる橋です。左方向、川沿いに歩きます。川は右方向に流れ、面河川、仁淀川につながります。


古岩屋岩峰
五来重さんの「四国遍路の寺」から、また引用させていただきます。
・・(大宝寺と岩屋寺を)両方合わせて菅生の岩屋と呼んでいました。その間にもう一つ古岩屋(ふるいわや)という非常に大きな洞窟があります。


古岩屋岩峰
・・一遍上人が籠もったのは(岩屋寺か古岩屋か)どちらかわかりませんが、寺伝では古岩屋ではないかといっています。いずれにしても、大宝寺と古岩屋と岩屋寺は一連の行場になっていました。



八丁坂との合流点に向け、沢沿いの道を歩きます。


大師堂
ほどなく大師堂が見え、一定の信仰空間が作られています。


石仏
岩上に普賢菩薩を祀っています。昭和5(1930)の建立だったと記憶しますが、どうでしょうか。


石仏
   ふげんぼさつ
 わしのみね ふたゝびかげの うつりきて さがのゝつゆに ありあけのつき


不動窟
記念の石碑があり、次のように始まっています。・・前面に屹立する不動岳の中腹大甌穴に、遠い昔から不動明王がまつられていたが、幾星霜を経て老朽化した。・・そこで昭和49(1974)、復元安置することにした、そうです。
側に不動堂があります。


不動明王


子規句碑
  夏の日の ひえてしたたる 岩間かな  子規


合流点
八丁坂への登り口に帰ってきました。これよりは打ち戻りになります。


12号線
往路と同じ12号線を歩きます。


住吉神社
畑野川の橋を渡った先に住吉神社があります。ここから「・・協力会地図」の破線の道に入ります。
12号線に寸断されてしまった集落ですが、往時の雰囲気をよく残す、「暖かい」空間です。この道はぜひ、歩かせていただくことをお勧めします。


河合のへんろ宿
四国遍礼名所図会に、・・畑の川村、此所二荷物預ケ岩屋寺へ行 (是より六十丁也)。住吉社 (村の半に左手二有リ)、・・とあります。


河合のへんろ宿
案内板を転載します。・・・この付近は、当時15軒のへんろ宿が建ち並び、春の彼岸頃は一晩300人からの泊まり客があり、接待に忙しく賑わっていたそうです。おへんろさんは、河合の宿に荷物を預けて、岩屋寺を打ち終わると、来た道を引き返して河合に帰ります。これを「打ちもどり」と言って、珍しい巡拝コースです。


大師堂
扁額に「弘法大師・・」「観世音菩薩・・」の文字が見えます。


へんろ道標
大きな道標の手差しは、両方向に向いています。岩屋寺と浄瑠璃寺を指すのでしょう。


大師像
ご覧いただきまして、ありがとうございます。
次回更新は4月5日の予定です。できれば間を縫って春遍路を、と願っています。

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🎵人生いろいろ 男もいろいろ 遍路だっていろいろ咲き乱れるの~ (天恢)
2017-03-18 16:19:33
 梅が咲き、菜の花が咲き、間もなくサクラが咲き始める弥生3月。 春は「出会いと別れ」、「遍路」の季節です。 サクラの花が舞い散る中を歩くお遍路さんが目に浮かび、思わず春遍路に誘われます。 今回も「大宝寺~河合へんろ宿」を楽しく読ませていただきました。

 さて、今回は四国遍路の最大難所とされる険しい久万の山中にあって、88ヵ所の中間点の大宝寺、深山の絶壁に抱かれた修行の道場・岩屋寺の道中です。 この44番と45番の霊場を結ぶ 『俗界の道・・を離れた八丁坂』 は、『修行のへんろ道として選ばれた坂道』 として一度は歩いてみたい遍路道です。 天恢も「八丁坂」は歩いておりません。 いつも岩屋寺への参道は、直瀬川に架かる橋を渡る『俗界の道』を常としておりますが、『この参道、けっこう長く、急な坂道です』 とあるように、下りる「楽しく遍路」さんには見えなかったと思いますが、坂の途中の茶店に 「まだまだこれからじゃ、岩屋の坂と人生は」 と目を引く看板があって、天恢の遍路も「修業途中」であることを教えられました。

 さてさて、タイトルの 「🎵人生いろいろ 男もいろいろ 遍路だっていろいろ咲き乱れるの~」ですが、島倉千代子さんが歌った「人生いろいろ」の一節です。 
文中の 『仏教の民衆化がすすむなか、四国遍路でも、巡拝の簡易化がすすみました。現代でも言えることですが、四国遍路は時間がかかり、金もかかり、体力を必要とします。誰でもができるわけではなく、巡拝できる人は「恵まれた人」だともいえます。』 の箇所が気になりました。 
 また、日程や費用の問題で四国を巡拝できない人たちのため、『・・・写し霊場なるものが造られました。地四国、新四国、小四国などと呼ばれています。また「お砂踏み」という、よりいっそう簡易化された巡拝も、工夫されました』 ともあります。 故郷の篠栗新四国八十八ヶ所霊場も、秩父も、坂東もその類なのかも・・・。
3年前に四国八十八カ所霊場が開創1200年の記念催事として東京でも 『 1日で巡るお遍路さんin丸の内 』.なるものがありました。 88の札所寺院すべてが参加する出開帳は、1937年に「空前絶後」と喧伝された大阪での88ヶ所本尊出開帳以来、実に77年ぶりのことでした。 カンカン照りや雨風に身をさらして、我慢、辛抱を強いられる歩き遍路に比べれば、これは何というお手軽遍路! 早くて、安くて、簡単で、しかもご利益が同じとなると遍路の苦労を知る友人が「ケシカラン」と憤慨しました。
 でも、健康で、おカネも少々あって、時間もたっぷりある人でも、家族に病人がいれば遍路に行けないという厳しい現実を知るものとして、どのようなカタチの巡拝であっても 『有り難いものは有り難い』 ことなのです。 人生いろいろ、遍路もいろいろ、決めるのは自分の心と思っていいます。
♪人生 楽ありゃ 苦もあるさ~ (楽しく遍路)
2017-03-21 14:15:10
天恢さん ありがとうございます。
コメント冒頭は、毎回、季節の挨拶から始まり、その書き出しを巧みに繋いで、「今回も・・・楽しく読ませていただきました」で閉じます。
季節を愛でる言葉の豊富さに、いつも感心しつつ、楽しく読ませていただいております。

岩屋寺の参道を下りつつ、すれ違う人にどう声をかけたものか、迷っておりました。まだまだ、は申し訳ないような気がするし、あと少し、は嘘っぽい気がするし・・。
でも、人生まだまだ、登りもまだまだ、ということで、問題は解決したようです。♪人生 楽ありゃ 苦もあるさ~

天恢さんの故郷、篠栗新四国、いいところなんでしょうね。いつでしたか、書いたことがありますが、私は四国の後は、九州を歩きたいのです。篠栗新四国は、むろん歩こうと思っています。九州の後は、対馬経由で釜山に渡り、38度線までですが、半島を北上します。これ、私の、(もはや実現しそうもない)夢です。
ところで、秩父観音霊場34ヶ所もいいところですよ。江戸期は、大賑わいだったと言います。比較的狭い範囲の中に100キロほどで収まっていますので、平均的には4泊5日くらいで廻れるのでしょうか。ただし秩父盆地は奥まっていますから、そこまでの往復は、昔は泊をともないました。江戸からは片道1泊2日が平均だったようです。
道は、関東平野ですから、上り下りはほとんどありません。秩父盆地から流れ出る荒川に沿ってゆけば、多少は川を渡っても、峠越えの必要はなくなります。
そんな楽さもあって、(また観音霊場であるとか、関所手形が不要であるなどの理由もあって)、女性の巡拝者が多かったようです。その点、同じ関東でも、男性色の強い大山詣とは違っていたかもしれません。

今春は、なにかとあって、まだ遍路に行けていません。半島どころの話ではありません。梅雨入り前にはなんとか、と思っています。

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