楽しく遍路

四国遍路のアルバム

今日は観光! 箸蔵寺から 池田 大歩危小歩危 祖谷渓

2017-12-13 | 四国遍路

 
この記事の末尾へ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ

 はじめに
どなたが言い始めたのでしょうか、三つの大切な「こう」があるそうです。すなわち「信仰 観光 健康 」。
今号ではそのうちの「観光」・・箸蔵寺参拝の後に訪ねた、池田や大歩危小歩危、祖谷渓の観光・・をご覧いただこうと思います。天恢さんからいただいた、前号のコメントから思いついた題材です。

 池田の街歩き


箸蔵寺ケーブル
(前号でお伝えしましたが)箸蔵寺参拝中、空が曇ってきました。これは危ない!雷雲の来ぬ間に、ケーブルで降りることにしました。
仁王門、その右に高灯籠がみえます。写真には写っていませんが、鞘橋もあります。残念、私はこの上を通過してしまったのでした。


吉野川下流方向
その代わり、大きな景色を、楽しむことが出来ました。
徳島自動車道の吉野川橋、その手前に(写りが悪いのですが)JR土讃線の鉄橋が走っています。私はこの後、雷雨の中、潜水艦と化したディーゼルに乗って、この鉄橋を渡ったのでした。


三芳大橋
赤橋は三芳大橋です。箸蔵駅で乗り、吉野川を渡ったディーゼルは、画面右、吉野川の上流方向に向かいます。土讃線下り方向です。佃駅を過ぎ、次の阿波池田駅で、私は下車します。
明日は池田の街を歩き、祖谷渓バスツアーに参加します。前線が通過し、観光にはもってこいの天気となることでしょう。


へそっ子公園
池田駅前に「へそっ子公園」があります。「へそっ子」の「へそ」は臍(へそ)。池田が四国の臍であることから来ています。つまり交通の要衝だということです。
池田町には白地(はくち)という地名があり、それは孫子が言う「衢地」 ( くち )からきているのではないか、とも言われています。というのも、「衢地」は、交通の要衝=どこにも通じている所、をいうからです。


池田へそっ湖大橋
池田を通る幹線自動車道を挙げてみますと、
 国道32号   香川県高松市-高知県高知市
 国道192号   愛媛県西条市-徳島県徳島市
 国道319号   香川県坂出市-徳島県三好市-愛媛県四国中央市
 徳島自動車道 徳島県鳴門市-愛媛県四国中央市
があります。池田が、四国四県のいずれにも通じていることがわかります。四国の十字路。臍たる所以です。
へそっ湖大橋は、吉野川に架かる徳島自動車道の橋です。


国道192号の池田大橋
このような地は、池田の他、かつて四国にはありませんでした。長宗我部元親が四国統一の拠点を池田に据えたのも、それは池田がもつ地の利に着目したからでした。
ただし、ご承知のように、四国制覇は「うたかたの夢」と消えました。地の利はよくても、どうやら元親の器は、四国を治めるには小さすぎたようです。
元親が雲辺寺の住職・俊崇坊から、・・薬缶の蓋では水瓶の蓋はできません。・・あなたは土佐一国の器でしかありません、と諭された話は、よく知られています。
結果、元親は四国を戦渦に巻き込んだ責めを問われ、天恢さんから「四国の歴史史上で最高のワル」の烙印を押されています。


交通の要衝
「池田の他・・ありませんでした」と過去形で書くのは、最近のトンネル掘削技術はすばらしく、例えば平成11(1999)に開通した寒風山トンネル(5,432m)は、四国山脈の下をぶち抜いて、高知県いの町と愛媛県西条市をつないでいます。また前号で記した猪ノ鼻峠では、現・猪ノ鼻トンネルとは別に、新猪ノ鼻トンネルが工事中です。開通すれば、香川県三豊市財田町と徳島県三好市が、より短時間でつながります。今や四国四県は、互いに、山越えなしで繋がっているのです。


蛇穴
もっとも、繋がっているといえば、土佐・32番禅師峰寺近くの、石土神社(いはつち神社)にある蛇穴(じゃあな)は、石鎚神社や別格16番萩原寺地蔵院、はたまた伊予吉田にも通底している、と伝わります。峯寺の札をつけた犬が蛇穴に入り、数日後、伊予吉田藩でみつかったと言いますから、これはもう、現代のトンネルも真っ青です!


国道192号と池田ダム
写真は、ウエノ丘陵から望む景色です。ウエノ丘陵は東西に延びる河岸段丘で、北面は吉野川に削られた急崖。南面は、中央構造線が形成した断層崖です。
自動車道は国道192号。右方向に進むと国道32号に合流します。ダムは池田ダムで、昭和50(1975)、多目的ダムとして完成しました。


学園通り
ウエノ丘陵へ西端から登ります。その道は「学園通り」と呼ばれ、東端の諏訪神社まで、ほぼ直線状に通っています。
通りに沿って、シニアーには懐かしい県立池田高校、池田中学校、池田小学校、そして幼稚園が並んでします。


池田高校グランド
1970年代から80年代にかけて、春夏の甲子園大会で優勝3回、準優勝2回。「さわやかイレブン」「やまびこ打線」で知られた、県立池田高校のグランドです。別に専用グランドも造られたそうですが、あくまで、原点はここに在ります。
   ♪しののめの 上野が丘に
   花めぐり
   そびゆるいらか みどりこき
   阿讃の嶺と きそうなる・・池田高校校歌です。


三好市立池田中学バス
近隣中学校が池田中学に統廃合されたようです。通学区が大きくなったため、スクールバスが必要になったのでしょう。
今日、小学校においてさえ、小学区制は崩壊しようとしています。小中学生は足で通学する、高校生は足か自転車で通学する、これがかつての姿だったものですが・・。


大西池田城跡
ウエノ丘陵・・池田高校校歌では’上野が丘’・・は、かつては城山でした。衢地にある丘陵であってみれば、城を構えるには最適の地だったでしょう。
大西池田城は承久3(1221)、阿波の守護として信濃の深志(長野県松本)からきた、小笠原氏が築城したのが始まりだそうです。以後、城主は変わりますが約400年間、江戸幕府による一国一城令まで続きました。
築城の承久3は、承久の乱の年です。東国の武家政権(鎌倉幕府)と西国公家政権がぶつかり、武家政権が勝利しました。その結果の小笠原氏着任かもしれません。


石積み
城の石積みを、東側の一部分のみですが、見ることが出来ます。他の部分は埋蔵され、その上に幼稚園が建っています。
なお大西城の「大西」は、この辺が「阿波のいちばん西」であることから来ているそうです。大晦や、紅白歌合戦の大トリなどと同じ、「大」なのでしょう。


並木
藩政時代の名残りをとどめる並木だといいます。


木曽御嶽神社
 ♪木曽の御嶽(おんたけ)さんは ナンジャラホーイ
各国には、甲斐の御嶽(みたけ)や武蔵の御嶽(みたけ)のように、国を代表するお山=国御嶽(国みたけ)がありますが、木曽の御嶽だけは、「みたけ」ではなく、「おんたけ」と呼ばれています。格別の存在とみえます。
江戸時代までは、剣ケ峰に蔵王権現、王滝口頂上には日権現(ひの権現)、二ノ池には士祖権現(しそ権現)を祀り、三権現を総称して御嶽大権現としていたそうです。しかし神仏分離以降は、大己貴命、少彦名命、国常立命(くにとこたち命)を祭神としています。


木曽御嶽本教池田教会
御嶽信仰において見逃せないのは、「霊神」という存在です。鈴木正崇さんは「山岳信仰」(中公新)に、・・御嶽講の優れた行者や信者が亡くなると、霊神号を授け、霊神の地元の霊神場や、御嶽山の山霊や中腹に霊神を祀る霊神碑を建てる慣行である。霊神は講社教会の神殿にも祀られる。・・と書いています。霊神は、祭神とは別の存在です。
木曽御嶽本教は、木曽御嶽山の中興開山である、覚明を霊神とする覚明講が結集し、結成された教団です。なお障子の「山三丸」は御嶽神社の社紋です。


諏訪神社
ウエノ丘陵(上野が丘)を東端まで歩くと諏訪神社があり、その先が急崖で落ちています。丘陵が中央構造線で断ち切られている現場です。私は今、そこに立っています。


吉野川
神社の下の河原を「千五百河原」と呼ぶそうです。かつてはここに「はまの湊」という川湊があり、池田の繁栄を支える舟運の拠点として、にぎわっていたといいます。
池田ダムなどの関係で、水量は減っています。


諏訪神社奥殿
祭神は建御名方命(たけみなかた命)です。諏訪神社については、別の機会に記します。


本町
丘陵を降り、池田の本町(ほんまち)に出ました。旧家に「うだつ」が上がっています。


タバコ問屋
次のような説明があります。
・・江戸時代から徳島県三好市の山間部では、「阿波葉」とよばれる葉たばこの耕作が盛んに行われ、幕末から明治にかけて「阿波刻み」という名称の刻みたばこ産業で繁栄した。
前号で、讃岐の煙草問屋が寄進した、箸蔵街道の道標をご覧いただきましたが、その問屋の名前は、阿波屋でした。おそらく、池田と深くかかわりのある問屋だったでしょう。


庚申堂
庚申堂です。
青面金剛像に定型はないようですが、四手で、宙に浮いているなど、面白い造形です。私が住む関東では、あまり見かけません。残念ながら建立年を確かめ忘れました。


身代わり猿・サルボボ
次のような説明があります。
・・庚申さんは病気(とくに眼)をよくしたり、旅の安全を守ったり、疫病が町に入り込むのを防いだりしてくれると、昔から言い伝えられています。祈願する人は赤いぬいぐるみ(身代わり猿=サルボボ)を供えてお願いしています。 

 大歩危小歩危


バスツアーへ
池田駅前から出るボンネットバスツアーに参加しました。
コースは、池田駅→大歩危小歩危→石の博物館・妖怪屋敷→かずら橋→小便小僧像→池田駅、です。


北流の吉野川
吉野川は、石鎚山の東峰、瓶が森に発して東流。高知県大豊町あたりで流れを北に転じ、(すでに見てきたように、中央構造線にぶつかって)池田でふたたび東流に転じます。
北に流れる吉野川が四国山脈の東西軸を直角に切り、深いV字谷の横谷(おうこく)が形成されました。大歩危小歩危は、ここにあります。(大久保諶之丞が拓いた四国新道を基にする)国道32や土讃線が通るまで、アクセスは困難を極めていました。


遊覧船乗り場
大歩危峡遊覧船に乗ります。V字谷の底まで、降りてゆきます。


大歩危
降りるにつれ、複雑な造形が間近にせまってきます。どれくらいの時間、どんな力が働いて、このような地形や地質が造られてきたのでしょうか。これを記す力はありませんが、とても興味深いものです。


遊覧船
ほぼ満席です。


遊覧船
大歩危小歩危の名は、断崖を意味する古語「ほき・ほけ」(崩壊)から来ているとか、「大股で歩いても、小股で歩いても危ないから」だとか、説があるそうです。


遊覧船
2億年の時を経て造られたのだとか。長さ8キロにわたります。


遊覧船
ライオン岩だそうです。ライオンが右斜め上を見ているようにみえます。


ボンネットバス
箱形のバスが登場した頃は、(ボンネットを見慣れていましたから)なんとも変なバスだと思っていたものでした。「鼻ペチャ」などと呼んでいたのでしたが、いつしかボンネット型の「鼻高」が珍しくなっています。
固い椅子に座り、窓を全開に、風を入れて走りました。もし木炭ガスの臭いを嗅ぐことが出来たなら、完璧だったのですが。


ラピスラズリ  
昼食後、石の博物館や妖怪屋敷を見学しました。この辺は児啼爺の故郷と伝わるらしく、妖怪屋敷が建っています。
石の博物館では、初めてラピスラズリを見ることが出来ました。紀元前14世紀、古代エジプトのファラオ、ツタンカーメン王の黄金マスクを彩る深い青は、中央アジア・アフガニスタンから運ばれたラピスラズリが出す色です。


ラピスラズリ
ウィキペディアは次のように記しています。・・(ラピスラズリは)人類に認知され、利用された鉱物として最古のものとされている。エジプト、シュメール、バビロニアなどの古代から、宝石として、また顔料ウルトラマリンの原料として珍重されてきた。
古く、シルク・ロードならぬ、ラピスラズリ・ロードがあったと言えましょう。ラピスラズリ・ロードが、東は日本にまで届いていたことは、正倉院御物の紺玉帯や高松塚古墳の壁画が教えています。


吉野川
ふたたびバスに乗って、吉野川を左岸から右岸に渡り、祖谷川を渡り、平家屋敷に向かいます。


平家屋敷
棟に鰹木が並んでいます。鰹木は、今では神社でしか用いられませんが、かつては上流階級の邸宅にも用いられた、といいます。
当家のご祖先は、安徳帝の御典医であったそうです。平家滅亡後、残党とともに祖谷に入山した、と伝わります。


車窓風景
かずら橋に向かいます。祖谷渓温泉が見えています。


かずら橋
「かずら橋」は、本来は普通名詞ですが、事実上、西祖谷や東祖谷に架かる橋を指す、固有名詞のようになっています。古くは祖谷だけでも、13のかずら橋が架かっていたそうです。


かずら橋
履き物を落とした人はいるけれど、落ちた人はいません、とのガイドさんの話を信じて、高いところが怖くなっている私も、渡ることになりました。
交通渋滞を起こしながら撮ったのが、この一枚です。


祖谷川
こんな高い所から、子供とはいえ、あまりにも怖れを知らぬ・・


小便小僧
小便をする小僧がいました。
これを最後の見学地とし、バスは阿波池田駅に向かいます。


阿波山川駅
池田から徳島線で、山川に移動しました。
明日、二度目の高越山に登るためです。


明日登る高越山
土地の人は親しみを込めて、お高越さん(おこうつさん)と呼んでいます。またその山容から、阿波富士などとも呼ぶようです。標高1,133㍍。実質標高差は1,000㍍ほどでしょうか。
高越山参拝については、「H26春 その2」から「その3」にかけて記しています。よろしければ、ご覧ください。  

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
残念ですが、秋の遍路は断念しました。冬遍路をうかがっているところです。さて、どうなることでしょうか。
とまれ、次回更新予定は、来年の1月10日です。なんらかのかたちで、更新したいと考えています。
末筆ながら、皆さまが、よい年をお迎えくださいますように。


 この記事のトップへ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 箸蔵街道  別格15番 箸蔵寺  | トップ | 塩入から 満濃池 神野神社 神... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
🎵おへそのなかには なにがある ピッピ おへそのなかにはごまがある ドンドン (天恢)
2017-12-17 10:33:11
 早いもので、今年もとうとう師走を迎え、いつもながら「一年終わってしまう何してた?」の反省しきりの年末です。 今回は、前回の続きで「楽しく遍路」さんが平成21年10月に歩かれた 「今日は観光! ・・・」の道中記を楽しく読ませていただきました。

 さて、ブログの冒頭の『どなたが言い始めたのでしょうか、三つの大切な「こう」があるそうです。すなわち「信仰 観光 健康 」』とありました。 仏縁あって四国遍路を巡礼しながら、たまには遍路道を離れて「観光」も楽しいものです。 そして、この信仰、観光を支えるのは「健康」であればこそと気づかされ、感謝のこころが自然と湧き出てきます。
 天恢も2巡目の遍路が終ってからは、もっぱら「寄り道、脇道、まわり道」を旨として、信仰と観光と健康に感謝しながら楽しい遍路をしています。 池田の町にも雲辺寺にお参りする際、岡田屋さんが満室で白地の民宿に、剣山登頂の折は池田駅前に泊まって祖谷渓経由で向かいました。 また大歩危小歩危も遍路を離れて歩きましたが、やはり四国の名所旧跡は遍路道よりちょっと離れたところにあるというのが実感です。

 さてさて、タイトルの「🎵おへそのなかには なにがある ピッピ おへそのなかにはごまがある ドンドン」ですが、ご存知の方も多いユーモアある童謡「おへそ」の歌です。 古くから池田の町は、阿波、讃岐、伊予、土佐を結ぶ交通の要衝で、四国のへそと呼ばれ、四国中から美味しいものや手作りの品々が集まったそうです。
 現在は高速自動車道の発達で交通の要衝はお隣の四国中央市に移っていますが、道路機能は移っても、そこには池田の町のようにお臍の中のゴマみたいな味のある文化は一切芽生えてきません。 あるのは濃度の高い排気ガスが充満するだけで、つくづく文化とは何かを考えさせられます。
 余談ながら、ブログに長宗我部元親について 『天恢さんから「四国の歴史史上で最高のワル」の烙印を押されています』と、ありましたのでチョッと補足させていただきます。 戦国時代、土佐の一豪族に過ぎなかった長宗我部氏が四国統一を目指して、勢力拡大に励み、このため四国中を戦禍に巻き込みました。 平成17年に刊行された講談社の『週刊・四国八十八カ所遍路の旅』 全30巻を読んで、88ヵ所の札所の寺史で、「長宗我部(元親)による兵火」と元親の隣国攻めの「天正年間(1573~92)の兵火」で札所の堂宇伽藍を消失したという記述が余りに多く、それで元親を「四国の歴史史上で最高のワル」の烙印を押した次第です。 今回、改めて元親の悪業を数えたら、阿波は8ヵ所、土佐は1ヵ所、伊予は8ヵ所、讃岐は11ヵ所、計28ヵ所の戦禍が記載されていました。 
 とは言え、最近はイケメン武将だった元親が若い女性から支持され、スマホゲームで知名度を高め人気上昇中だそうです。 33番札所は元親の菩提寺で、死後寺号を元親の法号から「雪蹊寺」と改めています。 また土佐の札所には長宗我部氏による堂宇の寄進や復興にあたり善業があったのも事実です。
 何はともあれ2017年ともお別れ。 皆さまの新年が「良い年」でありますように。

♫若者よ 体を鍛えておけ・・・ (楽しく遍路)
2017-12-18 14:34:35
・・・美しい心が たくましい体に からくも支えられる 日がいつかはくる
美しい心は、さておくとしても、
からくも支えられる日は、間違いもなく、やって来るのでした。

事実、そんな日が、きてしまいました。
・・・ その日のために体を鍛えておけ
後悔することしきりです。
おっしゃる通り、「健康」であればこそ、と気づかされております。

長宗我部元親について、ありがとうございました。
計28ヶ所の戦禍とのことですが、札所外の戦禍を加えれば、当然、もっと多くなるのだと思います。
戦国時代を生きる元親にとって、強大勢力を保持するな寺社は敵であり、焼き討ちの対象であってしかるべきだったのでしょう。なんの痛痒も感じることもなく、焼き払ったと思われます。

しかし思うに、決して賢いやり方ではありませんでした。
賢い征服者は、被征服地の民の信仰に、気を使っています。征服した後の支配を、考えに入れているからです。その意味では元親は、器が小さかったのかもしれません。
あるいは、それを求めるには、少し時代が早すぎたでしょうか。元親の時代には、「まず刈り取る」ことが、優先されたのかもしれません。元親は信長より5才年上です。

前号コメントの「ムヒが丘・・」といい、今号の「おへそ・・ピッピッ」といい、天恢さんのレパートリーの広さには、驚くばかりです。
「おへそ」の歌、私は知りませんでした。お母さんと一緒、で発表された歌のようですが、私の子育て時代には、確か、まだありませんでした。孫たちが歌っているのを、聞いたこともありません。
また機会があれば、忘れたような歌、知らない歌を紹介してください。ありがとうございました。

コメントを投稿