楽しく遍路

四国遍路のアルバム

粟井坂から 河野氏の故地 北条へ

2017-07-26 | 四国遍路

 
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経ヶ森から
太山寺奥の院、経ヶ森から撮った写真です。
街部は、山が海までせり出して、二つの部分に隔てられています。手前の街が和気や堀江の街。奥が粟井、柳原、北条の街です。今はすべてが松山市ですが、かつては、手前が和気郡、奥が風早郡でした。また、手前を道後、奥を道前、とも呼んだそうです。
和気郡と風早郡を結ぶ山部の道は、粟井坂といい、また読んで字の如く、「間ノ坂」と呼ぶこともあったそうです。


海沿いの道
写真は現在の粟井坂です。路線名は県道347号平田北条線。明治13(1880)、開通した頃は、「粟井坂新道」と呼ばれていました。
新道が開通する以前の道(旧道)は、急坂の山越え道で、交通の難所だったといいます。通う人馬の難儀を見かね、(後述しますが)、土地の人たちが’岩山を切り拓き’、海沿いに道を通してくださいました。おかげさまで往来は、ずいぶん楽になりました。


子規の句
   涼しさや 馬も海向く 粟井坂    子規
明治25(1892)の作です。「粟井坂」は、粟井坂新道を指しています。
新道は海風が吹いて涼しいし、景色もいいし、・・その快適さを、馬子のみならず馬もまた、よろこんでいます。


幸の神
道沿いに「幸の神」が祀られています。「幸の神」は「塞の神」(さえの神)です。旧道の郡境を護っていたものを、新道開通の時、ここに降ろしたと思われます。
黄泉国で伊弉冉尊の醜い姿を見てしまった伊弉諾尊は、鬼女に追われ、ようやく黄泉比良坂まで逃げ帰りました。その時、伊弉諾尊が鬼女たちに投げた杖から成り出たのが、「塞の神」です。他界や他郷との境を護り、邪悪なるもの(外敵や病気など)の侵入を防ぎます。


斎灘(いつき灘)
新道が拓かれた旧道の多くがそうであるように、粟井坂旧道もまた、荒廃しました。平成に入って一度、地元の努力で復元されたそうですが、残念ながら通る人が少なかったのでしょうか、今はふたたび、ミカン畑の中に韜晦しています。その登り口は、予讃線粟井坂トンネルの、堀江側入り口近く、「タコ松」の踏切から登るようになっていました。
粟井坂新道は、(バイパスが通ったことにより)国道から県道に格下げされましたが、ご覧のように、けっこう通行量は多く、がんばっています。


粟井坂大師堂
粟井坂大師堂(小川大師堂)も、幸の神と同様、旧道から降ろされてきました。元は茶堂でしたが、大師堂として降ろした、と言います。
境内には句碑や大師像がある他、小川集落の人たちが建てた、粟井坂新道碑があり、新道建設の詳細な経緯を今に伝えています。
なお、この辺の道については、H24春遍路 ② でも記したことがあります。よろしければ、ご覧ください。


粟井坂新道碑
・・当時の小川村里正(江戸時代の庄屋に代わるもの)で郡副長の大森盛寿(大森もりかず)が、人馬の通行を便利にするため、岩山を切り開き、新道建設を思い立った。・・しかし、上司に相談するも受け入れられず、数年かけて建設資金を貯金することになった。・・一定額が貯まったので、郡長・長屋忠明を通して、県令・岩村高俊に願い出、賛同を得た。・・県税890余円の補助を受け、明治134月6日着工、工事人延べ5079人、工費2070余円、7月22日、ついに完成した。・・などが記されています。預金額は県税補助より290円も多い計算になります。この道は、お上が作った道、ではなかったようです。


粟の井
説明板は名前の由来を次のように記しいます。
・・古来粟粒の様な水がブツブツといづむところから、「粟乃井」とよび、粟井郷(後の粟井村)の地名の起こりとなった。
歌碑は、
  すめる世に またも粟井の水ならば たち帰り来て かげうつさまじ      学信
とあります。江戸時代中期の伊予出身の僧のようです。釈とあることから、真宗の僧でしょうか。 


登り口
粟井大師堂の脇にある坂道を登ります。登りは10分ほどです。
遍路道から離れますが、ここに引き返すことなく、復すことができます。ちょっと回り道してみては、如何でしょうか。


坂から
登りかかると、北方向に奇妙な形をした山の連なりが見えます。北条と浅海を分かつ山々です。その形のように、その名もおかしい山々です。新城山(しんじょ)、腰折山(こしおれ)、恵良山(えりょう)、名石山(めいし)など。
   腰折と いう名も をかし 春の山   花叟
仙波花叟は北条の俳人です。


坂から
北東方向には高縄山(986㍍)が見えます。高縄半島の要です。手前に、粟井坂トンネルを抜けたばかりの、予讃線が見えます。


坂から
斎灘です。奥の山々のいずれかが、昨日登った経ヶ森でしょう。向こうからこちらを眺めたのでした。



石仏が立っています。八十八箇所巡りになっています。


関所跡
江戸時代、郡境の峠に関所を置いて、人・物の移動を管理したようです。関所というよりは、番所といった方がいいかもしれません。


粟井坂峠の切り通し
粟井坂旧道の厳しさがわかるように思い、古い写真ですが、載せてみました。急坂です。


境界標
   これより北、風早郡
風化が進んでいます。寛保元(1741)に建てたものだそうです。これより南は、和気郡になります。


石碑
・・この道を小林一茶も学信も、中江藤樹も蔵沢も、おへんろさんも其他みんなの人が通った道ぞなもし・・
学信は、粟の井の学信と同一人でしょう。蔵沢は、吉田蔵沢と思われます。どちらも伊予人です。


供養塔
河野氏の祖とされる、河野通清(みちきよ)供養塔です。南無阿弥陀仏と刻まれています。
源頼朝が挙兵したとき、河野通清も頼朝に呼応し挙兵しました。ただし、頼朝は勝利しますが、通清は、平氏の勢力が強い西日本にあって孤立し、包囲されるなか、割腹の止むなきに至りました。
その戦場が、(後述しますが)関所坂下の、山の神古戦場とされています。この供養塔は江戸時代に建立され、元は、古戦場跡に在ったと考えられます。


供養塔
弘安2(1279)、一遍上人が通清の100年忌供養を山の神古戦場で営み、万霊塔を建てたことが伝わっています。一遍上人は、通清の曾孫に当たります。
写真の石塔は、そのことを記憶すべく、後年、建立されました。


山の神古戦場
関所跡から急坂を下ると、山の神古戦場跡があります。通清は「山の神大松」(昭和40枯死)の下で自刃した、といわれます。
しかし、息・通信は生き残り、その3年後、屋島・壇ノ浦合戦に参陣。得手とする船戦で武功を挙げ、伊予国守護としての地位を実質的に獲得します。親の仇を討ったことになります。


一門供養塔
とはいえ、有為転変が戦乱の世の常。それは河野氏にあっても、例外ではありません。
略記すると、承久の乱(1221)では、河野氏は敗者の上皇方について衰退。文永弘安の役(1274-)では戦功をあげますが、元弘の変(1331)では分裂する、といった具合です。
最終的に河野氏は、天正13(1585)、豊臣秀吉の「四国征伐」で滅亡しました。



さて、前回の遍路では古戦場跡を訪ねた後、へんろ道(粟井坂新道・県道347号)に復したのでしたが、今回は、別の道を行きます。粟井小学校や北条南中学がある道を軸に、河野氏のゆかりの寺社、遺跡などを訪ねて、出入りしつつ北上します。


正八幡神社
畑仕事をしている人から、「べいざん」の書があるから、ぜひ行ってみるよう勧められました。「べいざん」は愛媛県人なら、誰でも知っているのだそうです。
注連石の文字が、江戸から明治にかけての能書家・三輪田米山の字です。・・魚は水に游び 鳥は雲に遊ぶ・・。魚の「あそぶ」が三水であるのは、米山の遊びです。


正八幡神社
たいてい注連石には、国家云々、天下云々などと刻まれていることが多いのですが、自由の精神にふれた、とでもいいましょうか、そんな悦びを感じました。
その裏面に、(前述の)大森盛寿の名や、後述する作道家の人の名を見たときは、然もありなん、我が意を得た思いでした。また土地の石工・岡見新平の名が誇らしくも刻まれているのは、感動です。米山の書を生かしたのは、石工の技です。
なお、奥に見えるのは、宅並山でしょう。後に触れます。


日尾八幡神社 米山の書
天恢さんからお借りできた写真です。コメントにもありますが、三輪田米山は松山の生まれで、久米の、日尾八幡神社の神主だったそうです。
天恢さんは1巡目を報告したご自分のHPに、・・49番浄土寺を出て、赤い大きな鳥居の前に、これまた大きな「魚躍」と「鳥舞」の二本の石柱が奉納されていた。松山人はセンスのある方が多いとお見受けした。・・と記し、この写真を載せておられます。実は私も、日尾八幡はアルバムで取りあげているのですが、米山の書には目が向きませんでした。天恢さんのセンスに感服です。



「○に正」は社紋でしょう。特注の瓦で葺かれています。


宇佐八幡神社
北向八幡ともよばれる、河野氏ゆかりの神社です。前述の河野通信は、屋島・壇ノ浦合戦の出陣にあたり、当社に必勝祈願したとのことです。神功あって、通信は戦の後、道後七郡の守護に補せられました。


宇佐八幡参道
ずいぶん上りました。石段を掃除している氏子の方たちが、励ましてくださったおかげです。
拝殿は修復中でした。古材は再利用しますか?と尋ねると、それが駄目なんよ、・・とのことでした。シロアリの被害です。


一石五輪塔
なんの案内もなく、当たり前のように立っています。畑仕事の人に、あれはなんでしょうと尋ねましたが、・・さあ、あるけん、そんままにしとるんじゃが、・・とのことでした。壊してしまわない、優しい暮らし方が、ここにあります。
これは一石五輪塔だと思います。地・水・火・風・空の五輪を、(それぞれ別個の石でなく)一石にまとめた、簡略化された五輪塔といってもいいでしょうか。西日本に多く見られる供養塔です。


二神家
磯河内の二神家墓所。
二神家(ふたがみ家)は、忽那諸島の二神島に拠った一族が、河野一統に加わるにあたり、「二神」姓を名乗り始めたことに始まる、と言われています。しかし二神島ネイティブではなく、長門国から島に移ってきた、藤原氏の支流、とも言われます。


墓所
手前の建物は風早88ヶ所の36番です。奥の建物に、宝篋印塔があります。


五輪塔
二神信濃守は宅並城主だったといいます。宅並城は、粟井坂峠の東方、宅並山上にあった山城です。
今は光洋台団地が間に挟まっていますが、かつて城と峠は、同じ一つの山塊にあり、峠防衛は、宅並城の重要な役割だった、と考えられます。


宅並山
正八幡神社への途中で撮った、宅並山です。(確認できていませんが、多分そうだと思います)。
もう城跡は無くなっているそうですが、頂上に小祠が祀られているそうです。正八幡神社の奥の院に相当するものと考えられます。かつて正八幡神社は宅並山頂上に在り、いつの頃か、下に降ろされたのだそうです。


宝篋印塔
二神信濃守を供養する、宝篋印塔とされています。土地では「大殿さまの墓」と口伝されているそうです。


麦秋
ハダカ麦のようです。収穫間近。この辺りは産地です。


六体地蔵板碑
同じ磯河内に、六体地蔵板碑があります。室町時代後期、永正16(1519)のものです。
板碑は、多くは、死者を追善供養するものですが、この板碑は、逆修塔です。生存中に、死後の自分を供養しています。その必要を感じさせるような、’先行きの見えない’世の中だったのです。今が見えてるとは申しませんが。


地蔵
二体ずつ三段に、六体の地蔵が彫られています。


溜め池
粟井小学校を過ぎたところの溜め池です。堤防上は観音堂です。
この辺は、山から海への傾斜地で、海側に堤防を築いて、溜め池を造っています。


傾斜
この写真でも、傾斜が見られます。山から海までの距離が短く、加えて吸水性の高い扇状地であるため、雨水はすぐ地下に潜り、海に出てしまいます。降雨量が少ない所では、溜め池は必須でした。


五輪塔群
苞木(すぼき)のミカン畑から大小十数基の五輪塔が「発掘」されました。「苞木の五輪塔群」などと呼ばれています。畑を拓こうとしていて、偶然見つけたのだそうです。
当時、子供だった人の話では、埋もれた五輪塔を囲むように、多くの石がならんでいたそうです。今から思えば、一字一石経の経石だったとも考えられますが、知らないこととはいえ、遊びに使ったりして、散逸してしまったのは残念、と話されました。



畑近くに石が転がっています。こんな石だったのでしょうか。
五輪塔は見せていただき、写真も撮らせていただきましたが、個人のお宅で祀っておられますので、掲載はひかえます。それにしても、なぜ埋めた(埋もれた)のでしょうか。埋めたとすれば、その意図はなんだったのでしょうか。須保木城の麓であること、(次に記す)作道家の邸宅跡が近いことなども、関係しているかもしれません。


作道家跡
河野氏の末裔、須保木氏は、「道を作った」功績により、「作道」姓を許されたと言います。風早歴史文化研究会の「河野氏ゆかりの地をゆく」によれば、・・天文元(1532)、横谷村の観音堂を高縄山上に移転改修する際、作道奉行として働き、参道の改修及び植樹に功績があった、ことによります。
写りが悪く残念ですが、ここは斎灘を望む、絶景の地です。


観音堂
作道家の邸宅跡には、風早八十八ヶ所30番の観音堂が建ち、その隣に層塔・五輪塔が立っています。
海抜32.5㍍と表示されています。


層塔・五輪塔
味わいのある五輪塔です。昔から「河野さま」と呼ばれ、作道家が祀りつづけてきたとのことです。山の神で自刃した河野通清(前述)の墓とも言われていますが、論定はされていません。


出会い
ここで、それはそれはうれしい出会いがあったことを、記しておかねばなりません。
前述の、ミカン畑の五輪塔群を探していたときのことです。畑仕事をしている人に尋ねたら、なんと、その方は土地の歴史文化を研究する会に参加しておられる方で、それも大切な役割を果たしておられる方でした。


阿闍梨・・
・・それなら、あまり知られていないが、すぐ上にも古いのがあるよ、この辺じゃ、いちばん古いんじゃないか、・・
と言って教えてくださったのが、この写真です。右「大行院淋光阿闍梨」 左「阿遮梨法印大行院圓照」


天正
天正2年は、1574年。河野氏滅亡の11年前です。よく残って(残して)くれたものです。
・・さて、私が写真を撮ったりしている間に、この方はご自宅に帰り、ご自身編纂に加わられたという、冊子を持ってきてくださいました。そしてその上、河野氏にかかわるあちらこちらを、案内までしてくださることになりました。
五輪塔群を始め、次の礎石も善応寺も高縄神社も一石五輪塔も、・・掲載した記事のほとんどは、この方のおかげによるものなのです。改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。


礎石
北条の、その名も「別府」という所に、大きな建築物の礎石が残っています。現在地より東方20㍍の所に在ったそうです。
長径1.53㍍、短径1.38㍍、高さ69センチ。中心部に柱を立てるためのヘソが出ています。石上の小祠は、茶臼権現と呼ばれています。


礎石
所在地から東方に大寺(おおでら)、西方に竜徳寺(りゅうとく寺)という地名が、小字として残っており、また、寺社で使われる布目瓦も、多数出土していることから、この辺に大伽藍が建っていたと考えられています。
年代は奈良時代です。そもそも北条という地名は、律令制時代の条里制からくるとも言われますから、当地に大伽藍が建っていたとしても、おかしくはないわけです。


雄甲山・雌甲山
合わせて「おんご・めんご山」は、高縄山の、支尾根の末端にある二つのピークです。山上に、中世、河野氏の城がありました。
河野氏が拠ったとされる「高縄城」は、ネットワークとしての城ではなかったか、とも言われており、私もそんな気がしているのですが、雄甲山城・雌甲山城は、ネット上のキーともなる重要な城でした。 


善応寺
雄甲山・雌甲山の麓に善応寺があり、河野氏発祥之地、の碑が立っています。雄甲山城・雌甲山城は、河野氏本貫の地を護る城でした。
河野氏は、その後、湯築城に城を築いて本拠を移しましたが、それまでの居館を改築。善応寺を創建し、菩提寺とした、とのことです。創建者は、時の惣領・河野通盛(後述)と伝わります。


善応寺
往時の善応寺は七堂、十三塔頭の、広大な寺域を持っていたと言います。しかし、天正13(1585)、秀吉の号令を受けた小早川隆景軍の侵入によって全焼。河野氏滅亡とともに、いったん途絶えました。今の善応寺は、江戸中期、その内の一塔頭、明智庵跡に再興されたものだそうです。
しかし善応寺が河野氏の菩提寺であることには、変りはなく、大棟には河野氏の家紋がついています。

  
拡大                         よく見かける紋
左は、大棟の家紋を拡大したものです。右の、よく見かける紋と比較すると、異なるところがあります。三の文字は縮みになっていて同じですが、折敷の隅が切れていない点で、違いがあります。
むろん、間違えたというわけではありません。湯築城資料館でいただいた資料によると、上右の、よく見られる紋は、・・後世、河野氏一族とみなされている家や、河野氏ゆかりの寺社で使用されたものであり、河野氏本家や、それに近い家で使用されたものではありません。・・とのことです。とすると善応寺の紋は、間違いどころか、むしろ河野氏本流を示している、と言えそうです。


湯築城の幟
それかあらぬか、湯築城には写真のような幟が立っています。まったく隅が切れていない上、三の文字の縮みも、ありません。
前述資料によると、・・この紋は、応仁の乱に上洛した河野氏(教通か通春)が使用したものといわれ、古来、様々にある河野氏の紋でも、最も古いとみられるもの、だといいます。二本線は、大山祇神社社蔵の神旗を模した、とのことです。


河野通盛墓所
境内に善応寺の創建者・通盛の墓所があります。
通盛は鎌倉末期から建武の新政-南北朝時代を生きました。浮きつ沈みつ、波瀾の人生を送った人のようです。例えば元弘の役(1331)では、一族、家臣団の多くが討幕軍(後醍醐天皇側)に加わる中、通盛は幕府側につきました。そのため建武政権下では所領は没収され、出家を余儀なくされます。しかし足利尊氏が軍を起こすや、これに加わり河野家を回復する、・・などなど、退屈している暇もない人生だったようです。


高縄神社
高縄神社境内に由緒書があり、大略、次のように記しています。
 1.小千躬尺(別名・小千高縄)が 三島大明神(大山積神)の神託を受け、高縄山に居城する
 2.推古天皇の御宇(6-7C) 小千益躬が 高縄山上天神森に 三島大明神を勧請
 3.崇徳天皇の保延2(1136) 河野親清が 現在地に 三島大明神を奉遷
 4.慶長5(1600) 河野氏残党が挙兵 社殿焼失→松山藩主久松氏が再建
 5.安永6(1777) 社名を高縄三島神社とする
 6.明治3(1870) 社名を高縄神社とする


拝殿
1.の小千躬尺(別名・小千高縄)は、越智氏の9代・小千命の孫にあたる人で、高縄の別名が示すとおり、河野郷に住む越智氏(=河野氏)の初代、ということになります。なお、小千命は、大三島に三島大明神(大山積神)を招いた、とされています。
3.の河野親清は、越智氏の代でカウントすると、27代だそうです。


神紋
善応寺と同様、高縄神社拝殿の大棟にも、(隅は切れていますが)折敷縮み三文字の紋が乗っています。
しかしこの紋は、(高縄神社は河野氏の氏神ではありますが)、河野氏の家紋ではなく、この社に坐す大山積神の神紋、と解すべきでしょう。
なお、河野氏を越智氏の支流とする考えには異論もありますが、ここでは神社の説明に従います。


参道
高縄神社が祀る大山積神は、神格の高い神さまです。娘に木花之開耶姫がいます。皇祖・瓊々杵尊の妻神となる神で、富士山をご神体としています。天照大神は大山積神の妹だとも言われます。
また和多志大神(わたしおおかみ)の名を併せ持ちます。「わたし」は、海の「渡し」を意味します。航海神でもあるわけです。山にも海にも、その神威は渡っています。


一石五輪塔
小祠の中に、一石五輪塔が数基、納められています。しかし、前掲の、畑の中で見たものとは異なる特徴を持ち、その分布は、(西日本一帯ではなく)高縄半島に限られる、といいます。


一石五輪塔
高縄半島の数カ所で確認される、この種の石塔には、「像」が彫られています。「像」は合掌する姿で、頭部に光の輪を持っています。輪が、キリスト教美術でいう光輪なのか、仏教美術でいう光背(頭光)なのかは、(私には)わかりません。


一石五輪塔
しかし、その作風の類似から、同じ信仰を持つ人たちが、同じ信仰対象を五輪塔に彫り、拝んでいたことは確かです。どのような人たちだったのでしょうか。


一石五輪塔
私は、圧制下、「隠れキリシタン」と呼ばれた、キリスト教信徒たちの、真摯な生き方を偲ぶ縁として、ありがたく拝見しました。 合掌。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回は、北条の鹿島、国津比古神社、高縄山の報告です。鹿島を除き、二度目の報告になりますが、国津比古神社は、前回、写真がなかったので、写真をご覧いただきます。高縄山は、新緑のブナ原生林など、前回とは別の景色を楽しんでいただこうと思います。
更新予定は、ほとんどが写真ですので、3週間後の8月16日とします。
訂正 暑さが堪えます。やはり4週間後、8月23日でお願いします。

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🎵雲は湧き 光溢れて 天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ~ (天恢)
2017-08-09 08:28:50
 8月に入ると、ご先祖さまをお迎えする旧盆が近づきます。 昔のことが懐かしく思い出される一方、今年も後半に入ったなぁ~という寂し実感がわいてきます。 今回も、昭和の世なら松山城下から遠く離れた和気郡から風早郡の「粟井坂から 河野氏の故地 北条へ」を楽しく読ませていただきました。

 さて、数ある興味深い話題から天恢が選んだのは、正八幡神社の注連石に書かれた三輪田米山の字です。 恥ずかしながら米山(べいざん)の名も、注連石(しめいし)も知らなかったのです。 それが今回ブログを読んで、遍路2年目に、『49番浄土寺を出て、赤い大きな鳥居の前に、これまた大きな「魚躍」と「鳥舞」の二本の石柱が奉納されていた。 松山人はセンスのある方が多いとお見受けした。』と、日記にこう書いており、これが米山の注連石であったと気づかされました。 そして、この赤い大きな鳥居の神社こそ、松山市久米にある日尾八幡神社で、米山は、ここで生まれ、謹厳、実直な神主だったのです。 
 小池邦夫さん(絵手紙作家)によれば、米山の日記に、「真面目な性格では、良い字は生まれないと、しこたま酒を飲み、上手に書きたいという気持ちを捨てたとき、良い字が生まれると」記されていたそうです。 二升、三升と浴びるほど酒を飲み、倒れる寸前で書いたとき、生涯の傑作が生まれたという。 まさに命がけで書いた米山の天衣無縫の書体は、『酔うほどに文字は横広がりになり、篇(へん)と旁(つくり)の間に大きな透き間が生じる。この透き間に人の心と、さわやかな風が吹き、米山の書に引きつけられていく』と、評されています。 

 さてさて、タイトルの「🎵雲は湧き 光溢れて 天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ~」ですが、「若人よ いざ まなじりは 歓呼にこたえ いさぎよし 微笑む希望 ああ栄冠は君に輝く」と続きます。 作詞:加賀大介 作曲:古関裕而 「栄冠は君に輝く」です。 今年も甲子園で全国高校野球が始まりました。 この盛夏にもっともふさわしい歌です。
 今年の甲子園には、天恢にとって思い入れが強いものがありました。 故郷の県代表チームに、わが過疎の町出身のエースと主力打者の2名が出場し、初戦で見事に華々しく無残に敗退しました。 主力打者は期待通りホームランを打ったのですが、エースは県予選で次々と私立の強豪校を「無心」で抑えてきたのに、甲子園ではこの「無心」という平常心をすっかり忘れていました。 
 もう一つ、今年の遍路の際に立ち寄った「龍馬脱藩の道」の高知県梼原(ゆすはら)町にある県立梼原高校のことです。 授業が終わって、学校から自転車で三々五々と練習場へ向かう野球部の生徒さんたちが、全員、爽やかな挨拶を観光客までにしてくれました。 この爽やかナインの梼原高校がナント高知県大会の決勝戦まで駒を進めたのです。 10年前に過疎に苦しむ町が、「野球で町おこしを――」。 そんな思いで町をあげて、名監督を迎えて、野球部を応援してきましたが、残念ながらあと一歩で県代表にはなれませんでした。 町のキャッチフレーズが「雲の上の町」なので、野球部員は「雲の上の球児たち」と呼ばれています。 もう甲子園出場は雲の上の話ではなくなりました。
 目指せ!!甲子園 打て! 走れ! 守れ! 梼原高校 雲の上の球児たち
負けーてくやしい・・ (楽しく遍路)
2017-08-10 15:51:54
甲子園、熱い戦いが続いています。
そうでしたか。梼原高校が決勝まで進んでいたこと、知りませんでした。
調べてみると明徳義塾を相手に7-3。
健闘を讃えたいと思いますが、彼らは、・・負けて悔しい・・のでしょうね。
天恢さん思い入れの、過疎の町のエースもきっと、・・負けて悔しい・・思いをしていることでしょう。いい勉強になった、と思えるのは、まだまだ先の話。

♪雲は湧き 光溢れて 天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ・・
次にこの歌が流れるとき、私たちは、とまれ、一夏が過ぎたことを思い、秋の訪れを感じていることでしょう。

三輪田米山の紹介、ありがとうございます。おかげさまで記事が豊かになりました。
とっくに天恢さんが、写真付きで、しかも真っ正面から、米山の文字を取りあげていたのに、ごめんなさい、ホームページを拝見していながら、すっかり失念しておりました。(天恢さんは1巡目の遍路をHPで紹介しておられます。「天恢」で検索閲覧できます)。
日尾八幡神社は私も取りあげましたが、赤い鳥居に目が向かい、米山の文字は見ておりませんでした。松山市民もさりながら、さすが天恢さんです。
  魚躍  鳥舞
  魚游於水  鳥遊於雲
同じテーマです。米山お気に入りのテーマに違いありません。注連石に三本目があれば、
  米山酌酒   と書き足したでしょうか。

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