楽しく遍路

四国遍路のアルバム

塩入から 満濃池 神野神社 神野寺 久保神社 御神事場 金刀比羅宮へ

2018-01-10 | 四国遍路

 
この記事の末尾へ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ


募集中
平成21(2009)10月のことです。土讃線の塩入駅を降りて、行方も定めずブラブラ歩いていると、こんな看板に出くわしました。厳しい問題ではありますが、明るい調子の呼びかけに、少しホッとした記憶があります。
しかし、あれから8年、事態がよい方に向かっているとは、思えないのですが。


ソバの花
本来なら目指すべき満濃池は、北東方向なのですが、私が進んでいるのは、南東方向です。すこし彷徨ってみようと思い、当てもなく歩いています。寄り道、脇道、まわり道、・・は天恢さんのフレーズですが、これに「彷徨い道」を加えても、たぶん天恢さんに異論はないと思います。


春光寺
浄土真宗のお寺ですが、「真宗興正派 春光寺」とあります。
「浄土」を略しているのではなく、宗派名としては、「真宗興正派」が正式なのだそうです。ただし、同じ浄土真宗でも、本願寺派にかんしては、「浄土」を含む「浄土真宗本願寺派」が、正式なのだと言います。
長く識らないことでしたが、浄土宗との関係なども含めて、いろいろの経緯があってのことのようです。


道標
寺の側で道標を見つけました。写りが悪いのですが、両方向を指す指差しの下に、
  善通寺    三里二十町
  琴平      二里二町
  塩入      三十町
  阿讃国界   三里二七町
とあります。箸蔵寺や「こんぴら」が示されていませんから、箸蔵街道を意識した道標ではないようです。
東山峠を越える道を示していると思われます。財田川を遡り、塩入温泉を抜け、東山峠を越えると、阿波です。


道標
前号でお伝えした箸蔵街道の石仏越に、東山峠越え道への渡りを案内する道標がありました。東山峠道は、箸蔵街道の東を、阿波に向けて通っています。
なお箸蔵街道の西には、阿波街道が通っています。現国道32号で、猪ノ鼻峠を越える道です。


春日神社
春日神社がありました。祭神は春日神。春日大社に繋がる神社です。
産土神として、長く崇敬されてきた神社と思われます。地域の地名は、社名に由来して、「春日」となっています。
春日神社は全国に多く、その数は1000社を超えています。この後、訪れる予定の琴平にもあり、幸い私は、その氏子祭を見物することが出来ました。 (H23秋七回忌遍路①)


地神さま
五角形の石塔は、神々の憑り代です。地神さん(じじんさん)と呼ばれています。地神さんは、春とともに山から来たり、秋の収穫を見とどけて山に帰る、農耕の神です。石柱には、天照大神、大己貴神、少彦名神、埴安媛神、倉稲魂神の御名が刻まれています。
地神さんは高見の場にはおられません。農耕の現場にいらっしゃるのが、地神さんの特徴です。そのせいでしょうか、皆さん、なんの気兼ねもなく、ゲートボールを楽しんでおられます。


お接待
ヤマザキ・パンの運転手さんに、現在地を確かめたくて道を尋ねると、その時はお忙しかったらしく、・・後で追いかけますので、このまま歩いていて下さい。・・とおっしゃいます。
やがて追いついてきて、・・送りましょう。乗りませんか。・・と誘ってくださいました。・・いつか(自分の)子供らに返ってくれればと、出来ることはさせてもらっとるんです。・・と話されます。


神野寺
・・してほしいと思うことを、まず自分が人にせい、そう話してくれた人がいましてな、できるだけ、するようにしとるんですわ。そしたらそれは、いつか私の子供らにも返ってくるかもしれん。回るんじゃ、と思うんよ。
好意を受けることの方が多い私は、ちょっと恥ずかしい思いで聞いていたのでしたが、気づいたら、お寺の前でした。お寺に乗り付けてしましました。こんな贅沢は初めてです。もう二度とはないでしょう。


神野寺
伝承は、弘仁12(821)、空海が満濃池を築堤し、池の守護として五穀山神野寺(かんの寺)を開山した、と伝えています。池を護り、五穀豊穣を祈る寺です。
寺は、例によって天正年間、長宗我部元親の侵攻で焼け落ち、その後、長く廃寺となっていたそうです。復興されたのは、ようやく昭和9(1934)、空海入定1100年祭の年でした。


満濃大師
史実としては、空海は満濃池を「改修」したのですが、空海の偉大さ故でしょうか、伝承では、この池はお大師さんが造ってくださった、ことになっています。
・・大師は渇水にあえぐ民を覧になり、お杖を地に突きたてたそうな。すると、そこから水が湧き出てきたという。・・これが満濃池の始まりじゃ。ほれ、見てみなされ。あれが満濃大師さんじゃ。大きいじゃろう。ずっと満濃池を護ってくださっとる。ありがたいことじゃ。


満濃池御創築の碑
読みにくいですが、上部に二行に分けて、満濃池 御創築 とあり、弘法大師 御滞留之所 と続いています。御創築、、つまり、大師がお造りになった、ということです。


神野神社
満濃池の側には神野寺の他に、神野神社もあり、こちらもまた、満濃池を守護しています。もちろん元は、神野寺と一緒になって護っていましたが、今は、いろいろあって、別々に護っています。
祭神は天穂日命(あめのほひ命)、水波能売命(みずはのめ命)。稲の神さまと、迸る水の神さまです。


神野神社
社殿を新しく建て直したようです。鳥居は、文明2(1470)の建立です。


扁額
式内 神野神社 とあります。延喜式神名帳 (じんみょうちょう)に記載された神社ということです。
神名帳の編纂は、延長5(927)といいますから、神野神社は古社です。


満濃池
満濃池は、農業用水だけでなく飲用水にも使われ、2市4町が利用しているとか。日本最大級の溜め池です。
見える構造物は、取水塔です。この塔は(後掲しますが)、まんのう町のマンホール蓋に、図案化されています。


満濃池
満濃池の取水源のうち、私たちになじみ深いのは、財田川、金倉川、土器川です。
財田川は、68番神恵院、69番観音寺へ向かうとき、その河口の辺を渡る川です。70番本山寺へ向かうときは、その土手を歩きます。


財田川堤防
70番本山寺へ向かう、財田川堤防上の道です。行く先に本山寺の五重塔を見ながら歩きます。


満濃池
金倉川(かなくら川)は、76番金倉寺で私たちには馴染みですが、その読みは異なっています。お寺は「こんぞう寺」です。たしかに、お寺が「金の蔵」ではまずかろう、とは思います。
また金倉川は、多度津と丸亀の境をなす川とも考えられます。77番道隆寺に参った後、私たちはこの川を渡り、丸亀市街に向かいます。


土器川
土器川は、78番郷照寺へ向かうとき渡る、香川県唯一の一級河川です。丸亀と宇多津の境、と考えてもいいと思います。後ろの山は讃岐富士(飯野山)です。
金倉川と土器川に挟まれた地が丸亀で、二つの川を防衛ラインとして、丸亀城は築かれています。


金倉川
ふたたび金倉川です。
金倉川は、まんのう町塩入付近を水源としますが、一度、満濃池の南東部に注ぎ込み、再び、北側にある堰から流れ出てきます。
写真の水路は、満濃池の放水路ですが、また、金倉川でもあります。
考えたくないことですが、万一この堤防が破堤したとき、洪水は金倉川筋の低地を駆け下ることになります。ハザードマップを見ると、その被害範囲は広大かつ甚大です。


堤防
放水路=金倉川から、堤防を眺め返した写真です。直近の嵩上げ工事は、昭和36(1961)。堤高は32㍍とのこと。
この辺は蛍の里でもあるらしく、近くに「ほたる見公園」が整備されています。


マンホール
まんのう町のマンホールには、ホタルが描かれています。後ろの構造物は、前述した、満濃池の取水塔です。


千日紅
満濃池を発ち、金刀比羅宮に向かいます。
出来れば金刀比羅宮から歩き始め、満濃池を経て、箸蔵寺へ向かいたかったのですが、宿の都合で、こういうこととなりました。
千日紅が可愛らしく咲いていました。


飯野山
飯野山が見えてきました。讃岐富士です。


まんのう町
満濃町は、平安以前は、神野郷と呼ばれていたそうです。神野寺や神野神社の名に残る「神野」です。ところが平安時代に入り、嵯峨天皇の御諱である神野(加美野)に触れることとなり、これを憚り、真野(まの)に改めた、と言われています。満濃という表記は、明治に入ってからのようです。
満濃町は、平成の大合併で、仲多度郡の琴南町、仲南町と合併。ひらがな表記「まんのう町」に変わりました。琴南町や仲南町へ配慮しつつ、マンノウの名を残したのでしょう。


象頭山
左に琴平山524㍍と象頭山(ぞうず山)538㍍が見えています。ほぼ同じ高さなので、ピークとしては、見えません。右の一番高いピークが大麻山(おおさ山)616.3㍍です。
  象の目の笑ひかけたり山桜  蕪村
象の目に当たる辺に、金刀比羅宮が在るのだそうです。そこに山桜が咲いていたのでしょう。


久保神社
金倉川沿いに久保神社があります。見事な社叢の神社です。元は妙見神社でしたが、神仏分離策によって妙見菩薩は廃され、地名の久保をとって、久保神社になりました。久保の地名由来は、・・この地域は洪水が多く、そのため窪みが所々にあったことから、窪が変じて久保になった、・・とのことです。
もしかするとこの伝承は、満濃池決壊の記憶につながっているのかもしれません。満濃池から久保までの距離は3キロ余。高度差は約70㍍です。


金倉川
弘仁12(821)、満濃池が大決壊。改修は困難を極め、ついに空海が派遣された話は、よく知られています。
空海は見事それを成し遂げましたが、決壊はその後も起り、鎌倉、戦国時代には、(水不足の地であるにもかかわらず)修築は放棄され、干上がった池の跡に人が住み、「池内村」が出来ていた、とも言われています。
江戸時代、寛永の頃、池は再築されますが、安政元(1854)の南海トラフ巨大地震で、またも大決壊。明治3(1870)改築完成まで、15年間、ふたたび廃池となっていました。満濃池は明治以降の嵩上げ工事を経て、ようやく昭和36(1966)、現在の姿になったといいます。


琴平町
まんのう町から琴平町に入りました。
聞いた話では数年前、まんのう町と琴平町の間に合併話があったそうなんですが、この縁談話、うまく進みませんでした。一番の難題は、合併後の町名をどうするか、だったと言います。金刀比羅宮を持つ琴平町、満濃池を持つ満濃町、どちらも町名を残したい町でした。


琴平町のマンホール
満濃町のマンホールが満濃池とホタルであるのに対し、琴平町は、金刀比羅宮の参道です。石段を上がる駕籠が描かれています。


龍松寺
寺がありました。真言宗御室派の龍松寺です。
前号でお伝えした箸蔵寺は、真言宗御室派に属したことが有利に働き、神仏分離を免れたといいます。しかし同じ御室派でも龍松寺には、神仏習合の気配はありません。歴史を測る定規は、ないようです。


金刀比羅宮御神事場
金倉川沿いに金刀比羅宮神事場が鎮座しています。金刀比羅宮参道から、約300㍍上流です。
様々の神事が執り行われる場ですが、とりわけ秋季例大祭の「お十日」(おとうか)に行われる「 お下がり」では、この神事場が大切な役割を果たします。お下がりされた神さまの、御旅所となります。


御神事場御旅所
年に一度、10月10日、「お十日」の日、大神様が奥社から麓の門前町に、お下りになります。この日だけは、1368段の石段を上らなくても、神さまの方から、降りてきてくださいます。


お頭人さま
お下がりになる行列は、「お頭人さま」(おとうにん・さま)と呼ばれる、馬に乗った男児2人と、駕籠に乗った女児2人に先導され、その他、巫女さん、神馬などなど、およそ500人が、金色の御神輿(ごしんよ)に供奉するそうです。まさに平安絵巻さながら、とのことです。


御神事場
私がここを通過したのは、10月13日でした。例大祭全体はまだ終わっていませんが、「お十日」は、残念ながら過ぎていたのでした。


金倉橋に架かる鞘橋
この鞘橋は明治2(1869)の竣工です。慶応2(1866)、洪水で流失したため、架橋しなおしました。説明看板に、・・江戸時代には幾度も洪水により流失。そのたび架け替え工事が行われた、・・とあります。久保神社に続く洪水の話です。
その頃は参詣本道に架かっており、(今は神事の他は通行できませんが)、庶民も渡ることができました。金倉川は垢離場となり、裸で沐浴、身を清める姿も、見られたようです。
橋が現在地に移されたのは、明治38(1905)とのことです。日露戦争勝利報告の陸軍行進を通すためだったと言います。戦車も通るとなれば、支えきれるものではありません。


金刀比羅宮参道
申し訳ありません。ブログの容量の関係で、本殿、奥の院、松尾寺参拝の報告は、別の機会に回します。
今号では、金毘羅大芝居・金丸座についてのみ、記します。


金丸座
お座敷唄として、また道中唄として、江戸の末期頃、流行った唄、・・
 ♫こんぴら船々 追風に帆かけて シュラシュシュシュ・・
なんとも楽しげな唄です。金比羅講中の賑やかな道中が、目に浮かぶようです。「楽しく遍路」の、遠く及ぶ所ではありません。


舞台
金毘羅大権現のご利益をいただいて、金比羅大芝居やお相撲も楽しんで、旅の疲れを吹っ飛ばします。


向こう正面
常打ち小屋になるのは、天保6(1835)、高松藩寺社方の許可が下りてからのようです。それまでは、興業の都度、仮小屋を建てていたと言います。
常打ちとなった金毘羅大芝居は、金比羅参り人気と相まって、全国に知られることとなりました。


奈落
金丸座は国指定の重要文化財です。現存する日本最古の芝居小屋だといいます。
セリ(奈落からセリ上がってくる装置)、スッポン(セリの一種で、花道にある)、カケスジ(宙乗り用の装置で、上の写真の右上に見えている)、ブドウ棚(雪や桜の花びらを客席に降らしたりする時に使う。上の写真の格子状の部分)、空井戸(花道と舞台の付け根にある空枠で、奈落に通じる)など、本格的の装置があります。写真は回り舞台の装置です。


通行札
とはいえ、金比羅大芝居にも浮き沈みはあり、一時は映画館に鞍替えしたり、映画の斜陽化とともに廃館となったりと、風雪を越えてきました。
カケスジとブドウ棚は、映画館時代に取り外され、以来、分からなくなっていましたが、平成の大修理の時、その痕跡を発見。復元されたと言います。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号、更新予定は2月7日とします。

 この記事のトップへ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ
ジャンル:
ウェブログ
コメント (2)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 今日は観光! 箸蔵寺から 池... | トップ |   

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
♪嫁に来ないか ぼくの ところへ~  (天恢)
2018-01-12 09:28:03
 めぐり巡って、また新たな年となりました。 このところ日本列島がすっぽり北極寒波に包まれて寒い日が続きますが、春の訪れを告げる早咲きの梅もちらほら咲き始めました。 今回も「塩入から~ 金刀比羅宮へ」を楽しく読ませていただきました。

 さて、「楽しく遍路」さんが平成21年10月に歩かれた「箸蔵街道」のリライトも今回で三回目、趣ある静かな旧街道の雰囲気が伝わってきます。 宿の都合で、満濃池を発ち、金刀比羅宮に向かって、『すこし彷徨ってみようと思い、当てもなく歩く』って、気持ちにゆとりがないとなかなかできないことです!
 天恢の『寄り道、脇道、まわり道』にも「迷い道」を加えたかったのですが、悠長に、あてどもなく彷徨うのではなく、『🎵ひとつ曲がり角 ひとつ間違えて 迷い道くねくね~』の「迷い道」で、遍路中は迷子になる達人でした。 人家のある所で迷って歩きまわる限りでは楽しい出会いや思い出もあるのですが、人里離れた山中で一つ間違ってしまうと怖い話です。 まっ、スマホの時代ですから、こんなこともGPSアプリの発達で、遍路で迷子になるなんていずれ笑い話になることでしょう。
 
 さてさて、タイトルの「♪嫁に来ないか ぼくの ところへ~ 」ですが、1976年にリリースされた新沼謙治さんのヒット曲・「嫁に来ないか」です。 阿久悠さんの作詞で、田舎の純朴な青年の結婚観が綴られています。 
 ブログの冒頭に、さ迷い歩く「楽しく遍路」さんの目に留まった『お嫁においでよ みどりの町へ』の看板。 『厳しい問題ではありますが、明るい調子の呼びかけに、少しホッとした記憶があります。 しかし、あれから8年、事態がよい方に向かっているとは、思えないのですが。』と、続きます。 天恢の記憶ですが、今から4、50年前は「♪嫁に来ないか からだひとつで~」なんて珍しいことではありませんでした。 それでいて、すぐに別れたということでもありませんでした。 今の世はみどり豊かな田舎だけではなく都会の砂漠でも結婚難時代です。
 婚活もままならず、所得も増えず、少子化も手伝って、スムーズに結婚とはまいらぬようですが、未婚化・晩婚化が決して支持されているようでもなく、やはり未婚の男女とも結婚願望は根強いものがあるようです。 そうなると背中を強く押してくれる「お仲人」さんが必要とされます。 人が介することを嫌う現代人ですから、お上の肝いりで究極のお仲人である「AI(エーアイ)月下氷人」の登場となります。 この条件では最高という相思相愛の理想のカップルが続々と誕生して、たちまち人口問題も解決してメデタシメデタシです。 
 さて、こんなうまい話はあるかって? 口説きがセクハラにとられかねないこの御時世で、一線を越えて結婚となると本当に厳しい、難しい問題で、日本の人口減少は覚悟して生きていかねばならないのが現実でしょう。

 終わりに「夢千代日記」「花へんろ」で知られる脚本家・作家の早坂暁さんが暮の16日にご逝去されました。 88歳の生涯でした。 「楽しく遍路」にもたびたび登場し、直近はH29春遍路4 北条~ に 『「花へんろの町」は、早坂暁さん脚本のテレビドラマ「花へんろ」に因みます。早坂さんは、北条出身の作家です』と、掲載されたばかりでした。 ご自身の体験を踏まえて、ながく遍路文化を支えてくださった方でした。 心からご冥福をお祈りいたします。
♫いのち短し 恋せよ乙女 (楽しく遍路)
2018-01-14 09:20:29
天恢さん、早速のコメント、ありがとうございます。お元気の様子、うれしいです。今年が天恢さんにとって、いい年でありますように。
私は、昨年末、やや体調不良でした。ために秋の遍路が中止となったりしたのですが、今は回復基調にあります。ザックは今もパックしたままで、スタンバイOK、というところです。

さて、題名のゴンドラの唄 ♫いのち短し 恋せよ乙女・・は、ここでは、黒澤明監督の「生きる」で、志村喬が唄う、それです。
高校の英語の授業で先生が、We don’t live to eat, but eat to live. と板書し、人はパンのみにて生くるにあらず、・・などと、熱っぽくぶったことがありました。
彼の熱は結構、私たち生徒に伝わり、それからしばらくの間、登下校の途中などで友達同士、幼い議論を戦わせたりしていたのですが、映画「生きる」を再映で見たのは、それから間もなくのことでした。「生きる」は昭和27(1952)の公開でしたので、封切りは見ておりません。まだ小学生でした。
高校生の私たちに、あのブランコのシーンは鮮烈でした。自分たちの送るべき人生を思ってみたり、させられたものでした。

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを

そんな私も、いつのまにやら、明日の月日が少なくなっています。
「志村喬」の人生は、まさにそれから始まるのですが、私には、その気配が、未だありません。
  公園の ベンチに一人が 様になり    
最近の私の、自嘲川柳の駄作です。散歩の途中、公園で子供たちが遊ぶのを一人見るのが、楽しみになっています。
なお、私の遍路仲間だった北さんは、近頃、公園デビューしたそうです。当たらず障らずを保ちながら、しばらく会話をして過ごすのだそうです。中には、そこでの会話が、その日の唯一の会話である人もいるのだとか。

さてさて、私の友人で、自分の子供が結婚していない人が、かなりの数います。
なぜ結婚しないか、その理由を尋ねてみますと、その第一は将来不安なのだそうでした。食べられないかも知れない、食べさせられないかも知れない、そんなとき、だれもなにもしてはくれない。体一つで・・、それはない!ということのようです。
第二は、第一と同根ですが、共同生活への不安でした。人と熱くつながることへの恐れ、とも言えましょうか。当たらず障らずLINEでつながっているくらいが、安心していられるそうです。熱くなりたいときは、かならず匿名だと言います。

地域の崩壊が言われて久しいわけですが、「社会」なるものの存在を、彼らは(そして私たちも)、基本的に信用できなくなっているようです。
代わりに、彼らはネット社会に依存し、私たちは公園に依存するのかもしれません。
パンのみにて生くるにあらず、・・そんなことを、(考えるだけでしたが)、考えることもできた私は、幸せな時代に生きた、のでしょう。

早坂 暁さんのご冥福を、お祈りいたします。   合掌
  生きたくば 蝉のよに鳴け 八月は   暁 
「生」を真摯にみつめた方を、またまた亡くしました。

コメントを投稿