楽しく遍路

四国遍路のアルバム

久万 仰西渠 高殿宮 三坂峠 窪寺 浄瑠璃寺 

2017-04-05 | 四国遍路

 
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松山藩里程標
昭和20(1945)前後、三坂旧道(土佐街道)を歩いた人の話を、「えひめの記憶」が採録しています。
・・松山までの正確な距離はわかりませんが、久万から松山の札の辻までが7里あると言われていました。久万町から三坂峠までが3里、三坂峠から札の辻までが4里になります。時間は、(1里1時間として)松山までは7時間になります。朝7時くらいに久万を出て、・・砥部の原町まで行くと・・昼ごはんにしていた記憶があります。


松山札之辻跡
・・お遍路さん以外で三坂旧道を歩く人は、ほとんどいなかったのですが、「バスの料金が高いのでもったいない」と言って歩く人や、バスが満員で乗れなかった人、バスに乗ると車酔いをするので歩く人がいました。


国道33号 
(古い写真で恐縮ですが)、里程標は国道沿いに移され、民宿一里木さんの前に立っています。札の辻は、松山城の西側に「札の辻交差点」の名前が残っています。
・・さて私も三坂峠に向かいますが、峠の久万側は国道33号(車道)であるうえ、前にも記したことがある区間なので、大除城、仰西渠、高殿神社と、・・峠付近についてのみ記します。


大除城
それほど歩かないうちに、右前方に、採石で削られた山が見えてきます。山上に(比高150㍍余)、大除城跡(おおよけ城)があります。 河野氏が土佐一条氏の侵攻に備え、文亀元(1501)、築城したと言われています。
文亀元年といえば、一条氏は2代 房家の時代で、土佐七雄の随一として、勢い盛んの頃でした。河野氏の心配も、わかろうというものです。


大除城
城山を見上げるこの場所は、仰西(こうさい)と呼ばれています。仰西渠(こうさい・きょ)に因む地名です。
仰西渠は灌漑用水路で、久万川から取水しています。かつては大除城の防衛ラインだった川ですが、仰西渠が掘られた江戸期、城はすでに廃城となっていました。
また仰西は、前号でふれた千本峠(高野越え)の道が降りてくる所でもあります。岩屋寺から浄瑠璃寺(松山)へ向かう遍路は、河合へんろ宿→千本峠を経て、仰西から三坂峠道に入りました。


仰西渠之碑
仰西渠は、渠を掘った人の名前に因んでいます。仰西(人名)は17世紀後半の人で、本名は、山之内彦左衛門光実。商人ですが、苗字、諱を持っています。晩年を念仏行者として過ごし、仰西と号したそうです。
仰西はまた、鍋割坂を通した人としても知られています。鍋割坂には、後でまた触れます。


仰西渠
仰西渠は今も現役です。下流の水田25ヘクタールを潤している、と案内板にあります。
当初からかどうか、わかりませんが、取水堰が二段になっています。安山岩の岩盤がある所に取水口をつくり、岩盤を穿ち、恒久的な水路を通しました。


岩盤
それ以前は、掛樋で水を流していたため、樋の破損は度重なり、難儀していたといいます。


トンネル出口
水路は、幅1.2㍍、深さ1.5㍍、 長さ57㍍で、途中、約12㍍はトンネルだといいます。


水路
仰西は自らも鑿をにぎり、槌をふるった、とのことですが、「人夫」の作業効率を上げるため、岩くず一升と米一升を交換したそうです。それでも完工までに3カ年を要したそうで、仰西は、私財のほとんどを使い果たしたといいます。


高殿宮
仰西渠の先に高殿宮(こうどの宮)があります。大宝寺の興りにかかわる神社です。
大宝寺は、・・猟師が(後に菅生と呼ばれることになる)山中に入り、十一面観音像を見つけ、これを祀った、・・ことに創まりますが(前号参照)、その猟師について、「四国遍礼霊場記」の大宝寺の項は、次のように記しています。
・・其猟師といへるもの白日に天にのぼれり、是れを高殿明神と斉祀す、・・

高殿神社
大宝寺のご本尊、十一面観音像を見つけた猟師は、天に昇って仏法護法の神となり、高殿明神として祀られている、とのことです。
ただし「白日」は、単に時を表すのではありません。白日昇天。猟師というものが「貧賤」と見られていたことから来る表現です。


高殿神社拝殿
高殿神社の主祭神は、(高殿明神ではなく)、高御産巣日神(たかみむすび神)です。元猟師の神は嫌われ、代わって、天照大神とともに高天原を主宰するエリート神、造化三神の一、高御産巣日神を迎えたのでしょうか?
あるいは神仏分離の時、「明神」は神仏混淆の神として、退けられた可能性も考えられます。


社紋
しかし、では高殿明神は廃されてしまったのか、と言うと、そうではありません。
まず「高殿」は、社名に残されていますし、神社がある地域の字名は、今も「高殿」です。また「高殿」に隣接する地域は「東明神」、「西明神」ですから、言葉合わせで遊べば、「高殿明神」は残っています。○に高の字が刻まれていますが、この「高」、実は高殿明神の「高」かもしれません。


奥殿
実際、調べてみると、高殿明神は今も、脇神としてですが、高殿神社に祀られていました。居並ぶ脇神さまの中に、「明神右京霊神」の御名がありますが、この神が高殿明神です。
大宝寺を開基した猟師は、その名を「右京」といいます。四国遍礼霊場記によれば、この猟師・右京が、高殿明神に成るわけですから、明神右京の霊神は、即ち、高殿明神、ということになります。


彫刻
明神右京が脇神として祀られている事情は、次のように説明されています。
・・その昔、日向国高千穂から、高御産巣日神(現主祭神)の御分霊を当地にお招きしましたが、その時、随伴したのが明神右京(→高殿明神)でした。その随伴神としての功績で、明神右京霊神は高御産巣日神の脇に、祀られています。
なお右京には、隼人という弟がいたと言われています。生国は、安芸とも豊後とも言います。


峠道
高殿神社から峠近くまで、12キロほどでしょうか、この区間、前に記したこともあるので、重複をさけスキップします


茶堂
峠の数キロ手前に茶堂があります。屋根が宝形造り、床は板床、壁面は三面が吹き抜けで、正面に祭壇。典型的な茶堂の形式を踏んでいます。
屋根に縦の筋が入っているのは、降雪があるからでしょう。地元の人が三坂トンネル建設の陳情に、当時の建設省に行ったとき、雪が降ることをお役人に信じてもらず困った話が、「えひめの記憶」に採録されています。


道標
徳右衛門道標です。・・是より浄るり寺へ二・・(以下埋没)



峠です。標高720㍍。久万との比高200㍍ほど。


へんろ道へ
国道33号から離れます。


松山方向
真念さんは「四国邊路道指南」に、・・この峠より眺望すれは、ちとせことぶく松山城堂々とし、・・と、その絶景を列挙しています。
そのうちの伊予の小富士が、幸い、写真一番奥に写りました。真念さんは、・・駿河の山のごとし、・・と記していますが、小富士は興居島(ごご島)という島です。松山空港に降りる時、見えることがあります。



峠は広場になっています。茶屋などがあったのでしょう。これより下りとなります。


鍋割峠
碑には、・・鍋割坂 仰西翁偉績・・とあります。仰西渠のところで記した、山之内仰西です。
鍋割峠が三坂峠全体を指すのか、三坂峠のなかの一部を指すのか、案内板によって違いがあります。とまれ、難所に道を通した、ということでしょう。


石畳
「鍋割」の謂われは、・・行商の金物屋が商売用の鍋を石畳に落として割ったことから、・・とも、・・足を滑らせたお遍路 さんが、背負っていた自炊用の鍋を割ってしまったことから、とも言います。それほどの急坂だったことは、確かのようです。



案内板に馬子唄が紹介されています。
  むごいもんぞや 久万山馬子はヨー 三坂夜出て夜もどるヨー ハイハイ 
     三坂通いすりゃ雪が降りかかる もどりゃ妻子が泣きかかる ハイハイ
次は子規の句です。
  旅人のうた のぼりゆく 若葉かな  子規


一ノ王子社跡
四阿がある場所に、一ノ王子社があったそうです。石鎚信仰が熊野信仰を取り込んだもので、各王子、王子で、石鎚参詣者が奉幣、誦経したといいます。
石鎚山山頂まで道沿いに、点々と(おそらく99の)王子社が在ったようです。残念ながら、現在、道は消え、王子社が在った場所も不明だとのこと。


へんろ墓
遍路墓があります。これは、天保の時代、能登から来た女性のものです。


棚田
イノシシ、猿、ハクビシンたちとの、戦いの最前線となっている棚田です。平成16(2004)、北さんと二人でを歩いたとき聞いた、食害に悩む老農夫の話は、いまも忘れられません。
・・本当は止めたいんよ。だけんど、止めたら、たちまちジャングルじゃろ。道なんか、のーなってしまうし、・・。


坂本屋
明治末(大正初期)から昭和初期まで使われていた遍路宿だそうです。
廃屋となっていたものを、平成16(2004)、修復してくださいました。私たちは、修復成ったばかりの坂本屋を見ることができました。


地べた
中に入ると、地べたがテカテカに固まっていました。この固さは、得がたい。



この辺は桜だったでしょうか、それとも榎だったでしょうか。桜も榎も、いずれもこの辺の地名です。


分岐
この登りを見たとき、北さんと私はすでに疲労困憊しており、もう登りは嫌だ、ということで一致しました。
右の、楽そうな道を選んだ結果、よけい疲れてしまったという、苦い経験の場です。


網掛け石
鯨石とも言うそうです。口をへの字に結んだ鯨の頭、にも見えます。


網目
大師はオウクという担ぎ棒で、岩を二つ運んでいたそうですが、途中、オウクが折れてしまい、一個は、いま大久保(オオクボ)と呼ばれている、数キロ先まで飛んでいったそうです。もう一個、転げ落ちたのが、これです。
大師が岩を包んだ網の目が、今に残っています。


札の辻から
久万は札の辻から7里でした。この地点は4里です。


窪寺標
・・一遍上人窪寺御修行之旧跡・・とあります。道脇にあるのですが、これまで気づきませんでした。(なお窪野橋近くにも、それと比定されている地があります)。
一遍上人は、文永8(1271)、窪野に庵室をかまえ、念仏三昧の三年を過ごしたといいます。ひたすら阿弥陀仏の名号を唱え続けました。岩屋に籠もるのは、この後です。
庵の東壁、・・それは信濃・善光寺の方角だそうですが、・・には「二河白道図」(にがびゃくどうず)が掛けられていました。同年春、善光寺で模写し、自分の本尊として、持ちかえったものだそうです。


窪寺
二河白道とは広辞苑によれば、・・おそろしい火と水の二河に挟まれた細い道を、西方浄土に到る道に例えたもの。火の河は衆生の瞋恚(しんい)、水の河は衆生の貪愛(とんあい)、白道は浄土往生を願う清浄の信心を表す。・・のだそうです。
なお、瞋恚(しんい)は、・・自分の心に逆らうものをいかりうらむこと。貪愛(とんあい)は、・・好ましい対象に対する強い執着。・・とのことです。
此岸から、お釈迦さまに励まされ、白道を往きます。彼岸では、阿弥陀さまが迎えてくださいます。誰でもがいつか、願わくば白道を、往きます。


踊念仏
一遍上人絵伝の中の、空也上人遺跡市屋道場の図の一部分をお借りしました。右から3人目が一遍上人です。念仏三昧に入っている様が描かれています。「白道」を往けますように、ひたすら南無阿弥陀仏と念じています
「踊念仏」とは、広辞苑によれば、・・空也念仏のこと。太鼓や鉦を打ち念仏・和讃を高唱する所作が踊るのに似るからいう。時宗の一遍により広まる。・・とのことです。


藤沢・遊行寺の一遍上人像
ただし、「所作が踊るのに似る」については、注が要るとおもわれます。
一説では「踊り」は、宗教的三昧に入った者の動作(跳躍を中心とする)が後に芸能化したもの、とも言われるからです。とすれば、「踊りに似る」はかならずしも適切ではなく、「踊りの原初の姿」というべきかもしれません。


刈り入れ
道後(松山)平野へ降りてきました。
刈り入れをしている農家の方に、暑いですねと声をかけたら、私らにはこの方が助かるんですよ、と返ってきました。刈り入れ後の稲の乾燥のことを言っているのです。数日は早く乾燥させられるといいます。


浄瑠璃寺  
   ご詠歌  極楽の 浄瑠璃世界たくらえば 受くる苦楽は 報いならまし  
浄瑠璃世界は極楽浄土。苦のない安楽の世界です。しかしこの世は、違います。苦があります。苦は因果の報い。薬師如来に祈らなければなりません。


句碑
石段の脇に正岡子規の句碑があります。
   永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺   子規 
永き日に時の移ろいを感じる、そんなある日のひととき、子規は衛門三郎に思いを致しています。
衛門三郎は業苦を背負い、四国を回り続けますが、死を目前にして許され、安らぎを得ることができました。衛門三郎と自分が重なります。



ご覧いただきまして、ありがとうございました。
もう桜が咲いたというのに、まだ昨秋の遍路分が終わっていません。恥ずかしながら次回もまた、昨秋分でしょう。
札所の他、衛門三郎ゆかりの文殊院、八塚、一遍ゆかりの宝厳寺などにも触れたいと思います。楽しい遍路がつづきそうです。更新予定は5月3日です。

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🎵桜の花が咲く頃は うらら うららと 日はうらら~ (天恢)
2017-04-08 08:46:57
 どうしたことか? 今年はサクラの開花が全国的に遅れました。 全国で最も早い開花宣言は東京都心で、満開宣言もダントツで東京都心でした。 平均気温で比べれば鹿児島や高知の方が高いはずですが、緑地の少なさ,ビルの多さ,水の少なさによるヒートアイランド現象が原因のようで・・・。 今回も「久万~浄瑠璃寺」を楽しく読ませていただきました。

 さて、今回は久万高原から松山に向かって三坂峠を下りる道中です。 晴れていれば、この三坂峠からは松山方面を遠望することができて、山中を歩いてきたお遍路さんの心を和ませてくれるはずです。 天恢が三坂峠を下りた6年前は運?悪く激しい雨降る道中で泣かされました。 峠を下りて最初に現れる人家が坂本屋で、休日だったので地元の方によるボランティアのお接待に預かって感謝感激したものです。 今も地元の方たちによってお遍路さんにお茶やお菓子や食事が振る舞われ、交流の場としてすっかり定着しているようです。 伊予の「青の洞門」として名高い「仰西渠」から、三坂峠を下って、一遍上人の窪寺修行跡など経て浄瑠璃寺まで、遍路する者にとってここも想い出残る遍路道です。

 さてさて、タイトルの「🎵桜の花が咲く頃は うらら うららと 日はうらら~」ですが、野口雨情作詞・草川信作曲の「春のうた」です。 このブログの季節は10月半ばのことで、タイトルと情景にはズレがあるのですが、今はサクラ咲く頃ですから我慢してもらいましょう。 「うらら」とは、春の雰囲気を実によく表した言葉ですよね。 文部省唱歌『花』でも「春のうららの隅田川」と歌われていますが、「春うらら」の意味は、春の気候が、「空が晴れて、日が柔らかく、静かで穏やかな様子」ということだそうです。 「うらら」は、どこか「楽しく遍路」さんの遍路にも通じるものがあって今回のタイトルとさせていただきました。
春の海 終日のたり のたり哉 (楽しく遍路)
2017-04-09 11:39:21
天恢さん ありがとうございます。

うらら、うららか、本当にいい語感です。
山本リンダさんのリズムに乗ってウララ~ウララ~となると、ちょっと事情が違ってきますけれど、・・。
ほどよい四季の巡りのなかからだけ生まれる語、そんな気がします。
思い浮かんだのが、
  春の海 終日のたり のたり哉   蕪村
です。蕪村は、楽しもうとすることなく、しかし存分に春を楽しんでいるようです。

・・一昨日からカエルが今季二回目の合唱を始めました。・・二回目が四月に入ってなのは、近頃なかったような気がします。桃が最盛期。八重桜がいつもより早く咲き始めました。桜の花期が長いし、三月の雨は少ないし、なんだか変な年です。
天恢さんからコメントをいただいたのと同じ日、北さんからいただいたメールです。北さんは二巡目途中まで、共に歩いた元職場の同僚です。
私の遍路仲間、おふたりが期せずして、桜の花期の長さを気にしていました。そこに気候の不順を感じています。間違いもなく不順なのでしょう。
やがて住む場を失うであろう北極熊が、上手く魚に進化できるよう、祈りたい気分です。

ところで天恢さんは、峠の雨男なんでしょうか?コメントで知っただけでも、三坂峠で激しく雨が降り、鵯田峠でも大雨にみまわれ、篠山越えでもひどく降られましたよね。

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