楽しく遍路

四国遍路のアルバム

少彦名命を祀る 道後の湯神社 大洲の、二つの少彦名神社

2017-05-31 | 四国遍路

 
この記事の末尾へ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ


伊佐爾波神社参道
石手寺の先に伊佐爾波神社があり、その長い参道の、神社に向かって左側に、湯神社という、珍しい名の神社があります。
祭神は大己貴命(大国主命)と少彦名命。葦原中国(あしはらなかつくに)を開拓なさった二神です。・・せっかく開拓しても、その後、天照大神に差し出すことになるのですが、それはさておきます。


道後湯神社
二神の仲を取り持ったのは、(前号でご紹介しました)物知りの「くえびこ」=案山子の神、でした。
見慣れない神に出会った大己貴命が、あの小さな神はなんという神か、周りの神に尋ねましたが、誰もわからず、ただ一人、知っていたのが「くえびこ」です。
・・あのお方は常世の国からおいでになった神で、少彦名命(すくなひこな命)とおっしゃいます。私ども案山子がお仕えする穀霊なのでございます。


道後湯神社
大己貴命と少彦名命が伊予国にやってこられたときのことです。少彦名命が突然、病に苦しみ始めたといいます。
大己貴命は豊後の「速見の湯」(今の別府温泉)を道後へと導き、手の掌に掬った温泉湯に少彦名命を入れてあげました。少彦名命は目玉親爺(鬼太郎のお父さん)のように小さな神で、逆に大己貴命は、大国主命の別名からもわかるように、巨体だったのです。


道後温泉本館
手の掌の温泉につかった少彦名命は、たちまち元気を取り戻し、石の上でピョコピョコ踊り始めたといいます。
以来、この温泉は熟田津石湯(にぎたつのいわゆ)と呼ばれ、「神の湯」として、その効能が広く知られるようになりました。少彦名命は、その経験をもとに医薬を学び、とりわけ百薬の長、酒造りには長じておられたと伝わります。
写真は、皇室専用の浴室・又新殿 (ゆうしんでん)への入り口です。


玉の石
少彦名命が、この石の上で踊られたのだとか。
道後温泉本館の説明文は、・・玉の石は大国主命と少彦名命の逸話にありますように、道後温泉の霊妙不可思議な効力の象徴であります。道後温泉のお湯をかけながら、「病気平癒」等の願い事を唱え、二礼二拍手一礼の拝礼をされることにより、必ずや神さまにその意が通じるものと存じます。・・と記しています。

  大洲の、二つの少彦名神社


冨士山 
明石寺から鳥坂峠を越え、大洲に近づくと、正面に冨士山(とみす山)が見えてきます。山裾を肱川が流れています。
川に突き当たると、道は二つに分かれます。新冨士橋をわたり肱川右岸を歩く道と、橋を渡らず肱川左岸を歩く道です。前者には如法寺や美しい景観が、後者には臥龍山荘や大洲神社、おはなはん通りなどがあります。


新冨士橋から神南山
新冨士橋の取っつきから肱川上流方向を見ると、奥に神南山が見えます。神南備山(かむなび山)が転じて神南山(かんなん山)となった、といわれています。
神南備山とは、神の鎮座する山の意で、この場合は、少彦名命が鎮座する山、ということになります。道後の湯で命拾いした少彦名命は、大己貴命とともに、次なる開拓地をめざして南下し、大洲にやってこられたのでした。
左の山裾は、冨士山です。


新谷から神南山
少彦名命は、(以前、記したことがある)新谷に住まいを定め、そこを「都」とし、神南山(と呼ばれることになる山)を神南備山とされたのでした。2.5万地図を見ると、新谷には今なお、「都」の地名が残っています!
・・そして、どれくらいの時が経ったのでしょうか、少彦名命は祭事(政)の場を遷し、神南山を挟んだ反対側の地にやって来られました。現在の菅田町菅田の辺りです。
・・ところが、ここで、大事故が起きてしまいます。


肱川と神南山
・・少彦名命が肱川を渡るため、どこか浅いところはないか、老婆に尋ねたときのことです。老婆が、そこは’深い’と言ったのを、命は’浅い’と聞き間違え、川に入られたのです。
命は小さなお身体です。たちまち溺れ、お亡くなりになりました。以来、その瀬は「宮ヶ瀬」と呼ばれるようになったといいます。むろん神さまのことですから、亡くなったのは現し身です。御霊は常世の国へお帰りになりました。これを「神去り」といいます。実は大神に呼び戻されたので、現し身を置いて去ったのかもしれません。

 
菅田町菅田の少彦名神社           菅田町大竹の少彦名神社
大洲には「少彦名神社」という同名の神社が、二社、在ります。
その一社は菅田町菅田にある少彦名神社で、命の居館跡に建てられたといいます。命が溺れた宮ヶ瀬は、この神社近くの、肱川の瀬と考えられます。
もう一社は菅田町大竹の梁瀬山にあります。下宮、中殿、本殿を構えた大きな神社です。奥社が在る所は「壺谷」と呼ばれ、命の亡骸が壺に入れられ、葬られた所だといいます。
少し寄り道になりますが、私はこの二社を訪ねてみました。


案内石板
まず菅田町菅田の少彦名神社(居館跡)を訪ねました。
境内入り口の石板に、次のように刻まれています。・・(当少彦名神社は)、神代の昔、大国主命と共に当地方を開発された少彦名命の最終居館跡と伝えられ、医薬療病の神と尊崇されている。命が終焉の伝説の「冠岩」は、肱川の上流約三粁にある。
摩訶不思議!冠は命から離れ、流れに逆らって上流へと漂い、岩にひっかかったそうです。ただし冠岩(御冠岩)の所在は、今は定かではありません。
・・宇都宮神社については、後に記します。


宮ヶ瀬遊園地
宮ヶ瀬が何処だったか、石板は記していませんが、境内に「宮ヶ瀬遊園地」の石塔が建っていることから、神社(居館跡)近くの、肱川の瀬なのでしょう。
「・・遊園地」ですが、境内は遊園地化されてもいるらしく、ブランコなどの遊具が見られました。


鳥居
鳥居には、文政十一戌子立之、とあります。1829年です。既に幕末ですが、この神社が古いことを予感させます。


拝殿
参道や敷石がなく、灯籠も、古い一燈をのぞいて、ありません。簡素な鎮もりをみせています。
右側に並んだ木の長椅子は、おそらく神前ゲートボール試合の観戦用なのでしょう。しかし、近頃使われた形跡はありませんでした。


拝殿
撮影に失敗していました。見づらくて申し訳ありませんが、拝殿の右奥に茶色の屋根の小祠があり、その前に常夜灯が一燈、あります。
私見では、常夜灯が元からの位置にあり、拝殿と小祠の位置は、変わっているようです。そのためか、常夜灯の位置が、やや安定を欠いていると感じられました。
常夜灯の建立年は、「享保」でした。吉宗の時代ですから、江戸時代の中期です。やはり、この神社は古いのです。


神南山
神南山を眺めながら、先出の宇都宮神社へ向かいます。すぐ近くです。少彦名神社より約200㍍上方、とのことです。


拝殿
先出の石板に宇都宮神社の説明が、次のようにあります。
・・大洲城主宇都宮氏の建立にかかり、旧河辺郷の総鎮守。現在は大字菅田の総鎮守として尊崇されている。


扁額
宇都宮大明神、とあります。宇都宮氏については、前に記したことがあるので略します。



肱川に架かる橋を渡り、もう一つの、命の亡骸を祀るという、少彦名神社に向かいます。


肘川 
上流に野村ダムがあるせいでしょう。少彦名命を溺死させたような、かつての水勢はありません。


44号線
県道44号、大洲-野村線の大竹付近です。


神南山
気持ちのいい歩きを楽しみます。


少彦名神社
もう一つの少彦名神社に着きました。
横断幕に「少彦名神社参籠殿 2016 ユネスコ アジア太平洋 文化遺産保全 金賞受賞」とあります。参籠殿は後にご覧いただきます。


参道
この神社は大きな神社です。梁瀬山の麓に下宮、参籠殿、拝殿、神殿を構え、尾根筋の5合目辺りに中殿、神楽殿を置き、8合目辺りに本殿、御陵が在ります。
しかし、神社でいただいた資料によると、これら社殿は、(神社としては)新しく、昭和初期の造営となっています。
  昭和 3(1928)  少彦名神社神陵梁瀬神社奉賛会設立
  昭和 6(1931)  神殿、拝殿、直会殿、社務所造営開始
  昭和 9(1934)  参籠殿竣工


梁瀬橋
では、この神社は新しい神社なのかといえば、それは違うようです。それ以前の記録も記載されています。ただし、永享13以前はなく、江戸時代は、全くの空白です。
  永享13(1441) 宇都宮太郎次郎、少彦名神社へ扁額「少比古廟」を奉納
  天正11(1583) 正岡宮内大輔、少彦名神社を再興
  明治 3(1870) 円墳式としての封土と瓦祠の存在を確認。のちに同場所に小祠を建立


下宮
一つの説があります。・・この山域は、とりわけ江戸時代、「不入の聖域」とされ、人為が加えられなかった、というものです。従って、その間の史料も、残っていないのでしょう。
神は原初、自然の中に鎮もっておられ、その鎮もる杜(もり)を、人は鎮守の森として崇めました。社殿は、基本的には、ありませんでした。そんな原初の姿が永きにわたって、ここ梁瀬山に保たれ、ようやく昭和初期になって、大規模な社殿が造営され、神社としての型が整った、ということでしょうか。社殿は、仏教寺院の影響を受けて、人が造りはじめました。


大洲駅前大鳥居
大洲駅に降り立った人の誰もが目にするのが、駅前の少彦名神社大鳥居です。この建立が昭和34(1959)であるのは、私には驚きです。この時期は未だ、言わば「戦後の神社氷河期」です。その頃、少彦名神社を、一貫して変わることなく、篤く支える人たちがいたのです。 
その流れが、およそ半世紀後の平成24(2012)、下宮の完成として結実。そして平成26(2014)、参籠殿の修復に繋がっているのかもしれません。


参籠殿
工法を「懸け造り」というそうです。日本建築伝統の「貫工法」のほか、昭和初期、すでに金属ボルトの使用といった、近代的技術も積極的に取り入れている、とのことです。
三面にガラス戸が巡らされています。


参籠殿
床面の9割は張り出しており、支柱は長いもので13㍍だといいます。


以前の参籠殿
平成24、初めて参ったときの写真です。


冨士山
右下が参籠殿です。奥に冨主山が見えますが、参籠殿内部からは、どんな景色が望めるのでしょうか。


拝殿
参籠殿から鈎の手に石段を上ると、拝殿です。


神殿
神殿です。
前回は、ここまでで引き返しましたが、今回は、御陵まで登ります。
御陵は梁瀬山の八合目辺りで、標高280㍍ほどです。(以下、ルート等について、「おすくな探検隊」作成のルートマップを参考にさせていただきました。この神社は「おすくなさん」と親しみ呼ばれているようです)。


石段
300段は越えていたように思います。尾根筋に真っ直ぐついています。霧でも出ていれば、異界につづく道とも思えるでしょう。


石段
石段は、進むにつれ、崩れてきます。だから段数のカウントも乱れます。でも、300段は越えていました。


鳥居
石段は鳥居の少し先までつづきます。鳥居の標高は110㍍ほどだそうです。拝殿の標高は40㍍ほどだそうですから、高度差70㍍ほどを石段で上がってきた計算です。


中殿
標高150㍍ほどの尾根のたるみ部に、中殿があります。内部は散乱しています。


中殿
側に崩落した建物があります。神楽殿だったそうです。


猪のぬた場
中殿の側にイノシシのお風呂がありました。
まずい!人気のない山の中、イノシシとの遭遇は避けなければなりません。猪避けに、大声を出しながら登ることにしました。
  イノシシには会いたくなーい!会いたいのは、石のイノシシ-!
というのも、御陵近くに、狛犬ならぬ狛猪がいる(在る)そうなんです。私は、石のイノシシには、ぜひ会いたいのですけれど、生身のイノシシは、遠慮申し上げたいと思いました。



中殿を過ぎた辺りから、道は尾根筋を逸れ、梁瀬川がつくる沢に向かいます。
おそらく中殿から道は、昔の参道から逸れていると思われます。本来の参道は、(沢に向かわず)尾根筋を上がり、狛猪が護る道に続いていたはずです。


四丁石
沢の手前に四丁石がありました。元の参道のどこかから移されて、今ここに在るようです。


梁瀬川
沢を渡ります。そして、少し上流で、ふたたび渡り返します。ルート選定に意を払わねばならない箇所です。
沢(梁瀬川)は下宮近くに流れ落ちています。そこに架かる梁瀬橋を、私は渡りました。


雨水による溝
「おすくな探検隊」作成のロードマップに、・・道は荒れています。迷わぬようにピンクリボンを目印にしてください。・・とあります。
足下に注意しながら、なおかつ常にピンクリボンを、5㍍から10㍍先に確認しておく必要があります。リボンを見失ったら、前のリボンまでもどった方がいいと思います。リボンは必要な箇所に、確実についていました。


巨石?
ロードマップに、「巨石遺跡(調査中)」と記載されていましたが、確認できませんでした。
大洲の巨石文化は注目されており、私は冨主山山頂の座禅石、高山集落のメンヒルについて、以前、記したことがあります。
なお、ここにもリボンがついていることに、お気づきでしょうか。


一丁石
ここにもリボンがついています。一丁石ですから、あと100㍍余です。


手水鉢
手水鉢が二つあり、その先に、・・


奥殿
奥殿の小祠が見えました。


奥殿
記録によると奥殿の小祠は、明治3に建立されました。


石造物
小祠の周辺には、明治の年号を刻んだ石造物がいくつか見られます。


円墳跡
写真奥に小祠が見えます。小祠に正対して、手前に供物台が見えます。
供物台のところが、(今は崩れていますが)円墳の跡です。少彦名命の亡骸が、壺に収められ葬られた、とされる所です。


崩壊建築物
なにに使われていた建物かは、わかりません。


狛猪
登ってきた道とは違う道をすこし下ると、会いたかった狛猪がいました。ここが、かつての参道です。中殿からここに繋がっていたようです。
どちらも伏せの姿勢で、口は(阿吽ではなく)閉じていると見えました。


狛猪
猪が少彦名命の眷属であったという話は、(私は)聞いたことがありません。


狛兎
写真は、埼玉県浦和にある調神社(つきのみや神社)の狛ウサギです。「つきのみや」が「月の宮」に転じて、ウサギが眷属となったようです。


狛狼
こちらは、埼玉県秩父にある宝登山神社(ほどさん神社)の狛オオカミです。
「宝登山」は、「火止山」から来ていると言われています。日本武尊は東征の時、山火事に遭いますが、巨犬が現れ、火を止めて、尊を救ったのだそうです。


狛狐
稲荷神と狐のつながりも、(ここでは略しますが)いろいろと伝わっています。


狛猪
しかし少彦名命とイノシシは、(残念ながら私には)不明です。「マンガ日本昔話」風に、命がイノシシに跨がっていたりすると楽しい、・・などとは思うのですが。


分岐
帰途は、来た道を下りました。
下りでは、とりわけピンクリボンの確認が大切です。雨水が造り出した道もあります。


帰着
神殿に帰り着きました。この数時間、想像を楽しむことができました。

  【コメントにかかわって】

励ましの看板
最近、土佐路から伊予路にかけて歩かれた、天恢さんからいただいた写真です。コメントとかかわって、掲載します。
大月遍路道には、大月小学校の子供たちがつくった、たくさんの「励ましのへんろ札」が架かっていて、歩く私たちを癒やしてくれますが、新たに「励ましの看板」が登場していたとのことです。ご覧ください。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。5週後の更新予定でしたが、なんとか間に合いましたので、4週で更新に切り替えました。
次回更新予定は、4週後の、6月28日です。松山の三津から始まる春遍路を報告したいと思います。

 この記事のトップへ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ

ジャンル:
ウェブログ
コメント (2)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 八坂寺 文殊院 八塚 杖の渕 ... | トップ | 三津浜 太山寺奥の院 太山... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
🎵卯の花の、匂う垣根に ホトトギス 早も来鳴きて~ (天恢)
2017-06-01 08:48:55
 ・・・ ♪忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ~ 早いもので今年も半分、天恢も初夏の遍路へ行ってまいりました。 田植えのシーズンで、新緑の遍路道には鶯やホトトギスが啼いて、ところどころキンポウゲも咲いていました。 今回も 「少彦名命を祀る 道後の湯神社 大洲の、二つの少彦名神社」 を楽しく読ませていただきました。
 
 さて、今回は札所の描写がないブログとなりましたが、主役の「少彦名命」は一寸法師のモデルになった神様だそうです。
 ブログに登場する菅田町大竹の少彦名神社は、氏子という組織を持たない神社でしたが、歴史的に価値のある「懸け造り」建築の「参籠殿」を崩壊の危機から救うために地元有志の集まりである「おすくな社中」が中心となって、ニューヨークにあるワールド・モニュメント財団に働きかけを実施。 熱心な保存活動や募金活動などが評価され、危機遺産に選定。 2015年3月に参籠殿の修復作業が終わり、見事に復興しました。
 「少彦名命」は小さな神さまですが、何やら底知れぬ大きなパワーの持ち主のようで、このパワーの余勢を駆って中殿、神楽殿、本殿、御陵が復興され、「狛猪」さんが笑って迎えてくれる日を願ってやみません。

 さてさて、天恢の遍路ですが、初日だけは観光で、龍馬の脱藩気分で梼原(ゆすはら)の千枚田~三嶋神社~維新の門を歩きました。 
 足慣らしをしての2日目からは入野海岸から四万十川河口を渡って、久百々~窪津~金剛福寺。 足摺岬からスカイラインを歩いて、竜串、叶崎の月山神社コース。 大月~宿毛~松尾峠を経て観自在寺。 仕上げは観自在寺から宇和島へのあの「中道」でした。 大岩道、小岩道、上槙、本俵、岩淵から岩松へ。 締めは岩松から満願寺、野井坂を経て柿ノ木庚申堂まで。 
これでメデタク今回の大願成就となりましたが、達成は全行程でまったく雨が降らなかったことに尽きます。  強い日差しの中を7日間で200kmほどの遍路道を歩きました。 こんなに真面目に歩き通したのは初めてのことで、ラストは足がパンパンに腫れて、マメがつぶれて血だらけの修行?となりました。
 あれもこれも「楽しく遍路」さんのブログを参考にしながら計画を立てたからです。 四万十川の下田の渡し、足摺の唐人騾馬、宿毛の野中兼山の遺族の墓参り、何よりも距離も長く、人家もまばらな「中道」の道中ではブログの解説は大いに役立ちました。
 そして、今回遍路の最大の心の糧は、「大月へんろ道」での大月小学校の生徒さんが着けた「励ましへんろ札」をこの目と歩きで確かめたことです。 7年前の遍路でもチラチラっと見掛けたのですが、励ましへんろ札も増えて充実していました。 実は宝物にしたいと願って、デジカメを2台用意して88枚以上の励ましへんろ札を採取しました。 もう一度しっかり読ませていただいて大月小学校の生徒さんにお礼の手紙を書いて、送らせていただきます。 これも「楽しく遍路」さんの楽しいお導きで、感謝しております。
卯の花腐し (楽しく遍路)
2017-06-02 13:36:21
卯の花腐しは夏の季語。長く降りつづいて卯の花を腐らす意から、五月雨の異称だそうです。
天恢さんに「修行」を積ませた晴れ続きも、もうそろそろ終わってもいいのではないか。代わって、卯の花腐しが、しとしとと、時間をかけて、ゆっくりと、大地にしみ通ってほしいものだと思います。
近頃は、降ったと思えばドカ雨で、大地をうるおすことなく上滑りしてしまうことが、よくあります。

少彦名神社について、書き足りないところを補足していただけました。ありがとうございます。
私は戦前生まれですが、戦後育ちです。6.3制の申し子のような育ち方をしています。学校では一切、神話について教わりませんでした。さすがに天照大神を「てんてるだいじん」とは読みませんでしたが、他には大国主命を知るくらいで、少彦名命は、読めませんでした。
少し勉強したのは、退職してからでした。足りないところ、間違っているところが多々あると思います。

天恢さんの初夏遍路、失礼ながらそのお歳で、よくもまあ血まみれで、歩かれたものです。まこと、よい「修行」をなさいました。
しかし四万十も、足摺も、月山神社も、・・そして中道も、どこもかしこもが懐かしいところです。
なかでも大月小学校の「励ましのへんろ札」は、うれしかったですね。宝物にしたいというお気持ち、わかります。お礼の手紙を送られるそうですが、88枚以上も撮ったことは、忘れず書き入れてください。きっと子供たちは大喜びでしょう。
別途いただいたメールに添付の、新しく登場した「励ましの看板」の写真、お許しをいただいて、本文末に追加掲載しました。まだご覧になっていない方、ぜひご覧ください。

梼原は龍馬脱藩で知られていますが、宮本常一さんが馬喰から話を採録した所でもあります。坂本長利さんが「土佐源氏」と題して、長く演じ続けている話です。
もちろん天恢さんは、それをご存知の上で行かれたのですが、コメント文面から察するに、宮本さんや坂本長利さんの足跡は、梼原に、あまり残っていなかったと思われます。宮本さんも含め、「忘れられた日本人」となったのでしょうか。

コメントを投稿