楽しく遍路

四国遍路のアルバム

三津浜 太山寺奥の院 太山寺 円明寺奥の院 円明寺

2017-06-28 | 四国遍路

 
この記事の末尾へ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ


松山伊予鉄大手町駅
伊予鉄大手町駅から三津に向かいました。三津浜の街を短時間、散策するためです。
散策の後、ふたたび伊予鉄を使って高浜に移動し、大山寺奥の院がある、経ケ森(H.203)に登ります。この道は、かつて九州から来た人たちが、四国遍路の円環に入るために使った道の一つです。


伊予鉄三津駅
レトロな感じの三津駅は、開業が古く、明治21(1888)です。
船で三津浜沖に着いた「坊ちゃん」は、艀に乗り換えて上陸します。その頃の三津湊は、大きな船は沖止めしていたようです。その後、「坊ちゃん列車」の興りとなる、’マッチ箱のような列車’に乗りますが、その停車場が三津停車場、つまり現・伊予鉄三津駅です。なおJR三津浜駅の開業は、昭和2(1927)です。


元・銀天街
街の説明板は、・・とても賑わってきた商店街で、三津浜銀天街と呼ばれていました。往時は映画館や旅館、温泉やスナックなど・・、と過去形で書かれています。英文の説明は、In the past,・・で始まります。
過去のことは過去のこととし、幸い空襲を免れて残された過去の遺産を活用しよう、・・そんな構えとみえます。


蔵造り
港が栄えるためには、豊かな後背地が必要です。三津浜港のそれは、松山平野、十五万石の城下町でした。松山平野に向かう人や物、松山平野から出て行く人や物が、三津浜港を通過しました。
また港が栄えるためには、他国につながる安全な航路をもっていることが必要です。三津浜港が和気、堀江、今出など、他の港にぬきんでて松山を代表する港になったのは、周防や安芸へ、島伝いにつながる航路を持っていたからでした。三津浜の北西沖にある興居島(ごご島)は、風除けの島として有効であるだけでなく、防予諸島の東端に位置する島として、より重要でした。


通り
防予諸島の西端は周防大島です。ご存知、中務茂兵衛さんの生地であり、知る人ぞ知る宮本常一さんの生地です。二人は、間違いなく、三津浜から四国入りしたでしょう。そして三坂峠に立ち、大島を眺め返したにちがいありません。
四国遍礼名所図会は、三坂峠から見える景色を紹介しています。周防や安芸が書き込まれ、もちろん三津浜沖の興居島も示されています。ただし興居島は、伊予小富士の名で示されているのですが。


駕籠置き石
三津浜は最近、ブラタモリで取りあげられたそうです。その効果でしょうか、若い子たちがぶらついているのを見かけました。
タモリさんが寄ったという鯛飯屋さんに、私も寄ってみました。二階が、鯛飯屋の(江戸時代から続く)森家と、三津浜地区の資料館になっています。詳細はブラタモリ・アーカイブスにおまかせし、私は(残った鯛飯をオニギリにしてもらい)次に進みます。
写真は、殿様来駕のおり、お駕籠を置くための石だそうです。


河口
宮前川の河口に、三津浜港の内港ができています。
小さく写っている鳥居は、湊三嶋大明神社です。神社のHPに、・・往古より住民並びに航海を業とする者など、伊予の熟田津、成田津、秋田津の総守護神、三津大明神として尊崇し、湊大明神とも称え、後に湊三嶋大明神とされた。・・とあります。
熟田津、成田津、秋田津。三つの津で「三津」は、いくつかある地名由来説のうち、有力な一つです。


湊三嶋大明神
またHPには、・・ 南北朝時代には伊予の豪族・河野氏の守護神としてもあがめられ、・・とあります。
またまた河野氏の登場です。伊予路では、行く先々で河野氏と出会います。
河野氏は、中世、伊予に勢力を張った一族です。道後に湯築城を築いて、政治の中心とし、三津浜に湊山城を築いて、軍事の主力・河野水軍の本拠としました。故地は、風早郡河野郷(北条)です。なお河野氏については、平成24春遍路伊予路の①-③に、もう少し詳しく記しました。ご覧ください。


渡し船
河野一族に内乱が多発した一因として、政治と軍事の地理的分離が挙げられています。・・が、まさか「渡し船」の誕生が、内紛に関係していたとは!
渡し船の興りは古く、応仁の乱の頃、河野氏の庶子家・河野通春が湊山城に拠り、本家に反意を抱いたことに始まる、とされています。対岸に見える小山が、湊山城址です。
通春は周防の大内氏と結んで(周防は近い!)、本家に対抗。城も堅固なものに造りかえましたから、港山・三津に集まる人・物は増加し、そこに物流の導線が生じました。港山と三津浜を結ぶ渡し船は、その一環というわけです。


渡し船
以来、今日まで渡し船は続き、今では渡船区間は、松山市道高浜2号線の一部、つまり公道になっているそうです。だから船賃は無料です。近頃、橋を架ける話もあったそうですが、街の人は少々面倒でも、船を選んだとのこと。賢明な選択だったと、私は思います。
なぜ渡し船が長続きしたのか。その背景に「三津の朝市」の隆盛があるそうです。元和2(1616)に始まった朝市は、新鮮な瀬戸内海の漁獲、松山平野の農産物を並べ、人を呼んだといいます。三津浜繁栄の原点、ともいえるそうです。


洗心庵跡地
渡し場の側に、尼寺の跡地があります。明治の廃仏毀釈で廃寺となりましたが、洗心庵と呼んだそうです。
寛政の頃、小林一茶が松山に来遊。栗田樗堂らと俳談を交わしたことは、前に本ブログで記したことがあります(H24春遍路 伊予路 ③)。
その時、一茶は、洗心庵でも句会を開いたといいます。


こそだて地蔵
洗心庵跡の隣に地蔵さんがいます。今は「こそだて地蔵」と呼ばれていますが、かつては「首なし地蔵」とか「首なし馬地蔵」と呼ばれたそうです。その頃、「白い顔のお地蔵さん」は、言うことを聞かぬ子を持つ親の、心強い味方であったとか。
しかし怖がらせる育て方はよくないとの反省からか、「こそだて地蔵」という優しい地蔵さんに変わりました。私は近頃、怖いもの知らずの子たちが多いことを懸念しているので、元の名前でもよかった、と思うのですが・・。


港山駅
港山駅から高浜に向かいます。
この駅の旅客駅としての開業は、昭和6(1931)でした。長く三津駅が、この路線の終点だったわけです。


連絡バス
高浜駅では、松山観光港への連絡バスが待っていました。歩くつもりでしたが、乗ってみました。乗車時間2-3分。この便の乗客は私一人でした。


松山観光港
長く松山を代表する港は三津浜港でしたが、高浜港の北に高浜新港ができ、これが松山観光港となったことから、三津浜港は代表の座を降りました。


高浜トンネル
観光港への車アクセスを容易にするため、経ケ森の下にトンネルを穿ちました。松山中心部の道後温泉、大街道、松山市駅、JR松山駅へ、リムジンバスを通わせています。
この写真、実は背景の山を経ケ森と思い込み、撮影したのでしたが、どうやら違っていたようです。気づいたときは、すでに木を見て森が見えない状態となり、残念ながら経ケ森の写真は撮れませんでした。


ふり返ると
手前が観光港、奥は興居島、間の小島は九十九島です。
実は「坊ちゃん」に出てくるターナー島を見たかったのですが、(バスに乗ったため)見逃してしまいました。作中で、気取り屋の「赤シャツ」が、島のある美しい景色をターナーの絵に例えると、太鼓持ちの「野だいこ」が追従して、あの島を’ターナー島’と呼ぶことにしましょう、と応じます。そんなことから、ターナー島と呼ばれるようになった島です。地図上の正式名は、四十島です。


ターナー島
・・ありがとうございます。天恢さんからターナー島の写真がいただけました。左端の小さな島が、野だいこ言うところの「ターナー島」です。


太山寺へ
道はよく整備されていました。ありがとうございます。


分岐
経ヶ森・太山寺奥の院への分岐がありました。分岐点の標高は130㍍ほど。経ヶ森は203㍍です。


道標
大正時代の道標が建っています。


経ヶ森へ
分岐から経ヶ森に登り、また引き返してきます。


防予諸島
・・なんでも用明天皇の2年というから、この国がまだ廃仏か崇仏かでもめておった頃のことじゃ。豊後国臼杵に真野の長者という長者がおったそうな。なんの用でか、船で難波に向かっておったが、高浜の沖で嵐に遭うて、こりゃもうあかん、とも思えたが、常日頃、信仰する観音さまに念じると、なんとまあ、お山の上に光が見えたかとおもうと、たちまち嵐は静まったという。


北条方向
・・不思議に思うた長者は、光が射したお山に行ってみたそうな。そこで長者が見たものは、十一面観音さまだったというぞ。長者はこの上なく有り難く思い、仏徳に報いんと一宇の建立を発願。いったん豊後に帰って工匠を集め、木組みをつくって船に乗せ、高浜に急いだという。むろん海が荒れたりは、一切、せんかった。順風満帆とは、このことよ。
・・工匠らは長者に従い、夜を徹して働いて、朝の光が射す頃には、もう組み上げていたそうな。太山寺の本堂が「一夜建立の御堂」と呼ばれるんは、そんなわけよ。お山は今は、経ヶ森と呼ばれ、太山寺の奥の院となっておる。


頂上
小祠には不動明王が祀られています。


十一面観音像
十一面観音像が高浜沖を向いて立っています。おかげさまで、この辺は自然災害が少ないと言います。
・・この辺は台風が避けてとおるんよ、・・松山辺りまで来ると、ちょくちょく耳にする話です。「石づっさん」のおかげ、という人もいます。



道標まで下り、太山寺に向かいます。途中、西国33ヵ所の写し霊場がありました。23番勝尾寺です。


太山寺本堂
奥の院から下って、太山寺本堂の裏に出てきました。


太山寺本堂
大きな曲線の美しさ。


太山寺本堂
和小屋の安定感。


太山寺本堂
懸魚が懸かる破風の伝統美。


太山寺本堂
匠の技。軒瓦は数種類あるようです。


本堂
蛙股がならぶ横のラインが、全体に落ち着きを与えています。やはり国宝だけのことはあります。


境内
三の門は四天王門です。


鐘楼堂
四方吹き放しではなく、回廊を巡らした、文字通り「楼」が、袴腰に乗っています。江戸時代、明暦元(1655)に再建されたものだそうです。


梵鐘
梵鐘には、永徳3(1383)の銘があるそうです。南北朝時代。時の将軍は足利義満。


地獄絵
鐘楼堂の地獄絵は、よく知られています。
中央の閻魔大王は、地蔵菩薩の化身です。亡者には閻魔ですが、罪なき子たちには地蔵菩薩です。左下に地蔵菩薩がいて、子供たちを集めています。
右下には奪衣婆(だつえば)がいて、亡者が身ぐるみはぎ取られています。懸衣翁(けんえおう)が、衣を衣領樹に掛けています。枝のたわみ方により、罪の軽重が決まります。
左上には浄玻璃鏡(じょうはりの鏡)があり、亡者の生前の行状が映し出されています。嘘はつけません。業秤(ごうのはかり)に掛けられている亡者もいます。おそろしや。


らくがき
堂内に「らくがき」があります。札所にとっては困りものだったようですが、書いた遍路たちに悪戯書きをした意識は、ないように見えます。納め札を「打つ」意識や、千社札を貼る(打つ)意識につながる意識なのかもしれません。
ともあれ、今では遍路の歴史を調べる学者さんにとっての、有り難い史料になっていたりします。


らくがき
○や□に文字を入れた印は、出身地を表す印で、遍路たちの間では通じ合っていたそうです。○に金は金比羅で、琴平出身の遍路なんだそうです。琴平の中村屋さん一行のようです。○に嶋は、どこでしょうか?
その右側は、嘉永七のようです。黒船来航の翌年です。その右に人名のようなものがあり、当城下、でしょうか。とすると松山藩です。
なお、この慣習については、「枯雑草の巡礼日記」(平成26春)が、十夜ヶ橋のところで触れています。参考になります。


らくがき
今治の勘蔵さんは、町名を書き忘れたのでしょうか?今治 風早町 勘蔵 と書き直しています。囲みの中の一行は、日向正岡惣?門、太蔵?、傳次郎、弥助、武平さんたちでしょうか。


徳右衛門道標  
鳥居の向きが不自然ですが、昔は、正しく向いていたのでしょう。
徳右衛門道標は、是より円明寺迄 十八丁 とあります。 


子規句碑
もう読みとれませんが、子規の句碑だそうです。
   菎蒻に つゝじの名あれ 太山寺  子規
昭和25(1950)頃まで、こんにゃく田楽が茶店で売られていたそうです。太山寺名物であったそうな。
子規は、茶店の傍らに咲くツツジの鮮やかなるを見て、ふと「ツツジこんにゃく」なる商品名を思いつきました。


二の門
二の門は八脚門です。嘉元2(1305)の再建。重文だそうです。


二の門から参道
長い参道は門前町として賑わっていたのでしょう。


一の門
円明寺奥の院へ向かうには、かなり遠回りでしたが、ここから左に入りました。


溜め池
片廻組中と刻まれています。「組」については、前に記しました。地縁組織です。「中」は、組という集合名詞の構成員を意味します。講中、などとも使われています。


常夜灯
勝岡八幡神社の常夜灯です。この神社の秋祭りについて、後に触れます。


馬頭観音
大きな馬頭観音です。


馬頭観音
合掌するお姿が線刻されています。優しいお顔です。天保の年号が読みとれます。


円明寺奥の院
遠回りしてしまいましたが、なんとか奥の院に着きました。
この地には当初、円明寺が在りました。しかし戦国時代、戦火に遭って焼失。元和年間(1615-24)、土地の豪族・須賀重久が現在の地に遷し、再建したとのことです。
その跡地に小堂が建てられ、円明寺奥の院とされています。十一面観世音菩薩を祀っています。


円明寺奥の院
そんな経緯を踏まえてか、奥の院も同じ寺号で、「円明寺」となっています。観音堂の方が、通りはいいのでしょうか。
山号は、奥の院は海岸山、本寺は須賀山、です。


大鳥居
前述の勝岡八幡神社参道に、大鳥居がたっています。神社は、写真奥のお山にあります。
通りがかりの人に「大きいですねえ」と声をかけたら、「一体走りがあるけんね」と答えてくれました。「一体走り」(いったい・ばしり)は、秋の例大祭の神事です。
近隣7地区・・安城寺、和気町1丁目、太山寺、和気町2丁目、高浜町6丁目、高浜町1丁目、勝岡・・の若者たちが、締め込み姿で神輿をかいて(かついで)、参道を「疾走」します。


御旅所
御旅所が広いのは、ここで神輿のかき競べがあるからです。勢いよく上下に動かすことを競い合う、のだそうです。その後、午前七時頃から、「一体走り」が始まります。
「神守」と呼ばれる若者たちが神輿をかいて(かついで)、一基また一基と、一直線の参道を朝日の昇ってくる東に向かって駆け抜ける、と言います。一体走りでは、かき競べと違って、神輿は上下させません。神輿は地と並行に、矢のように走り抜けます。担ぎ手と神輿が一体となった、その美しさを、各町は競い、走ります。


御旅所と参道
祭の由来を、安勝会(あんしょう会)の会長さんが、ウェブ上に書いています。安勝会は、勝岡八幡神社秋季大祭安城寺地区の行事成功に向けて、安城寺地区の有志で構成された会、だそうです。
・・由来として私たちが伝え聞いているのは、勝岡の特産だった塩を朝廷に献上する際、遠浅の和気浜を褌一丁の若者たちが、沖合に停泊している御用船まで塩を濡らさないように担いで走っていったのが始まり、というものです。


円明寺西門
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
私はこの後、円明寺から堀江の街を抜け北条に向かったのですが、この間については、書きたいことの多くが4年半前の記事と重複しています。そこで、この間をスキップすることとします。ご面倒でも、こちらをご覧いただければ幸いです。 →H24春遍路 ① 51石手寺-53円明寺
次回は、和気郡と風早郡の郡境、「幸の神」(塞の神)から始めようと思います。河野氏の故地、北条に入ります。更新予定は、7月26日です。またよろしくお願いいたします。

 この記事のトップへ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ
ジャンル:
ウェブログ
コメント (2)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 少彦名命を祀る 道後の湯神... | トップ |   

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
🎵我は海の子白浪の さわぐいそべの松原に~ (天恢)
2017-07-09 12:01:12
 梅雨明け? と思っていたら、梅雨末期の集中豪雨が九州北部を見舞った。 毎年のように繰り返される自然災害に人間の無力さを覚えますが、せめて、被災地にスカッと晴れ渡った夏日が来てほしい。 今回も短い距離ながら、なかなか中身の詰まった「三津浜~円明寺」を楽しく読ませていただきました。

 さて、この道中の始まりは、城下町松山15万石の玄関口で栄えた三津浜からです。 三津浜は後背に名湯・道後温泉を控え、瀬戸内圏に中心に位置するため、古くから歴史に名をとどめています。 大和朝廷との関わりが深く、諸帝・皇后・皇太子・皇子らの来浴が伝えられ、あの聖徳太子の名まであります。 もしかしたら藤原純友も戦の疲れを癒すため三津浜へ上陸して道後湯へ立ち寄ったかも?・・・・・。 小林一茶も、正岡子規も、ぼっちゃんの夏目漱石も、武蔵野の国木田独歩も、多士済々の文人たちが三津浜を訪れ、散策したようです。 
 あまたの来訪者で、天恢がこの三津浜で一番会ってみたい歴史上の人物は額田王です。 満月の夜、百済救援のため集結した数百艘の軍船団に向かって、出軍の大号令の「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と詠ったシーンです。 静寂な海上に澄み切った美声が響き渡り、そして沸き起こる軍船からの大歓声・・・・・。 本当に歴史ってロマンを誘います。

 さてさて、タイトルの「🎵我は海の子白浪の さわぐいそべの松原に~」ですが、文部省唱歌「われは海の子」で、「煙たなびくとまやこそ. 我がなつかしき住家なれ」と続きます。  このブログに最後に登場する勝岡八幡神社秋季大祭の神事である「一体走り」(いったい・ばしり)が紹介されました。 情報を得るには有難い時代で、YouTubeで「一体走り」を楽しむことができます。 若者たちが神輿をかついで、一基また一基と、一直線の参道を朝日の昇ってくる東に向かって駆け抜ける映像が映し出されています。 神事の由来は、勝岡の特産だった塩を朝廷に献上する際、遠浅の和気浜を褌一丁の若者たちが、沖合に停泊している御用船まで塩を濡らさないように担いで走っていったのが始まりだそうで、勝岡の若者たちはまっこと「海の子」で、この唱歌が懐かしく思い出されました。
 天恢も福岡で育たので、山笠のように重い神輿を大勢で担いで、掛け声掛けながら豪壮に走り抜けるのが神輿だと思っていましたが、50年前に東京へ出てきて、祭礼で神輿を担いで「ソイヤ、ソイヤ」の掛け声で優雅に練り歩く姿にびっくり、こんなヘナチョコで大丈夫かな? と心配したものです。 まっ、ところ変われば神輿も、掛け声も、担ぎ方も変わるところが文化なのでしょう。
ドンドンヒャララ ドンヒャララ (楽しく遍路)
2017-07-12 14:19:42
北九州の被災からもう一週間です。月並みですが、一日も早い復興を祈りたいと思います。

勝岡八幡の祭を、コメントに取りあげてくださり、ありがとうございます。
人はしばしば、祭を通して故郷を想い、祭を通して結び合います。祭は地域存在の証ではないか、・・そんな考えもあって、私は遍路中に見た祭は、すべて記事にしています。
北九州の被災地でも、復興ならんとする時には、きっと「祭」が催されることでしょう。少々気が早いかもしれませんが、その日を待ちたいとおもいます。

熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな   額田王
おかげさまで、今ひとつはっきりしなかったこの歌の世界が、視えてきたように思います。
月-海-大船団を、目で見るだけでは駄目なんですね。
・・静寂な海上に澄み切った美声が響き渡り、そして沸き起こる軍船からの大歓声・・耳をすまして聴いたとき、月-海-大船団の景色が、キラキラと動きはじめました。

ちょっと関連ですが、私が前回の遍路で行きはぐり、次回の遍路では最初に訪れる予定なのが、「永納山城跡」です。伊予国分寺の先、世田山の、道を一本隔てた隣にある永納山に、その城跡はあります。
白村江攻撃への報復を恐れた朝廷が、防衛のため、瀬戸内海沿岸に築いたいくつもの城のひとつです。日本最古級の城跡で、同様の城跡は、屋島にもあります。屋島寺のすぐ側です。

暑い日が続きます。くれぐれも健康にご留意ください。

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL