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梶原和義のブログです。

2011-06-13 17:51:29 | 日記
ユダヤ人が悔い改めたら千年間の絶対平和が現れる

現在の世界の文明のあり方、人間生活のあり方、意識のあり方には、おのずからリーダーシップがなければならないのです。十人の人が集まれば、そこにリーダーシップをとる人が、自然にできるのです。国でも世界でも同様です。
肉体人間は一種の動物でありまして、動物的な原理から逃れることはできません。猿の世界にボスがいるように、人間の世界にもボスがいます。個人的にも集団的にも、ボスがいるのです。国家群にもボスが自然にできています。これはいいか悪いかの問題ではなくて、自然にそうなるのです。
人間が現世で生活をしていれば、おのずからそうなるのです近代文明、現代文明の中心をなしているのがルネッサンスでありまして、これはユダヤ人から生まれてきているのです。
あらゆる専門学の基礎をつくっているのはユダヤ人です。人類はユダヤ人の学問についていくしかないのです。これがいいか悪いかについては、各人の好みによるでしょう。現世主義に非常に賛成する人もあり、反対する人もありますが、結局ユダヤ人についていくしかないのです。世界観、人生観は、それぞれの好みがありますから、いいか悪いかは言えませんけれど、とにかく現世において肉体的に生活をするため、経済的に生活するための世界観、価値観はユダヤ人によってつくられたのです。
現在、スポーツが盛んに行われています。オリンピックをつくったのはユダヤ人ですし、映画、テレビを普及させたのもユダヤ人です。セックスについての考え方もユダヤ人からきているのです。これらはすべてユダヤ主義なのです。
ユダヤ人が意識的に世界を統一しようという考えがあってもなくても、そういうリーダーシップをとる能力性を持っている民族はユダヤ人しかいないのです。
白人文明は白人社会の中にいるユダヤ人の文明です。アメリカが今日のように発展した原因は、アメリカの中にいるユダヤ人の仕事です。
これは不思議でも何でもない。あたりまえのことです。ユダヤ人はそういう能力をもっている。他の民族は全世界のリーダーシップをとり続けるという世界観をもっていない。そこが違うのです。
水が高い所から低い所へ流れるように、ユダヤ人が現世でリーダーシップを取っている。これは知る人ぞ知るであって、いちいち申し上げなくても分かることなのです。
日本人はユダヤ人問題について特殊な問題のように考えていて、よく分からない人が多いのですが、とにかくユダヤ人は白人とは全然違う意識をもっているのです。日本でこういう言い方をしますと、おかしいと思われるかもしれません。ユダヤ人だけが優秀というのはおかしいのではないかとお考えになるでしょう。
しかし、世界の歴史的事実はそれを証明しているのです。これは人間社会がどのようにできたのか、いわゆる絶対と人間との関係がどうなっているのかを詳しく勉強すれば、自ずから分かるのです。
ユダヤ主義がいいか悪いかの問題ではなくて、現代文明はユダヤ人の世界観によってリードされているのは否定できない事実です。
新約聖書によれば、一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが、人間の運命です。現世の人間は、このために生きているのです。裁きを受けるというのは、地獄へ行くという意味です。
人間は自我意識で生きています。自我意識は、本人が意識してもしなくても、神に逆らうのです。神に逆らわないで生きることはできないのです。寒ければ寒すぎると言い、暑ければ暑すぎると言って、いつも神に文句を言っているのです。客観的なすべての条件に対して、主観的に反応するのが、自我意識です。自我意識はそうしないではいられないのです。三十年も五十年も、長い人は八十年も九十年も、たえず神に反抗し続けているので
す。それが魂の裁きの原因になるのです。神に反抗し続けていることは、人間が生きている間、神を裁き続けていることなのです。神を軽蔑し続けているのです。皆、無意識にこれをしているのです。
誰も神を軽蔑しているとは思っていないでしょう。ところがしているのです。寒いことについて、暑いことについて、幸いこと、甘いことについて、すべて文句を言うのです。甘ければ甘いことが気に入らない。辛ければ幸いことが気に入らないのです。こういう形で、いつも神を軽蔑しているのです。
人間は与えられた客観条件に、心から服従できないのです。なぜかと言いますと、自我意識という主観意識があるからです。自我意識と主観意識があるために、客観的な条件にはどうしても反抗したくなるのです。これが神を裁いているということです。これを人間は毎日、毎日、無限に行っているのです。これが皆様の習慣になっているのです。
頭がいい人は頭がいいように、悪い人は悪いように、神を裁いているのです。女は女のように、男は男のように、神を裁くのです。女の人は男よりスケールが小さいですけれど、やはり神を裁いているのです。男は積極的に神を裁きますし、女は消極的に裁いているのです。毎日、毎日、何かをしていても、していなくても、寝ても起きても、神を裁き続けるのです。これが死んだ後に、魂が裁かれる原因になるのです。
必ずそうなるのです。裁かれるというのは、地獄へ行かなければならないということです。
人間はすることなすことが、皆気に入らないのです。自我意識を持っているからです。自我意識が喜ぶのは、自我意識の欲望に適した時だけです。人間は神から与えられる条件がすべて気に入らない。だから死んだら裁きを受けることになるのです。
宗教は死んでから何かいいことがあるようなことを言います。キリスト教も仏教も、天理教も創価学会も、どんな宗教でも、神や仏を信じると、死んでから御利益があると言います。死んでから御利益があるというのは嘘です。
本当の神が分かりますと、生きているうちに魂の目が開かれて、自我意識がすっかり消えてしまうのです。そうして自我意識ではない、全く別の意識を与えられるのです。そして神の懐にすっぽりと入ってしまうのです。これを、神の国に入ると言うのです。
イエスはこれを実行しましたので、建って復活したのです。自我意識を捨てさえすれば、イエスの復活を信じることができるのです。
ところが人間は、自我意識を捨てることができません。自我意識を捨てることは、現存在の人間の本質が分からなければできないのです。旧約聖書の創世記にありますが、人間の祖先であるアダムが罪を犯したことが本当に分からなければ、できないのです。
人間の祖先である人祖が何かが、まず分からないのです。人祖が分からなければ、メシアは分かりません。
人祖とメシアは同じものです。アダムが罪を犯したことが、なぜ現在の私たちが罪を犯したことになるか。アダムが犯した罪に対して、なぜ私たちが責任を負わなければならないかということです。これに対しててキリスト教は、はっきり言わないのです。説明できないからです。
人祖というのは人間の祖先だと思っているのです。そうではないのです。
私たちが現世に生まれてくる前に、前世がありました。その前世にアダムがいたのです。この説明がキリスト教ではできないのです。アダムが何のためにいたのでしょうか。何をしていたのでしょうか。これが分からないのです。
釈尊もこれが分からなかったのです。彼は素朴な人で、行をして悟りを与えられたのです。正確に言えば行をすることを止めて、全く無心になって、「明けの明星」を見て、悟りを開いたのです。偉い人ではありましたが、アダムがエデンの園にいて、神から食べてはいけないと言われた善悪の木の実を食べた。これが何のことか、さっぱり分からなかったのです。た。神と一緒にいることができなくなったので、現世に追放されてきたのです。現世は罪人ばかりがいる収容所なのです。現世にいる人間は、全員、必ず死ぬ運命にあるのです。六十四億の人間は皆、無期懲役刑に処せられた囚人です。死にたくないのに死んでいくというのは刑を執行されるということになるのです。
人間は罪人ですから、毎日、神を裁いているのです。神を滅ぼそうと思っているのです。造り主である神を、踏みつけにしているのです。食べるものから着るものまで、健康のことから、天候のことまで、何から何まで神を悪者にしているのです。神が気に入らないのです。
人間が生きているのは、実はそっくりそのまま、悪魔が生きているのです。それを皆様が知らないだけです。人間は自分が生きていると思っている。自我意識は悪魔の意識です。悪魔が人間というかっこうで生きているのです。まずこのことを、よく承知していただきたいのです。
聖書につぎのように書いています。
「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちはこのことを知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがなくなるめである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配していないことを、知っているからである」(新約聖書ローマ人への手紙6・5~9)。
人間は前世で、食べてはいけない善悪の木の実を食べて、罪を犯して死んでしまった。仏教では、個々の人間が消えてなくなるとは言わないのです。個々の人間が存在することが、空だと考えるのです。
しかし、現実に存在する人間を、どうすればいいのか、説明できないのです。ただ空じてしまえと言うのです。
ただ空じてしまえというだけなら、観念論になってしまうのです。空じてしまうには、そのような手続きがいるのです。空じてしまう方法がいるのです。
聖書には、十字架という空じる方法があるのです。彼の死の様において、彼と結びつくという形で、人間自身をなくしてしまう方法があるのです。仏教にはそれがないのです。だから、自分で自分を空じるしかないのです。空じたらいいと言うけれど、なかなか空じられません。具体的な方法がないからです。です。これは現実にいる人間を認めた上での神になるのです。つまり、現実の人間という意識の方が強いのです。神より人間の方が先にあるのです。これがイスラム教の非常に悪い点です。イスラム教はどこまでも現世主義です。
現世に人間が生きていてもしかたがない。なぜなら、現世の人間は、必ず死ぬからです。現世の人間を認める宗教は、やがて滅びていくでしょう。宗教そのものがまちがっているからです。
仏教は現世の人間を認めていないのです。認めている宗派もありますが、これは仏教ではないのです。空じるという宗派は釈尊に近いのですが、空じると言っても、空じる方法がないと空じられないのです。自分自身が消えてなくなることが不可能です。
聖書にはキリストの十字架によって結びつけられるとあります。イエスが死んだ状態によって、イエスに結びつくとあります。十字架をまともに信じることによって、十字架につけられた人間は消えてしまうのです。これ以外に自分をなくす方法はないのです。
個々の人間は、必ず一度死ぬ人間です。死んでから必ず裁きを受ける人間です。毎日、朝から晩まで、神を裁き続けているからです。自我意識に逆らうと、いちいち文句を言うのです。口に出さなくても、心の中で文句を言っているのです。神を憎み続けているのです。だから、人間は死んだら裁かれるに決まっている。そして地獄に行イスラム教にもないのです。イスラム教は現実に生きている神を問題にしているのくことになるのです。
人間は自分が自分の力で生きているのではないのです。天然自然によって生かされているのです。それを自分が生きていると思っている。自分が生きているという考えが原罪なのです。
人祖であるアダムが罪を犯した。人祖アダムが何者であるかを、はっきり言ったキリスト教関係者は、世界にないのです。創世記二章、三章が分からないからです。未だかつて、アダムの正体が解明されたことがないのです。神話だと思っているからです。アダムとイエスの関係が分からないのです。
アダムが罪を犯した結果、大変なことが起こったのです。善悪を知る木の実を食べてはいけないと言われたのに、食べてしまった。その結果、一人の人格が、数百億に分裂したのです。これが原罪です。
聖書に、現象世界が造られた理由について、次のように書かれています。
「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(マタイによる福音書13・35)。
キリスト教では神が地球をつくった基本的原理が、全然説明されていないのです。十字架の救い、罪の許し、贖罪論ばかりを言っているのです。贖罪論は基本的原理ではないのです。一度死ぬに決まっている人間、死んで地獄へ行く人間は、基本的原理が全然分かっていないのです。
人祖アダムが善悪の実を食べて罪を犯した結果、一人の完全人格が無数に分裂した。無数に分裂した人格が現世に生まれてきたのです。
現在の人間社会は、瀬戸物のかけらのような人格の集まりです。その人間が、神をあざけったり、ののしったり、軽蔑したりしている恐るべき集団です。嘘を言ったり、人を憎んだり、人をののしったり、呪ったりする人格ばかりです。
完全人格は神を誉めること、神を賛美すること、神を喜び神の内に命を見いだす人格です。今の地球に、こういう人格が全くいないのです。神を信じることができない、欠陥人格ばかりなのです。
自分で神を信じようと思う。そんな信仰は神の前に通用しないのです。
皆様は個々の人格を問題にする悪い癖があるのです。この癖をやめるのです。そうすると聖書が分かってくるのです。自分白身が生きていると、どうしても人を呪ったり、憎んだり、苦しんだり、悲しんだり、文句を言ったり、腹を立てたり、軽蔑するにきまっているのです。
地球ができる前の世界、数百億に分裂しない前の人格に帰るのです。そうすると信じることができるのです。自分が信じるのではなくて、地球ができる前の基本的な原理で信じるのです。神が太陽系宇宙を構成している原理、天地万物の構成原理で信じるのです。現在の地球に、六十五億の人間が生きている原理を知らないで、聖書を勉強しているから分からないのです。
分裂した人間は原罪のかけらです。原罪の塊がアダムです。アダムが何百億に分裂してしまった。分裂した人間は欠陥人格です。こんなものがいくら聖書を勉強しても、分かるはずがないのです。神を信じることができるはずがないのです。
この点で、世界中のキ㌢スト教は全部間違っています。地球構造、太陽系の構造じたいが、聖書の構造の第一原則なのです。ここから勉強していかなければならないのです。
皆様は数百億に分裂する前の人格に帰らなければならないのです。これはイエス・キリストに結びつくことになるのです。イエス・キリストという完全人格に結びつくことが、罪を犯す前のアダムに帰ることになるのです。
アダムは罪を犯したために、数百億に分裂した。私たちは分裂した人格ではなくて、分裂する前の人格に帰れるのです。これをイエス・キリストを信じると言うのです。分裂した人格は統合しなければならない。統合すれば、死から逃れることができるのです。この点、日本国憲法は重要な示唆を与えてくれています。天皇は、日本国の象徴であり、日本国民の統合の象徴であると書いています。日本国民の統合とは人格の統合を意味するのです。ここに人間が救われる秘密があるのです。
天皇は日本国民の人格の象徴ですが、キリストは、全人類の統合の象徴です。人間一人ひとりがばらばらに生きていれば必ず死んでしまいますが、全人類、全生物が統合しますと、絶対に死なない、完全人格になるのです。ここにおいて、人類と地球が完成されるのです。やがて復活したキリストが地上にやってきます。そうして、完全な人間が歴史的に証明されるでしょう。そして千年間の完全平和、絶対平和が実現するのです。
千年王国が実現すると、病気や犯罪はほとんどなくなるのです。病院はほとんど消えてしまいますし、刑務所もなくなるのです。
人間は世界の平和を求めていますが、本当に世界の平和が実現するのは、病気の脅威、飢餓の脅威、人に裏切られるとか嘘を言われるとか、戦争が一切なくなる時です。
自由という言葉、幸福という言葉を本当に味わうことができるのが、千年王国です。ユダヤ人が悔い改めさえすれば、世界の歴史は一変します。ユダヤ人がイエス・キリストの十字架、復活を受け入れれば、神の約束が人間の歴史の表面に現れるでしょう。これが千年王国です。
かつて、アダムの陥罪によって、土が呪われた。地球が呪われたのです。ところがキリストの贖いによって、地球が救われた。その事実が地球に現れるのです。
地球にある砂漠がなくなり、ツンドラが解消します。天候、気候の条件が変わってしまうからです。
現在、成層圏には、二千五百回以上の原水爆の核実験によって、放射性物質がびっしり取り巻いています。人間の罪が囲んでいます。これがどういう方法で払拭されるかです。世界の七つの海は、いろんな汚染物質で汚されていますがどのようにして癒されるのか。地球がどのように癒されるかです。聖書は、驚くべき方法で、癒されることを旧約聖書のゼカリヤ書で預言しています。
砂漠がなくなると、アラビア半島だけでも五億人位の人がゆつくり住めるでしょう。サハラ砂漠にも多くの人が住めるのです。南極や北極にも多くの人が住むようになるのです。
「生めよふえよ地に満ちよ」(創世記1・空という預言が成就するとどの位の人になるのでしょうか。恐らく三百億人くらいの人が住むようになるでしょう。もっと多いかも知れません。
千年王国では、若死にと言われる人でも百歳くらいです。長命と言われる人は七百歳か八百歳になるでしょう。千年王国の最初から最後まで生きる人があるかもしれないのです。
人間に幸福があるはずだという人間の願いは、何十倍、何百倍になって実現するのです。人間の幸せの願いがあまりにも少なすぎて、恥ずかしいと思うでしょう。
神がキリスト王国を本当に地球上に現すと、人間は何と幸福を知らなかったのかと思うでしょう。あふれるほどの幸福が地球に実現するのです。米や麦は、年に五回も十回も収穫されるのです。種をまく人の後に刈る人がついてくると言われるくらいに、収穫されるのです。
とにかく、地球の空気の条件、水の条件、土の条件、太陽の条件が、全部変わってしまいます。地球は驚くべき状態になるでしょう。
現在の地球の条件は、人間の罪によって呪われてしまっているのです。呪われている地球でさえも、春になれば花が咲きます。おいしい果物や魚介類もとれます。千年王国の神の栄光は、この何十倍、何百倍にもなるのです。
ユダヤ人がイエス・キリストを受け入れれば、現在の人間ではとても想像できない世界になるでしょう。猛獣はいなくなります。ライオンもヒョウも、人間にしたいよってくるでしょう。人間が万物の長であることが、はっきり確立されるからです。
現在の人間の願いの何百倍もの平和が、地球全体に訪れるのです。神の栄光が全地に満ちますから、人口はいくらふえても大丈夫です。人間の一切の罪悪思想、罪悪行為がなくなりますから、地球に驚くべき平和が訪れるのです。その時、人々は、心から、神を賛美することができるのです。
私はその日が言でも早く実現することを、心から望んでいるのです。




ユダヤ人の宗教観念が世界に広がった

人間は花を見ても、それがどういう意味か、分からないのです。花が咲いている姿は分かります。美しいことは分かります。美しいとはどういうことなのかが分からない。美しいとは何を意味するかということです。
美は、生まれる前の命のすばらしさが、そのまま現れているのです。理性、良心は、生まれる前の無意識の人格が、有意識として現れているのです。生まれる前の人格が、肉体的な状態で現れている。これが分かりますと、生きている命の美しさ、すばらしさが、生まれる前の命のすばらしさであることが分かるのです。
皆様は、現世に生きている自分を認めておいでになるために、命の美しさが分からないのです。本能的な欲望の奴隷になっているからです。
男性が、なぜ女性に惚れるのか。桜の花の美しさを知らないのと、同じようなことなのです。
人間は、生活欲のために、ばかになってしまったので、自分の本心、本性、本願が、見えなくなっているのです。だから、魂の尊さが、分からなくなっているのです。
人間の歴史が、どういう理由で地球上に広がったのか。どういう理由で何百種類の民族がいるのか。どうして、百数十ケ国の国があるのか。こういうことが、現象主義、唯物思想のために、全く分からなくなっているのです。
文明によって、人間の魂が、殺されているのです。だから、何が命か、何が真理か、何が悪か、さっぱり分からないのです。
皆様が現在生きているのは、結果です。生まれてきたというのは、結果が現れたということです。生まれたという結果が現れるためには、原因がなければならないのです。
昨日がなければ、今日があるはずがないのです。昨日があったから、今日があるのです。今皆様が生きておいでになるのは、今日という日に、生きておいでになるのです。これが現世です。現世に生まれてくる前に、前世があった。これが人間の過去です。過去と現在と未来、昨日と今日と明日があるのです。
皆様は、昨日、今日、明日という時間区分があることを、承知して生活しています。過去、現在、未来を、承知しなければ、生活は実行できないのです。ところが現在の人間は、現在しか知らないのです。どこから来たのか、どこへ行くのかが、全然分からないのです。
人間は、ただ、肉体的な現実主義だけで、生きているのです。これが、ユダヤ教の宗教観念です。モーセが、こういう観念を、ユダヤ人にばらまいたのです。モーセ自身は、それほど間違ってはいなかったのですが、彼の言い方が悪かったために、誤解されたのです。モーセに同情しておきたいのです。
とにかく、理由はどうであっても、世界の人間は、現世に生きていることが、自分だと思いこんでいるのです。これは、根本的な間違いです。
新興宗教は、現在生きている人間を相手にしているのです。魂が殺されていますから、自分だけの利益をふりまいています。商売が繁盛するとか、病気が治るとかいって、お金をもうけているのです。
新興宗教は霊と言いますが、これが全くのいんちきです。本当の霊は、一番分かりやすいものであって、皆様の心臓が動いていることなのです。皆様の目が見えること、耳が聞こえることが、霊なのです。人間が生きていることの実質、実体、地球が存在すること、太陽が存在することの実質、実体が霊です。これが本当の霊です。
ところが、皆様は、心臓が動いていることを、霊だと思わずに生きておいでになる。皆様の心臓は、実際には動いているけれど、動いていないのと同じような状態になっているのです。
心臓が動いていることを、皆様が現実に経験しておいでになるけれど、それを霊として受け取っていないために、心臓が肉(単なる現象)になってしまっている。現代の医学では、そうしているのです。
医学的に考えると、心臓が動いているのはただの生理現象です。生理現象とは、肉ということです。この考えが間違っているのです。これがユダヤ主義の考えなのです。心臓が動いているのは、ただの生理現象ではありません。宇宙の本体が、人間の心臓の中で、動いているのです。
動いていることだけを見れば、生理現象として見えますけれど、動いていることの根底には、宇宙の命という人格的なものが働いているのです。
宇宙の人格を、神と言います。宇宙人格が、生理現象になって、働いているのです。これを霊と言うのです。これが本当の霊です。霊友会とか、霊法会とかいう新興宗教は、現世の人間に、御利益を与えるものです。そんな思想は、すべて釈尊の思想に反するものであって、仏教を売り物にして、商売をしているのです。
人間の現世の思想に巣くっている寄生虫が、宗教です。回虫のようなものです。回虫ならまだいいのですが、悪性のサナダ虫みたいなものです。サナダ虫は、二メートル、三メートルにもなって、大腸、小腸の中にいるのです。これが新興宗教の本体であって、こんなものに相手になると、皆様の霊は瀕死の状態になります。現代文明に生きている人間の罪悪に住み込んでいる寄生虫が宗教です。




イエスを憎み続けているユダヤ人の言い分

ユダヤ人がイエスをなぜ憎んだかということです。新約聖書の山上の垂訓といわれる箇所で、イエスはあなたがたは殺してはならないと言っている。しかしそれに対して言いたい。殺してはならないのではなくて、憎んではならないのだ。人間どうしが憎みあっていることが、すでに殺し合っていることだという言い方をして、有名なモーセの十戒という掟についてのユダヤ人の考え違いを、痛撃したのです。
モーセの掟は、ユダヤ人にとって金科玉条のものでありまして、絶対にゆずることができない生命線です。それをイエスは、真っ向からたたいたのです。これがユダヤ人がイエスを嫌いになった根本原因です。
ユダヤ人が全部イエス嫌いになったのではありません。イエスの十二弟子はユダヤ人ですし、十二弟子以外の人たちでも、イエスの言葉に感銘を受けた人たちが相当あったのです。
しかしユダヤ人の絶対多数が、イエスの言うことが間違っていると考えた。特にユダヤ人の宗教家たち、祭司と学者は、猛烈にイエスに反対したのです。
ユダヤは宗教国家でありまして、神殿を司る人が、ユダヤの行政管理を兼ねていたのです。この人たちが、イエスによってユダヤ人の宗教観を真っ向からたたかれたことに、怒りを覚えたのです。
イエスが十字架につけられて殺される直接原因になったのは、あなたがたが神と呼んでいるものは、私の父なのだという言い方をしたからです。私は生きている神の子であると、ユダヤの宗教法廷で宣言したのです。これがユダヤ人の宗教観念の根本を痛撃した形になったのです。
神が父であるというのは、その時のユダヤ人にとっては、神への大変な冒涜になるのです。これがイエスが殺された直接原因になったのです。
それ以後、イエスの言動について、繰り返し、影でも日向でも、反抗していました。今でもそれを続けているのです。これが、白人社会でユダヤ人が憎まれている最大の原因になっているのです。
ユダヤ人がイエスを十字架につけて殺したために、神の怒りをかって、祖国を追われ、彷徨うことになった。現在でも、世界中で流浪の民になっているのです。現在ではイスラエル共和国がありますが、これはユダヤ人のショーウインドのようなものであって、全世界のユダヤ人の三分の一の人々が住んでいるにすぎないのです。
ユダヤ人は現世に生きていることを、民族の最高の誇りにしているのです。ところが、イエスの考え方によりますと、現世に生きることが人生の目的ではないのです。
神の国と神の義を求めよと言っています。現世は嘘の世界、仮の世界、やがて過ぎ去っていく世界である。もう一つの全く別の、永遠の世界がある。それを求めなさいとイエスは言い続けたのです。
イエスの考え方と、ユダヤ人の考え方が、全く違っていた。これが、ユダヤ人がイエスに対して根強く反感を持ち続けている根本原因になっているのです。




神の国に入る

人々は花を見て喜んだり、鳥が鳴いたり飛んでいるのを見て、喜んだりしていますが、これは何をしているのかを考えようとしない。だから死んでしまうのです。
花を見てきれいだと思えることは、その人の心の中に、生まれる前の命が整っているのです。
花を見て美しいと思うのは、そう思える理由があるからです。魂は、仮の姿で、この世に現われているという意味です。鳥や花を見てうれしいと感じるのは、本当のうれしさの影を見ているのです。
本当のうれしさは、魂がこの世に出るまでに、経験してきたことです。この世に出て、花が咲いていること、鳥が飛んでいるのを見て、生まれる前に経験していたうれしさを、もう一度復習しているのです。これをうれしいと言うのです。
うれしいというのは、うれしいような気持ちを経験したということです。魂というのは、御霊が現世で試みに経験している状態をいうのです。
現世でうれしいとか楽しいとか言っているのは、仮の経験であって、うれしい、楽しいことの本当の意味が分かった人は、永遠の楽しさをつかまえることができるのです。ぅれしい、楽しい、おいしいと言っていながら、その原理が分からないままで死んしまいますと、魂の裁きにあわなければならないのです。むしろ、うれしい、楽しい、おいしいことを経験しなかった方がよかったのです。この原理を知るか知らないかは、大変な違いになります。
花を見て、なぜ美しいと思うのか、その原因は神にあるのです。生まれる前に、魂は神と一緒にいた。神と一緒にいた時の感覚を、現世で味っているのです。だから、美しい、楽しい、おいしいという気持ちを神に対して、告知しなければならないのです。これを実行しないものは、魂は伸びないのです。
人間が現世に生まれてきたのは、業です。地球があるのは神の業です。現世で神の業に巡りあうのです。人間が現世に生まれてきたことは業ですが、現世に生まれてこなければ、美しさを経験できないのです。
神が花を咲かせ、鳥を飛ばしているのです。それを見て、うれしく思うのです。なぜうれしい気持ちがしたかということを、まず知る必要があるのです。そして、どういう気持ちで生活すればいいのかを、考える必要があるのです。
本当に神が分かるか分からないかは、第一に天分があるかどうかです。第二に素朴さが必要です。第三に根気があるかどうかです。天分がない人は、非常に難しいのです。女性のあり方が、人間の魂を代表しています。男性が女性に学ぶというのは、女性が持っている単純、素朴さに学ぶという意味です。
女性は美しいものを見たら、素直に感動します。これは神が人に与えている恋愛的な感覚です。男性は理屈で割り切ろうと考えるのです。理屈で考えている間は、神が分かりません。神と人の魂の関係は、愛の関係です。論理は後からついてきます。
愛とは、生まれる前の魂のセンスが、目を開くことです。生まれる前の前世と、生まれた後の現世と、死んだ後の来世(後生)を貫いているのが魂です。愛とは、生まれる前に、神と一緒にいた感覚に、気がつくことです。
現世での人間の恋愛でも、実は生まれる前の状態に気がついているのです。
女性が造られたのは、生まれる前のことです。前世で男性が女性を見て、好きだと言っていたのです。現世で女性が好きになる男性は、前世の感覚を思い出しているのです。
男女の関係は、この世に生まれてから教えられたものではありません。親が子供に、異性の愛し方を教えたのではない。これは生まれる前から知っているのです。
三才から四才の女の子が、お嫁さんになると言っているのです。そのように、生まれる前から男女の問題は知っているのです。現世では人間的に知っていますが、生まれる前には、霊的に知っていたのです。魂的に知っていたものが、現世で人間的に気づきはじめたのです。
恋愛は元来、生まれる前のものですから、死んだ後まで継続するような恋愛をしなければならないのです。これが本当の恋愛です。
本当の恋愛は、現世だけで愛する、愛されることとは違うのです。本当の愛は、親子とか夫婦に限らない。現世の法律には関係ないのです。本当の恋愛感情が分かってくると、現世に生きている状態が、そのまま続いていくのです。こういう感覚を味うのが、本当の恋愛です。
生まれる前は、肉体がない状態で、男女が知っていた。現世では肉体がある状態で知りあうのです。本当の恋愛が分かつてくると、後生にまで通じるものだということが、分かってくるのです。こういうことを意識できる恋愛でなかったら、本当のものではないのです。こういう恋愛をしている人は、めったにありません。現世でこういう恋愛ができる人は、よほど幸福な人です。皆様は本当の恋愛をご存じないのです。
だから、神が分からないのです。現世で花や鳥や美しい景色、美しい人を見て、何となくうれしいと思う。
男女が恋愛をするのには原因があるのです。生まれる前に経験をしていて、現世でもうー度、をしているからです。これが、死んだ後にまで延長されるという可能性を、必要があるのです。よくよく考えてみると、肉体があるという思いが間違っているのです。恋愛は間違っていません。肉体があるという思いが間違っているのです。
肉体はありません。愛を経験するために、肉体という方便があるだけです。肉体をもって、恋愛をして感じるのは、実は肉体の感覚でありません。霊魂の感覚です。それを肉体の感覚だと思い込んでいるのです。
肉体はあるに決まっているという気持ちを持つ必要はありません。無理にこの気持ちを捨てようとしても、捨てられませんが、肉体があると思うのは、実は嘘だということは、よくよく考えてみれば分かるはずです。
皆様は肉体が確かにあるとお考えですが、ただ鼻から息を出し入れしているだけです。息が止まったら、肉体は一辺に消える方向にいくのです。肉体とは、ただ息をしているだけです。息をしているから、血液の循環がありますし、肺、心臓が働いているのです。息が止まれば、すぐ死んでしまいます。
生きているという事実がある間は、肉体はあります。生きているという事実がなくなれば、肉体は壷にだめになります。ですから、肉体があるのではなくて、生きているという事実があるのです。呼吸機能、生理機能が働いているのです。機能と肉体とは違います。生理機能が肉体に現われていますが、機能は肉体ができる前からあったのです。肉体があるから生きているのではありません。機能が正常に働いているから、肉体があるのです。生きていることが、肉体的に働いているだけです。
美しい花を見て、きれいだと思う。おいしいものを食べて、おいしいと思う。これは肉体の感覚ではなくて、生まれる前の感覚です。肉体を持っているから、美しいとかおいしいと思うのではないのです。
肉体を与えられてこの世に出なければ、花が美しいとは思えませんが、美しいと感じる機能は、肉体が与えられる以前に備えられたものです。それは肉体の感覚ではなくて、魂の感覚なのです。生まれる前の感覚です。同様に、男性が女性を見て美しいと思えるのは、魂の感覚です。それを肉体の感覚だと思うからいけないのです。
ところが、世間並の男性が女性を見て美しいと思うのは、皆霊の感覚かというと、そうではないのです。情欲をいだいて女性を見れば、性欲になるのです。情欲をいだいて女性を見ることは、大いにありうるのです。
肉体を持っているから、全部肉体の感覚かというと、そうではありません。そこで御霊を崇めるということが必要になってくるのです。
御霊とは何か。大自然に展開している天然のエネルギーが御霊です。生理機能、心理機能のすべては、このエネルギーによって動いています。このエネルギーなしには、人間は絶対に生きていけません。だから御霊を崇めるのは、当たり前です。その前に必要なことは、まず洗礼を受けることです。そして御霊を受けることです。
この二つのことをしなければならないのです。水のバプテスマと、聖霊のバブテスマ、この二つをきちつと受けなければいけないのです。
水のバプテスマを受けないで、聖霊のバプテスマを受けることは、絶対にないとは言えませんが、極めて少ないのです。皆様は洗礼と聖霊の二つを受けなければなりません。水と霊とによって、新しく生まれるのです。
肉体がある間は、肉の思いはなくなりません。肉の思いはあってもいいのです。肉の思いを持っているままで、御霊を崇めればいいのです。そうすると、肉の思いが消えてしまうのです。そういう方法があるのです。
肉の思いがなくなってしまわなければ、御霊が崇められないという考えが、間違っています。肉の思いをなくそうと思ったら、何百年あってもできないでしよう。御霊を崇めることさえすれば、肉の思いが体にしがみついていても、構わないのです。神に目を向ければいいのです。神を信じることを実行すれば、肉の思いがあっても、ないこととして扱われるのです。
女性が女性であるままの状態でこの世を去ってしまいますと、火の池へ行かなければならないのです。女性は男性の中へ帰らなければいけないのです。夫であっても、夫でなくてもかまいません。これは現世の道徳や法律には関係がないのです。
女性が男性に帰るとはどうすることか。肉体関係を持つことではありません。精神的な問題です。女性が男性に恋愛感情を持てば、その男性に入ったことになるのです。
女性が男性の中に帰ることが、女性の本当の姿です。二人の者、会いて一体になれというのは、前世で神に言われた言葉です。今生でも、結婚式でこの言葉を使いますけれど、本来は、前世のエデンの園の言葉であって、現世の言葉ではないのです。
大きい気持ちを持つのです。生まれる前の命、今の命、この世を去ってからの命を考えなければならないのです。
だいたい、今の命はどうでもいいのです。神を知るためには、現世に出てこなければいけなかった。神が分かればそれだけでいいのです。この世に少しも執着を持つ必要はないのです。
この世は仮の世であって、本物ではありません。人間の魂の本体は御霊ですが、御霊が試みに現世に顔を出しているだけなのです。これが現世での生活です。
女性は信頼ができる男性の中に帰る必要があります。どうしたらいいかと言いますと、恋愛感情を持てばいいのです。恋愛感情が持てるということは、その人の中に入っているということです。その人の言う言葉をそのまま受け取って、その人格の中に入ってしまえばいいのです。
夫でなくてもいいのです。信頼できる男性の中に帰るのです。これは魂の問題ですから。イエスに対して、そうした女性が多くいました。現在でも、そうしたらいいのです。神の前に通用するような恋愛をしたらいいのです。
今世界中の人間で、誰も気づいていないことは、霊のことを霊で解釈するというパウロの言葉です。イエスの言葉にも、そういう意味があります。山上の垂訓は(マタイによる福音書五章から七章)ほとんどそういう内容です。
霊的に見るということが分からないのです。霊的に見るというのは、物事の本質を見る、神の側から見るということです。
霊的に見るとどうなるのかと言いますと、人間の精神が霊になってしまうのです。素朴な感覚で神を見るという習慣をつけますと、精神がだんだん向上していくのです。
精神の正体が、世界中の人間に全然分かつていないのです。精神が一番重要なことです。精神だけが、天使を使うことができる。精神以外のものは、皆天使の下にいるのです。神は精神だけを上へ引き上げようとしているのです。精神を上にあげていこぅと思えば、聖書の言うとおりにしていけばいいのです。自分の思いにとらわれないで、神の言葉と御霊の導きに従えばいいのです。
とにかく、人間の精神を高めていくことが、本当の教育です。精神を高めていくと、魂が救われるのです。魂の中心が精神ですから、現世を去ってから役に立つのです。
生きている間に、精神をどのように鍛えたらいいのか。どのように訓練したらいいかです。
現世に生まれてくる前に、男性はハートを取られてしまった。男性の中から、肝心要の魂の中心的なものを、抜かれてしまった(創世記2・21~23)。なぜ抜かれたのかと言いますと、アダムが情熱的ではなかったからです。頭がいくら聡明でも、情熱的でない人は、聖書がなかなか分かりません。
聖書を勉強するというのは、理性的な聡明さと感情的な熱情の両方がなければだめです。聖書の言葉を学んでいても、それに喜びを感じる感覚が、なかなか湧かないのです。情熱的でない人は、感情を高揚させるような訓練をする必要があるのです。歌を唄うとか絵画を見るとか、花を見たらいいのです。
男性はアダムのような欠点があるのです。神から見ると、ぼやーっとしているように見えるのです。ぼやーっとしているのは、情熱がないからです。聖書が分かっても、情熱的でない人は、喜びが感じられません。
自分の性格は、自分の精神で変えられるのです。変わらないと諦めてはいけないのです。初恋のような感覚が、神に対して持てるようになるといいのです。魂を自覚しないで、人間である自分を見ていると、神とのつながり、神が愛しているという神の愛が分からないのです。自分自身が魂であることを自覚しようという気持ちを、いつも持っているのです。
人間であることをやめて、魂である状態に、できるだけなるのです。これは難しいように思われますが、そうではないのです。
生きていることが魂です。生きている状態は取り越し苦労をしません。苦しんだり、悩んだりするのは、自分という人間です。魂はそういうことをしません。
魂は生かされているという受け身の状態です。受け身の状態は、取り越し苦労をしません。取り越し苦労をするのは人間です。
生かされているという自分に立とうとするのです。そうすると、魂の自分になるのです。これをしますと、引つ込み思案は、自然になくなってしまいます。引っ込み思案をするのは、自分という人間です。生かされているということが魂ですから、魂という立場に立ちますと、自分なりの癖が出てこないのです。話をする時に素朴になり、気持ちを軽くして言うことができるのです。
初恋の経験は、非常に良い経験です。これは魂の経験であって、人間の経験ではありません。この経験を活用するのです。
日本人は聖書の価値が全く分からない民族です。聖書に親しみを感じないし、読もうとしません。従って、魂が分からないのです。人間が生かされている状態を、霊的に理解することができないのです。現世に生まれてきたのは、生かされている状態を霊的に見るためです。この訓練をするために、生まれてきたのです。人間として考えないで、できるだけ魂として考えようとするのです。魂として考えるとは、どうしたらいいのか、なかなか分かりにくいでしょう。それを神に聞く気持ちを持つのです。魂として生きたいと思いますが、どうしたらいいでしょうかと神に聞くのです。
神とは何か。生きていることが神です。皆様は生きている神と、いつも一緒にいるのです。生きているということは、神と一緒にいることです。
その神に聞くのです。御霊を崇めるとはどうしたらいいのか。魂で生きるとは、どうしたらいいのでしょうかと、神に聞くのです。分からないことは、何でも神に聞くのです。そうしたら、教えてもらえるのです。
日本民族は、先天的に、聖書を敬遠しょうとしています。その欠点を承知して、その欠点を直そうという気持ちを持つのです。聖書を好きになろうとするのです。世間並の日本人は、皆聖書から逃れようとしているのです。この点は、西欧人は有難いのです。分かつても分からなくても、聖書は有難いと思い込んでいますから、楽です。日本人と正反対です。日本人は質が悪い民族ですが、そういう人の中から聖書を学ぶよう仕向けられたのですから、できるだけ聖書を好きになろうという気持ち、人々から聖書気違いと言われるような、積極的な情熱を持つことです。そうすると、だんだん開かれてきます。
現世に生きている間は、本当の命ではありません。本当の命ではないことが分かりますと、本当に生きることができるのです。現世に生きていることが、自分の命だと思っている間は、本当に生きることはできません。自分の利害得失をいつも考えていますから、本当の聖書の勉強はできません。
神の国は何か。例えば世間並に花を見ている場合、この世の人間が花を見ているのです。ところが、魂の感覚で花を見るようになりますと、花を見ていることが神の国になるのです。人間が見ていると、この世のできごとになるのです。
イエスが生きていて、飲んだり食べたりしていたのは、神の国ですが、弟子が飲み食いしていたのは、人間の世界です。同じことを同時にしていても、生きている気持ちによって世界が違うのです。
神の国が少し分かったくらいでは、なかなか入りきってしまうことはできませんが、そのうちに、神の国に入りきってしまうようになるでしょう。そうなりますと、現世に生きていることは、どうでもよくなるのです。現世に生きていることが、そのまま神の国になっているからです。
現世にいることが、そのまま神の国にいるように感じられることになりますと、楽になります。ここまでいくためには、分かったような分からないようなことの繰り返しをすることになるでしょう。出たり入ったりが続くのです。これは人によってだいぶ違います。
いずれにしても、素朴になることが一番必要です。思想的に勉強することも、素朴になるために勉強するのです。何も分からない状態で、素朴になれと言っても無理です。
女性は比較的しやすいでしょう。男性は非常に難しいのです。だから、思想的に勉強しなければならないことになるのです。しかし、思想的にいくら分かっても、命になったのではありません。思想はやはり思想です。命にならなければだめです。聖書が思想的に理解できたというだけでは、やはり宗教になるのです。
宗教は思想的な理解だけです。命ではありません。仏教でも同様です。仏典を思想的にだけ理解しているのです。自分が仏になっていないのです。
仏教の場合は無理もありません。神の約束がありませんから、仏になりたくても、なれないのです。命の実体である聖霊を受けることがありません。聖書の場合には、それがあるのです。聖霊を受けることになりますと、聖霊によって導かれることになりますので、聖書の言葉が命になるのです。
パウロは、霊のことを説明するのに、霊の思いを持ってすると言っていますが、これは宗教ではできないことです。生きているのは人間ではない。魂が生きているのです。魂が生きている状態が霊です。食べる場合でも、人間が食べることと、魂が食べることとは、世界が全然違います。他人から見れば同じように見えますが、本人の気持ちは全然違うのです。
肉体は固定的にはありません。瞬間的にだけあるのです。瞬間、瞬間が継続的にあるのです。これが肉ですが、実は霊なることです。肉も霊で見ると、霊になってしまうのです。