さあ、不思議なトラックバック第二弾です。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/?of=6
3/2の記事。
なお、引用の~である調は上山和樹さん。一方、本文のです・ます調はワタリによるもの。
なぜジャーゴンを?
>ワタリ氏が、「差別的な切断操作はいけない」という問題意識をお持ちであるこ
>とは明らかで
わたしは本田由紀さんのブログのコメント欄でそのような発言をしておりません。理解に苦しみます。
ただ、ニートならニートという概念自体をとらえなおす作業に参加しただけです。
(なお、切断操作という社会学のジャーゴンを何の解説もなく使用することは、別の専門をお持ちの方や、日常用語を使う方々にとってはわかりにくいです。たとえば工学の分野では、機会を使ってものを断ち切ることを切断操作とよびます。通信の分野では、回線を接続するのに対して切ることを切断操作と呼びます。(英語ではoperation cutting またはcutting operarationでググるとすぐ出てくるでしょう。)ちなみに、「切断操作」とは、凶悪な犯罪が起こった場合に、
「あれは自分たちとはまったく別の人が起こしたことだから関係ない」とみなすことです。関東の少年犯罪関連のシンポジウムで、宮台 真司がそう解説していたのを覚えています。そのとき「条件がちがえばあるいは自分もああなったかもしれない」「自分たちのなかにも残虐性はひそんでいる」といった認識を持たない/持てない社会現象を指します。
で、わたしは本田由紀さんのブログのコメント欄にて、凶悪犯罪をとりまく社会についてはひとことも論じていません。何かを切断する機械の紹介もしていませんし、通信の話もしていません。
そもそもそういうテーマのエントリーではありませんし、他のコメンテーターらも話題にしていません。ですので、なぜ上山さんがわたしの話の要点として「切断操作」というジャーゴンを、読者に対して何の説明もなく持ち出したのか、さっぱり理解できないのです。)
別の認識
> あるフリースクール主催者は、電話で話したときに「ひきこもりとかニートと
>かいう言葉は、何かウソっぽい。作り物っぽい。そういう名前をもらうことでと
>りあえず本人は落ち着くのかもしれない。けれど、問題解決になっていない。」
>とおっしゃっていました。自分も、あやしいと思いました。
>二重に誤っている。 「ひきこもり」という言葉を「ウソっぽい」と表現するの
>は、「ちょっと努力すればすぐにでも社会参加できる」という甘い認識だからで
>はないか。 にもかかわらず「問題解決」とはどういうことか。
ここで話題にされたフリースクーラーは、「旅の学校」をやっています。日本のほか、アメリカ・オーストラリア・タイなどのフリースクールやコミュニティをめぐって、自分が誰なのかを知る。その自分さがしの旅こそが彼にとっての問題解決なんです。
したがって、ひきこもりまたはニートというレッテルを貼ったからといって、自分のアイデンティティが明らかになったわけではない。なのに本人はそう錯覚していしまう。それで、医者に行くと、必要かどうかわからない薬を山ほどもらって、副作用でかえってボロボロになる。クスリ・医療・病院に依存するようになってしまう。そのことを件のフリー・スクーラーは批判しているのです。
それは >甘い認識なのではありません。医療モデルとは別の認識なんです。
問いには答えがあるとはかぎらない。正しい答えはひとつとはかぎらない。
という問いと答えの初歩を再確認すれば、「間違いをただす」といった横柄なものいいはできないのでは?
テキストとコンテキスト
>「ひきこもり」という呼称は、当事者・親御さんサイドからも「ネガティブすぎ
>る」と嫌われがちな言葉ではある。しかし、深刻な実態を名指す言葉を失えば、
>実態自身が忘却される【参照】。 ▼もし単語としての「ひきこもり」が不満な
>ら、ぜひ対案を出してほしい。
嫌だというのなら、使わないでもいいのではないですか? どうして全員が一律に統一する必要がありますか?
蔑称としてのひきこもり、予算獲得用語としてのニートをわたしは批判しました。
で、たとえば「当事者」が自己肯定・自己認知するための用法としてのひきこもりをーーあるいはパートやニートやその他をーーわたしは否定していないのです。高岡健や高木俊介らの言う、本人が納得のいく実存的な悩みを生ききるためのひきこもりをわたしは支持したいと思います。そのことは、文脈やニュアンス、あるいはともにバッシングされる若者の一群(フリーター)をカムアウトしていることなどによって、充分伝わっているものと考えていました。ちょっと表現が弱い/足りなかったようです。
誰も「われがであることを誇りにするときがきたのだ」とうたいあげる宣言を差別文書だとは言いません。逆に、トイレの壁に「は死ね」とあれば、差別落書きとして問題にするでしょう。
やっかいなことに、言葉は使われるシチュエーションやタイミングやニュアンスなどをぬきに理解できません。主観的な意図、社会的な役割や立場なども考慮に入れないと解釈できません。
どうやら上山さんにとっては、そのへんがむつかしいのでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/?of=6
3/2の記事。
なお、引用の~である調は上山和樹さん。一方、本文のです・ます調はワタリによるもの。
なぜジャーゴンを?
>ワタリ氏が、「差別的な切断操作はいけない」という問題意識をお持ちであるこ
>とは明らかで
わたしは本田由紀さんのブログのコメント欄でそのような発言をしておりません。理解に苦しみます。
ただ、ニートならニートという概念自体をとらえなおす作業に参加しただけです。
(なお、切断操作という社会学のジャーゴンを何の解説もなく使用することは、別の専門をお持ちの方や、日常用語を使う方々にとってはわかりにくいです。たとえば工学の分野では、機会を使ってものを断ち切ることを切断操作とよびます。通信の分野では、回線を接続するのに対して切ることを切断操作と呼びます。(英語ではoperation cutting またはcutting operarationでググるとすぐ出てくるでしょう。)ちなみに、「切断操作」とは、凶悪な犯罪が起こった場合に、
「あれは自分たちとはまったく別の人が起こしたことだから関係ない」とみなすことです。関東の少年犯罪関連のシンポジウムで、宮台 真司がそう解説していたのを覚えています。そのとき「条件がちがえばあるいは自分もああなったかもしれない」「自分たちのなかにも残虐性はひそんでいる」といった認識を持たない/持てない社会現象を指します。
で、わたしは本田由紀さんのブログのコメント欄にて、凶悪犯罪をとりまく社会についてはひとことも論じていません。何かを切断する機械の紹介もしていませんし、通信の話もしていません。
そもそもそういうテーマのエントリーではありませんし、他のコメンテーターらも話題にしていません。ですので、なぜ上山さんがわたしの話の要点として「切断操作」というジャーゴンを、読者に対して何の説明もなく持ち出したのか、さっぱり理解できないのです。)
別の認識
> あるフリースクール主催者は、電話で話したときに「ひきこもりとかニートと
>かいう言葉は、何かウソっぽい。作り物っぽい。そういう名前をもらうことでと
>りあえず本人は落ち着くのかもしれない。けれど、問題解決になっていない。」
>とおっしゃっていました。自分も、あやしいと思いました。
>二重に誤っている。 「ひきこもり」という言葉を「ウソっぽい」と表現するの
>は、「ちょっと努力すればすぐにでも社会参加できる」という甘い認識だからで
>はないか。 にもかかわらず「問題解決」とはどういうことか。
ここで話題にされたフリースクーラーは、「旅の学校」をやっています。日本のほか、アメリカ・オーストラリア・タイなどのフリースクールやコミュニティをめぐって、自分が誰なのかを知る。その自分さがしの旅こそが彼にとっての問題解決なんです。
したがって、ひきこもりまたはニートというレッテルを貼ったからといって、自分のアイデンティティが明らかになったわけではない。なのに本人はそう錯覚していしまう。それで、医者に行くと、必要かどうかわからない薬を山ほどもらって、副作用でかえってボロボロになる。クスリ・医療・病院に依存するようになってしまう。そのことを件のフリー・スクーラーは批判しているのです。
それは >甘い認識なのではありません。医療モデルとは別の認識なんです。
問いには答えがあるとはかぎらない。正しい答えはひとつとはかぎらない。
という問いと答えの初歩を再確認すれば、「間違いをただす」といった横柄なものいいはできないのでは?
テキストとコンテキスト
>「ひきこもり」という呼称は、当事者・親御さんサイドからも「ネガティブすぎ
>る」と嫌われがちな言葉ではある。しかし、深刻な実態を名指す言葉を失えば、
>実態自身が忘却される【参照】。 ▼もし単語としての「ひきこもり」が不満な
>ら、ぜひ対案を出してほしい。
嫌だというのなら、使わないでもいいのではないですか? どうして全員が一律に統一する必要がありますか?
蔑称としてのひきこもり、予算獲得用語としてのニートをわたしは批判しました。
で、たとえば「当事者」が自己肯定・自己認知するための用法としてのひきこもりをーーあるいはパートやニートやその他をーーわたしは否定していないのです。高岡健や高木俊介らの言う、本人が納得のいく実存的な悩みを生ききるためのひきこもりをわたしは支持したいと思います。そのことは、文脈やニュアンス、あるいはともにバッシングされる若者の一群(フリーター)をカムアウトしていることなどによって、充分伝わっているものと考えていました。ちょっと表現が弱い/足りなかったようです。
誰も「われがであることを誇りにするときがきたのだ」とうたいあげる宣言を差別文書だとは言いません。逆に、トイレの壁に「は死ね」とあれば、差別落書きとして問題にするでしょう。
やっかいなことに、言葉は使われるシチュエーションやタイミングやニュアンスなどをぬきに理解できません。主観的な意図、社会的な役割や立場なども考慮に入れないと解釈できません。
どうやら上山さんにとっては、そのへんがむつかしいのでしょうか?