ワタリのわき道

労働・失業問題からわき道にそれる話は、こちらで扱います。

不思議なトラックバック2

2006-04-07 19:36:35 | Weblog
さあ、不思議なトラックバック第二弾です。

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/?of=6
3/2の記事。
なお、引用の~である調は上山和樹さん。一方、本文のです・ます調はワタリによるもの。


なぜジャーゴンを?

>ワタリ氏が、「差別的な切断操作はいけない」という問題意識をお持ちであるこ
>とは明らかで

わたしは本田由紀さんのブログのコメント欄でそのような発言をしておりません。理解に苦しみます。

ただ、ニートならニートという概念自体をとらえなおす作業に参加しただけです。

(なお、切断操作という社会学のジャーゴンを何の解説もなく使用することは、別の専門をお持ちの方や、日常用語を使う方々にとってはわかりにくいです。たとえば工学の分野では、機会を使ってものを断ち切ることを切断操作とよびます。通信の分野では、回線を接続するのに対して切ることを切断操作と呼びます。(英語ではoperation cutting またはcutting operarationでググるとすぐ出てくるでしょう。)ちなみに、「切断操作」とは、凶悪な犯罪が起こった場合に、
「あれは自分たちとはまったく別の人が起こしたことだから関係ない」とみなすことです。関東の少年犯罪関連のシンポジウムで、宮台 真司がそう解説していたのを覚えています。そのとき「条件がちがえばあるいは自分もああなったかもしれない」「自分たちのなかにも残虐性はひそんでいる」といった認識を持たない/持てない社会現象を指します。
で、わたしは本田由紀さんのブログのコメント欄にて、凶悪犯罪をとりまく社会についてはひとことも論じていません。何かを切断する機械の紹介もしていませんし、通信の話もしていません。
そもそもそういうテーマのエントリーではありませんし、他のコメンテーターらも話題にしていません。ですので、なぜ上山さんがわたしの話の要点として「切断操作」というジャーゴンを、読者に対して何の説明もなく持ち出したのか、さっぱり理解できないのです。)


別の認識


> あるフリースクール主催者は、電話で話したときに「ひきこもりとかニートと
>かいう言葉は、何かウソっぽい。作り物っぽい。そういう名前をもらうことでと
>りあえず本人は落ち着くのかもしれない。けれど、問題解決になっていない。」
>とおっしゃっていました。自分も、あやしいと思いました。

>二重に誤っている。 「ひきこもり」という言葉を「ウソっぽい」と表現するの
>は、「ちょっと努力すればすぐにでも社会参加できる」という甘い認識だからで
>はないか。 にもかかわらず「問題解決」とはどういうことか。


ここで話題にされたフリースクーラーは、「旅の学校」をやっています。日本のほか、アメリカ・オーストラリア・タイなどのフリースクールやコミュニティをめぐって、自分が誰なのかを知る。その自分さがしの旅こそが彼にとっての問題解決なんです。
したがって、ひきこもりまたはニートというレッテルを貼ったからといって、自分のアイデンティティが明らかになったわけではない。なのに本人はそう錯覚していしまう。それで、医者に行くと、必要かどうかわからない薬を山ほどもらって、副作用でかえってボロボロになる。クスリ・医療・病院に依存するようになってしまう。そのことを件のフリー・スクーラーは批判しているのです。

それは >甘い認識なのではありません。医療モデルとは別の認識なんです。

問いには答えがあるとはかぎらない。正しい答えはひとつとはかぎらない。
という問いと答えの初歩を再確認すれば、「間違いをただす」といった横柄なものいいはできないのでは?


テキストとコンテキスト

>「ひきこもり」という呼称は、当事者・親御さんサイドからも「ネガティブすぎ
>る」と嫌われがちな言葉ではある。しかし、深刻な実態を名指す言葉を失えば、
>実態自身が忘却される【参照】。 ▼もし単語としての「ひきこもり」が不満な
>ら、ぜひ対案を出してほしい。

嫌だというのなら、使わないでもいいのではないですか? どうして全員が一律に統一する必要がありますか? 
蔑称としてのひきこもり、予算獲得用語としてのニートをわたしは批判しました。
で、たとえば「当事者」が自己肯定・自己認知するための用法としてのひきこもりをーーあるいはパートやニートやその他をーーわたしは否定していないのです。高岡健や高木俊介らの言う、本人が納得のいく実存的な悩みを生ききるためのひきこもりをわたしは支持したいと思います。そのことは、文脈やニュアンス、あるいはともにバッシングされる若者の一群(フリーター)をカムアウトしていることなどによって、充分伝わっているものと考えていました。ちょっと表現が弱い/足りなかったようです。

誰も「われがであることを誇りにするときがきたのだ」とうたいあげる宣言を差別文書だとは言いません。逆に、トイレの壁に「は死ね」とあれば、差別落書きとして問題にするでしょう。
やっかいなことに、言葉は使われるシチュエーションやタイミングやニュアンスなどをぬきに理解できません。主観的な意図、社会的な役割や立場なども考慮に入れないと解釈できません。

どうやら上山さんにとっては、そのへんがむつかしいのでしょうか?




不思議なトラックバック1

2006-04-05 04:29:22 | Weblog
FREEZING POINTさんから不思議なトラックバックをいただいた。

はじめメールしたほうがいいかとも考えた。こんなことをネット世界に書くと、管理人さんに恥をかかせることになるのでは? と考えたからだった。

だけど、あまりにおかしな話が、影響力もある方から広まると厄介なので、こちらで応対することにした。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/?of=6
3/2の記事。
なお、引用の~である調は上山和樹さん。一方、本文のです・ます調はワタリによるもの。


氏って何?


まず、ワタリ「氏」という呼称には納得がいきません。わたしは個人主義と集団主義とのバランスをとる立場から、氏という言葉をなるべく使わないようにしているからです。他人からそう呼ばれるのも不本意です。
なぜならば、氏とはうじ・かばねという意味です。それは、人を個人よりもイエ所属のものとして扱う価値感を含有しています。集団と同じように個人も尊重されてほしいとの立場から、わたしは他人を氏とは呼びません。できればやめていただきたい。


複数の定義のうち……

さらに、上山さんのおっしゃるひきこもりがどういった状態をさすのか、具体的な意味や定義が記されていません。これでは他人への説明としてあまりにも不親切です。ひきこもりについては、閉じこもり、社会的引きこもりなどの用語とともに多様な定義やイメージがあります。残念なことに、そのなかで上山さんのお立場が、このエントリーからは読み取れません。これでは賛成も反対もできません。あまりに論理が荒すぎます。

ちなみにわたしの場合は、18歳以上で、家または部屋から外に出たいときに出られない状態をひきこもりと認識しています。
互いに定義が異なるのはいたしかたありません。
というのは、トラックバックくださった記事のなかでは、上山さんは彼のひきこもりの定義を明らかにしていないからです。


プライバシー2つの意味

>。▼「プライバシー」「多様性」という言葉で、社会的に不可視の苦痛が隠蔽・
>忘却されてゆく*1。▼規範として「プライバシーを尊重すべきである」という問
>題*2と、「放置すればお金がなくなって見殺しになる」という問題とは、分けて
>考える必要がある。

これはプライバシーに関してすれ違いがあるのでは? ここではわたしはプライバシーを私生活という意味ではなく、自己情報コントロール権として扱っているからです。
企業や行政が個人の情報を集めますと、それがコンピューターネットワークによるデータ照合によって明らかになってしまいます。買い物や乗り物の利用状況、税金・年金の払い具合、さらに病歴・薬暦にいたるまで、一挙に誰かが手にする可能性がある。
その自己情報コントロール権を、弱者保護の名目で切り崩すことには反対の立場をとっております。その文脈でのNHKのひきこもりサポート特集批判をひとつ紹介したわけです。
また、関西地区は問題をかかえています。そのなかでいわゆる“聞きあわせ”(調査会社に依頼して、就職や結婚のさい、相手が出身者や共産主義者などではないかどうか問いあわせる慣習。差別的であり、やめるべきとの批判があるものの、消えそうにない。)のリスクを考慮するのがその場の前提となっていたことは、他地域の読者のためにもお伝えしておきます。
それにしても、お金がなくなって死ぬ、というのは貧困問題、あるいは失業問題とか福祉問題ではないのでしょうか。ここにひきこもりを独立した問題として扱うムリさがあるのではないでしょうか。(別の角度から、児童青年精神科医高岡 健さんも同じようなことをおっしゃっています。高木 俊介『引きこもりメンタルヘルスライブラリー 』)収録の座談会にて。)


幻想の専門家 専門家の幻想


>「意味や意図が分かりにくい」というのは、この問題が既存の解釈枠に乗りにく
>いせいでもある。 そもそも多くの精神科医は、当初「ひきこもり」という状態像>を理解できず、相談に訪れた引きこもり当事者を「面接室で説教する」等の失態
>を繰り返している。

>多くの とはどのくらいの精神科の医者がそうしているのですか? 調査方法は? 誤差が少ないほどのサンプルを集められたのかどうか。
あるいは、メディアの中、あるいは世間のウワサ話のなかのひきこもりの圧倒的なマイナスのイメージを配慮して、ひきこもりということを強く意識させないという配慮によるものの場合はどうだろうか? かりにそれが相手をかわいそうと見下さないがために「説教」をした場合はどうだろうか? それは「相手を半人前扱いせず、尊重するゆえの異論・批判」なのか、「失態」にあたるのか?
それから、上の世代の男性とか上の地位の人というのは、よくわかっていないことを言ったり、必要もなく人に説教したりするものです。医者を「全能の神」扱いせずに、くだらないことなら受け流すことも、処世の知恵ではないですか。

専門家幻想については、イリイチらによる『専門家時代の幻想』、病院万能思想と患者の尊重については砂原茂一『医者と患者と病院と』
医師の近藤誠さんによる『患者よ、がんと闘うな』を参照。
とりわけ、精神医療への幻想については、下田 治美『精神科医はいらない』を参照。
医学そのものの不確実性については中川米造『医学の不確実性』にくわしい。とりわけ、医者は必ず人を救うという「救命幻想(救助幻想)」をお見逃しなく。


会社盲目


>。▼「ひきこもり」という語が失われれば、医療的支援にとどまらぬ社会的なイ
>ンフラが動くための問題枠自体が失われる。「複数ある」というが、いったい何
>例あるのか。何十万人も存在する当事者のごくごく一部が「支援なしに脱出し
>た」として、それで「社会的な支援態勢は必要ない」と言えるのか。特例中の特
>例をスタンダードであるかのように語れば、残りのすべては見殺しになる。

それではそのニュースソースを示してください。どういったデータに基づいてそうおしゃるのですか? 
家にいる人は医療ぬきだと死ぬのでしょうか。だいたいみなさん、どのような検査・クスリ・手術等が必要になりますか? むしろ検査や治療のために亡くなる方、無用の苦しみを負う方もいらっしゃいますが、そちらについてはどうお考えですか? 
個人にとってはたとえ統計的には少数であろうと、医療や専門家のの世話にならない選択の余地は、家父長的温情主義によって封じられることになります。個人にとっては、医療ぬきでも生きられるのなら、それはその人にとっては100%なんです。信仰上の理由によって特定の医療行為を拒否する場合もあるでしょう。
それでもひきこもりは医療が「必要」でしょうか。それは専門家集団の共同主観ではないでしょうか。会社盲目(ある会社に長らくつとめていると、見えなくなることがある。元はドイツ語。)ならぬ専門盲目になっていやしないでしょうか。
ひきこもりは病気でも障害でもないと斉藤環さんはあちこちで繰り返し宣伝されています。で、なのにどうして医療の支援がほとんどの場合必要なのですか? それは精神科の医療ですか、他の医療ですか? 
もしもその専門というのが医療に限定されるとしたら、サンプルに偏りはないでしょうか。(医療機関に向いたグループに偏った観察の可能性。)
個人の選択にとっては、引きこもりという >悲惨の状態 から脱却したければ医療を使う/使わないの選択権が、周囲の圧力に抗して認められねばならないのではないですか? おっしゃることが支離滅裂ではないですか。新しく医療の専門家が、治療する患者を増やすための操作という可能性をわたしは疑っています。医者はラテン語ではドケーレ(だますもの)から来ています。イリイチは「医療マフィア」という表現を使った。永井明は「医局マフィア」という表現を「医龍」という医療漫画のなかで紹介しています。上山さんは専門家に対して幻想が大きすぎるのではないですか。
それから、わたしは>支援はすべて必要ないとは言っていません。ただし、どんな支援を「必要」とするかどうか、誰が決めるのかは大事な問題です。専門家だけが決めた場合、再び薬害エイズ事件の二の舞にならないとはかぎらないのです。

医療幻想については、イリイチ『脱病院化社会』、アンドレ・ゴルツエコロジスト宣言』を参照。健康幻想については、ルネ・デュボス『健康という幻想』を参照。
牧人司祭型権力の暴走については、武田 徹『『隔離』という病 近代日本の医療空間』
を参考にしました。


観照的生を圧迫する活動的生

>「ひきこもりは、放置すれば必ず社会復帰する」という主張は、実態を無視した
>無責任な憶測にすぎない。現実には、長期化すればするほど社会復帰は難しくな
>る。*5

わたしはそのような主張をしていません。というのは、ひきこもり自体の意味やイメージがないのです。そもそも社会復帰とはなんでしょうか。
もしも公的世界に参加することだとしたら、私企業に勤めるというのはプライベートな行いですね。みなが公務員・NPO・政治家などにならないといけないとでも????
ハンナ・アレントは、『人間の条件』にて、活動的生と観照的生を抽出・対比しました。公の場における活動的生は必要から解き放たれており、自由な活動だ。それは、古代においては観照的生活であり、市民として政治にかかわることだった。それは人間の条件だと彼女は言います。それに比して、家や会社など私的領域でなされる仕事は必要にしばられた奴隷的な仕事だ。それは古代は奴隷が、近代は労働者が担っていると指摘します。
もしもわたしの定義におけるひきこもりが、自由を手にしたいのならば、それはアレントによれば公での政治にかかわることでしょう。決して私的な企業における必要にしばられた活動を強いないでしょう。
さらに、日本や中国においては、公の世界での活動のほかに、世間から隠遁する文人の自由があります。政治からの自由ですね。
以上、整理すると、①自由な余暇による公の場での活動的生 ②私的な場における奴隷としての活動の生 ③政治から/世間からの自由のある文人的隠遁の生 の3つですね。
わたしは、ひきこもりの人たちは、3つめの政治からの自由は手にしていると思います。もしもそれを断ち切って、私的な企業での必要に縛られた労働に人を向かわせることが解放運動だというのならば、理解しかねます。選挙に出るのなら話は分かりますが。このへんについては、いかがお考えですか? 
また、会社=社会でしょうか? 労働=自由と言えるのか? これは大阪の不登校親の会の山田 潤さんもおっしゃっているのですが、子どもも主婦もお年よりも、みな社会人ですよ。違うでしょうか?

これは、政治思想家アレントの名も出てきたことからも察せられるように、政治的な問題です。ひきこもりという③をつぶし、かといって①をゆるさず、②の私企業における必要に縛れらた労働のみを「救済」とのたまう立場は、教育基本法「改正」によって自由な政治教育を圧迫する立場と共通しています。あるいは、その「純粋」さは、特定の政治勢力に利用されるでしょう。
それは、とりもなおさず、「働けば自由になる」という強制収用所のスローガンに通じるものであり、隷属への道なのです
アレントはこうした区別もしています。台所でオムレツを焼くのは「労働」だが、タイプライターで原稿を書くのは「仕事」だ、と。「労働」は人間が消費するものを作り出すこと。片や「労働」は、消費過程を超え、むしろそれに抵抗してつくりあげるもの。ということです。
で、彼女の区別に従えば、上山さんは労働ではない仕事をしていらっしゃる。それなのに他人には労働をするようにと奨励されるのですか?


2006・4・7 文章が長すぎるので一部割愛し、大意をそこねない程度に
手を入れました。