ワカキコースケのブログ(仮)

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『秋の理由』公開記念 福間健二ブックフェアat僕の部屋

2016-10-29 23:35:23 | 日記



福間健二監督の『秋の理由』の公開が、10月29日から始まった。いい映画なので、よろしければ。
http://akinoriyuu.com/


パンフレット(最近は公式プログラムとも言いますね)に、原稿を書かせてもらった。『秋の理由』のどういうところをいいなーと思い、そこから何を感じ、考えたかは、この中に大体、書き込んでいる。読んでくださるとうれしいです。

たまに頼まれるパンフレットの原稿を、僕は自然と、佐藤忠男マナーをめざして書く。
画面に映る魅力をまず語り、その裏に仕込まれた作り手の意志を、監督がどんな出自と背景の人かの紹介と合わせて確認していく順番。

ひらたく言うと、ふだんはそんなに映画に淫していない人の質問に答える気持ちだ。
(とてもよかった。でも、そういう感想でいいのかしら。ちょっと変わった映画だと思うんだけど、他の映画と比べてどうなのかな……)と多少心細い思いをしている人に、ウンウン、映画の今と昔をある程度俯瞰した上でも、あなたの感想は間違ってなんかいませんよ、と案内する感じ。
佐藤忠男先生はこの親切さが、半世紀以上も前からずっと上手い。少しでもあやかりたいと思っている。

少しだけ触れると、パンフレットでは主に、福間健二が詩人であり映画監督であることの面白さについて書いた。福間さんとは数年前から面識があるが、本人を知っていることをアドバンテージにした文章(カルチャー・ピープルの交流録エッセイ)に堕しないよう意識し過ぎて、少し肩に力が入っているかもしれない。

原稿の参考として、福間さんの詩集を何冊か読み、読み返した。そのメモを公開しておきます。ただし、原稿には結果としてほとんど反映されなかった。





『きみたちは美人だ』
1992 ワイズ出版

ああ、頂いたのはもう4年半前になるのか……。『秋の理由』の8年前。全体にポップ。恵子さん(※註:奥さんであり『秋の理由』プロデューサー)がデザインした装丁も明るくてかっこいい。

現代詩は理屈で読む必要はない、ただ、感じればいいんだ。
そう開き直り続けるのも自分には無理があって、「現代詩手帖」2009年2月号(創刊号の復刻が載っていた号)をめくる。藝大の松井茂さんも寄稿していた。
戦前までの詩は、いかに自分の気持ちを正直に書くか、だったらしい。しかし戦後は、
「詩はメタファーである」
異なったものがひとつに調和され、あらゆる連想を避ける。反対の性質を持ったことばが……。33Pの新国誠一の考え方、呑み込みやすい。福間さんがこうした戦後詩の解釈をどう捉えているかは分からないんだけど。

友部正人であり、ディランであり。そうか、この頃は、年下から影響を受ける(ブランキー・ジェットシティ)のが新しい回路だったのか。だからか、明るい感じがある。
そう、言葉ひとつひとつのチョイス自体は前の詩と比べても、あまり変わらない気がする。そこから表れるものの、掴みかたが変化しているのか。
しかし、ここにきて、ずっとおっかなびっくり敬遠してきた現代詩。次から次と、だなあ。


『秋の理由』
2000 思潮社

一語一語、なぜそのつながり? と、意味の納得を探したら、とてもじゃないが現代詩なんて読み終わらない。その、散文ではありえないつながりの間に、恒常の何かがある。読みながら、言葉からいったん意味をそぎ落とす作業が、脳のクリーニングになる。まったくの無駄、というなかに、豊かさがある。

友部正人を聴きたくなる。……と思う。

映画評を依頼して頂いての、事前トレーニング。しかし、そうか、文学から始まって、朗読、ヒップホップ、浪曲とつらつら考えていると、現代詩も思わぬところから来た。(※註:2015年末に仕事で大正から昭和にかけての作家のことをやり、久々にちゃんと日本の文学を読まなきゃ、と思っていた)

福間さん、この詩を書き、出版した時は、今の僕と同じぐらいの年齢だったのか。あがいている感じ、前に読んだ詩集に比べて、近しく感じられる。文字からではなく、その文字を選んだ気配からそれが伝わる。
しかし、言葉でそれをやっているまでは分かる。同じ作業を、具象のカタマリである映画でやっているのが凄い。


『詩は生きている』
2005 五柳書院

図書館で借りる。1990年代末、ウェールズに滞在した時期の報告も含めた、詩と詩集の評。
出てくるのは、知らない詩人ばかり。それがどんどん読める、おもしろい、というところに、僕の福間さんへの尊敬がある。と、福間さんらしい書き方になっている恥ずかしさ。

自分の中に入れて濾過させて、その詩のよいところを引きずり出す。そういう書き方。影響されたのか。もともと、僕の中でそういう書き方が性に合っていたから感応しやすかったのか。自分でも分からなくなっている。読みながらハッとなったところは別ノートにメモ。

これがこれこれで、こういうもの、それが現代詩です、と明瞭には言いにくいのは分かった。言葉だけを使って、目に見えない、それこそ言葉にしにくいものを掴まえ、定着させるルールの作業なのかなと。その時、その言葉から、持っている実用の意味をはぎ取る。いったん洗う。


『会いたい人』
2016 思潮社

出版社に注文したのが届いて、すぐに。映画評のこともあるし、西脇順三郎の詩論を改めて読んで、現代詩が怖くなくなりつつあるのも、ある。

福間さんの詩は、メタファーとメタファーのぶつかり合いでずっと行くけど、そう書く姿勢に、福間さんの現在は出てくる。なにかにつまずいては、まだまだ、とくやしさを堪えるようなところが。
人生派とナニ、とそう簡単には対照にできない。『秋の理由』(詩集のほう)で、特にそう感じた。今の僕と同じ頃に書かれたものだから。

『秋の理由』(映画のほう)のマスコミ試写のあと、サインをもらう。
打ち上げの席で、福間さんは未だに若い女性に恋したがる人だ、みたいな話題になったので、冗談半分で、「『おしり』という単語がいちばん多かった」と言ったら、「えッ、そうなの……!」と大真面目にギョッとした顔をされたので、申し訳なくて、おかしかった。
いちばん多かったかどうかはちゃんと確認していないけど、いちばん、プリプリとした鮮度で目に飛び込んできた単語、ということです。


以下は、やはり、パンフレットには反映されなかった下書き。


割とよく間違われがちなことだが、映画はジャンルではない。美術の一セクションでもない。存在自体がもはや環境のひとつだ。恋愛ものが好き、アート系はワケわからん、などの好みは個々にあっても、それはあくまで各論である。
映画抜きの世界の成立はもう考えられない。本、と一言ざっくり言うなかにドストエフスキーもダイエット入門も含まれ、カラヤンとアンビエイトが同じ音楽なのと同じ。
つまり、もはや巨大な文化ターミナルなので、読書が「読む」と同時に「見る」「触れる」等の感覚を動員するように、映画もまた「見る」だけでなく「読む」「聴く」が賑やかに行き来する場である。混雑は「思う」という出入り口によって自然と調節される。
こうした認識に極めて自覚的なのが福間健二なのだと、『岡山の娘』以来、ずっと僕は思ってきた。詩人だからではなく、



「詩人だからではなく」のあと、僕は何を言いたかったのかな。

下の写真は、近所のスナップ。撮れたあと、なんとなく『秋の理由』みたい、と思って。

 

 

 

 

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