藤山一郎 長崎の鐘

2017-08-09 10:10:26 | マスターお薦め曲
藤山一郎 長崎の鐘(あたらしき付き).


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1 こよなく晴れた青空を
  悲しと思うせつなさよ
  うねりの波の人の世に
  はかなく生きる野の花よ
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

2 召されて妻は天国へ
  別れてひとり旅立ちぬ
  かたみに残るロザリオの
  鎖に白きわが涙
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

3 つぶやく雨のミサの音
  たたえる風の神の歌
  耀く胸の十字架に
  ほほえむ海の雲の色
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

4 こころの罪をうちあけて
  更け行く夜の月すみぬ
  貧しき家の柱にも
  気高く白きマリア様
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る



1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島市に、そして、3日後の8月9日午前11時2分に長崎市にアメリカによって原子爆弾が投下されました。

ところで、この曲「長崎の鐘」は自分も原爆に被爆しながら献身的に被害者の救護にあたり、病床に斃れてからも、平和を希求する多くの著書を書き続けた長崎医大教授・永井隆博士を歌った曲です。

永井隆は、島根県松江市で生まれ、幼少期を同県三刀屋(みとや)町(現・雲南市)で過ごしました。長じて長崎医大に進学、卒業後、同大の助手になりました。

大変な秀才で、まわりの人たちは、彼はかならずや歴史に残る医学的業績をあげるにちがいないと、大きな期待を寄せていたそうです。

助手時代に兵役をすませ、同大助手に復帰した昭和9年(1934)、カトリックに入信し、そののち、キリスト教徒としての博愛精神が、彼の行動を特徴づけることになります。

昭和15年(1940)同大助教授に就任し、将来を嘱望されたものの、博士号を取得した昭和19年(1944)、その運命は突然暗転します。

物理的療法(放射線)科の部長として研究中に大量の放射線を浴び、白血病にかかってしまったのです。

翌年、余命3年と診断されましたが、そのまま研究を続けることで自分の職分を果たそうと決意しました。

そして、昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、長崎に原爆投下。

爆心地から700メートルしか離れていない長崎医大の診察室で被爆した永井は、飛び散ったガラスの破片で頭部右側の動脈を切断しましたが、簡単に包帯を巻いただけで、生き残った医師や看護婦たちとともに、被災者の救護に奔走しました。

永井はまもなく大量出血のため失神しましたが、気づいたのちも、さらに救護活動を続け、帰宅したのは翌日のことでした。

自宅は跡形もなく、台所があったとおぼしきあたりに、黒っぽい固まりがありました。そのすぐそばに、妻・緑がいつも身につけていたロザリオ(ローマカトリック教徒が使う数珠のようなもの)が落ちていました。

黒っぽい固まりは、焼け残った妻の骨盤と腰椎でした。

さいわい、2人の子どもは疎開していたので、無事でした。

妻を埋葬したのち、永井は医療班を組織し、引き続き救護活動に挺身します、・・・しかし、9月20日、出血が続いて昏睡状態に陥ったため、医療班は解散になりました。

翌昭和21年(1946)1月、教授に就任、研究と医療に従事するも、7月、長崎駅頭で倒れ、以後病床に伏すことになります。

苦しい闘病生活を送りながら、永井は活発に執筆活動を展開します。

同年8月『長崎の鐘』、翌23年(1948)1月『亡びぬものを』、3月『ロザリオの鎖』、4月『この子を残して』、8月『生命の河』、昭和24年(1949)3月『花咲く丘』、10月『いとし子よ』などを発表し、その多くが数万部から数十万部のベストセラーとなりました。

プロの著述家も及ばぬペースで彼に執筆を続けさせたのは、だいいちには平和を希求する思いを人びとに伝えたかったからでしょう。

それとともに、自分がいなくなったあと、2人の子どもが生きていけるようにしておきたいという気持ちが、彼を駆り立てたのではないでしょうか。

永井が闘病生活に入ってから、隣人や教会の仲間たちが力を合わせて、爆心地に近い上野町にトタン小屋を造ってくれました。

わずか2畳1間の家で、裏の壁は石垣をそのまま使っていました。

「石垣は紙片などを押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった」と彼は随筆に書いています。

昭和23年3月にできあがったその家を、永井は如己堂(にょこどう)と名づけました。家を建ててくれた人びとの心を忘れず、自分もその愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から採った名前だといいます。

彼は、そこに2人の子どもを疎開先から呼び寄せ、残りの短い日々を闘病と執筆で送りました。

苦難にめげず、平和と愛を訴え続けるその姿は、国内のみならず、海外でも深い感動を呼びました。

昭和23年10月には、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れ、翌24年5月には、巡幸中の昭和天皇の見舞いを受けました。

また、昭和24年5月と25年5月の2度にわたって、ローマ教皇庁が特使を見舞いに派遣しました。

そのほか、長崎名誉市民の称号を贈られたり、政府の表彰を受けるなど、数々の栄誉が彼にもたらされました。

しかし、運命は避けることができず、昭和26年(1951)5月1日、長崎大学医学部付属病院で逝去しました。43歳の若さでした。

さて、『長崎の鐘』という歌との関わりですが、これは、永井隆と親交のあった医学博士・式場隆三郎が、昭和24年にコロムビアレコードに働きかけたことによって実現したものと伝えられています。

余談ですが、式場隆三郎は、放浪の貼り絵画家・山下清の才能を発見し、世間に紹介した人として知られています。

コロムビアから作詞の依頼を受けたサトウハチローは、最初、ベストセラーに便乗したきわもの企画だと思って断ったそうです。

しかし、その後、永井から贈られた著書を読んで感動し、「これは神さまがおれに書けといっているのだ」と確信して、全身全霊を捧げて作詞したといいます。

それは作曲の古関裕而も同じでした。

そのメロディがすばらしいのは、短調で始まった曲が、「なぐさめ、はげまし……」のところで明るい長調に転じる点です。

これによって、悲しみにうちひしがれていないで、未来に希望をもとう、という歌詞のメッセージが強力に増幅されて伝わってきます。

サトウハチローも古関裕而も、数多くのヒット曲をもっていますが、あえて1曲に絞るとすると、世間に与えた感動の大きさという点で、この曲が最高傑作といってよいのではないでしょうか。

のちに藤山一郎は、アコーデオンを携えて永井を見舞い、その枕辺で『長崎の鐘」を歌いました。

永井はその礼として、次の短歌を贈っています。


新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘


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