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書評「ポケットに名言を(寺山修司)」

2017-07-15 21:25:18 | 書評(その他)


言葉の魔術師の寺山修司である。唐十郎は彼を魔王とよんでいた。そんな寺山の選んだ名言だから、そうとう癖があったり、謎であったり、人間の裏側をえぐり出していたり、そんな言葉たちが並べられている。ただし、ほとんどの場合、並べられた「名言」について寺山の解説はないし、元の文章から切り取られた「名言」たちの背景や脈絡がわからないので、なにを意味しているか分かりにくいものも多いのが難点だ。一度読んだらしばらく寝かしておいて、また読んでみたら味わいがわかってくるのかもしれない。

寺山は「名言」などは、所詮、シャツでも着るように軽く着こなしては脱ぎ捨ててゆくものだと言う。一方で、言葉は世界全部の重さと釣り合うこともあるだろう。そして、そんな言葉こそが「名言」ということになるのであると言いながら、次の言葉を紹介している。
『学生だった私にとっての、最初の「名言」は、井伏鱒二の
   花に嵐のたとえもあるさ
   さよならだけが人生だ
という詩であった。
私はこの詩を口ずさむことで、私自身のクライシス・モメントを何度のりこえたかしれやしなかった。
...言わば私の処世訓である。』
この詩は、寺山にとっては既成概念や常識に対する決別を意味しているが、すなおにとらえれば無常観を表しているよい言葉だ。

『心は一種の劇場だ。そこではいろいろな知覚が次々に現われる。去っては舞いもどり、いつのまにか消え、混じり合ってはかぎりなくさまざまな情勢や状況をつくり出す。 デイヴィド・ヒューム「人生論」』
現代の脳科学が明らかにした脳のはたらき、雑念が次々とかってにわき上がってくる状態「デフォルトモードネットワーク」を言い表しているようだ。

『ここがロドスだ、ここで跳べ! ギリシア故事より』
私が鬱屈としていた高校生時代、あきらかに私とは違う元気で生意気な同級生たちは、この言葉をスローガンに学園祭を開いた。きっとこの本から見つけてきた言葉なのだろう。

「忘却」という章の「私のノート」において、寺山はこう述べる。
『私には、忘れてしまったものが一杯ある。だが、私はそれらを「捨てて来た」のでは決してない。忘れることもまた、愛することだという気がするのである。』
私たちの常識的な感じ方をくつがえそうとする寺山らしい、これも名言じゃないだろうか。「忘れる」ことで思う、寂しさやはかなさを転じて、「愛」だと表現しているのである。

最後に寺山自ら作った言葉を紹介している中から二句を。
『なみだは人間の作るいちばん小さな海です 「人魚姫」』
『草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ 「歌集」』
こんな、純で切ない言葉も紡ぐ人だ。

ところで、寺山修司の言葉で思い出すのは、
『死ぬのはいつも他人ばかり』
もとはマルセル・デュシャンの言葉だそうでとても印象深く覚えているが、なぜかこの本には載っていなかった。
この言葉の解釈の仕方としては、単に、他人の死はたくさん見てきたが自分の死は一度も見たことがない、ということでもいいのだが、生きていると他人の死をたくさん経験しなくてはいけないので人生はさびしいものだ、というとらえかたもできる。私は、自分はいつになっても死なないなどと思っていると、とんでもないしっぺ返しを食らうよ、すぐ目の前に死が待っているかもしれないよ、という警鐘ではないかと思っている。

カルメン・マキ 時には母のない子のように

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