高校「倫理」の授業録

高校「倫理」の授業で喋った与太話集。

【第6回】ソクラテス②-ソクラテスの死

2017年06月13日 | ギリシアの思想


これは有名なダヴィッドの「ソクラテスの死」という絵画です。
一度は見たことがあるかな。
この作品は1878年に制作されたものですから、もちろん実際の場面を見て描かれたわけではありません。
でも、さすがダヴィッド、臨場感に満ち溢れていますね。
え?
ソクラテスは死刑になったって前回言ってたじゃないかって。
そうですよ。でも、古代アテネの裁判や死刑の方法は今と同じわけではない。
裁判はアテネ市民から選ばれた500人の裁判員と市民を前に弁明の演説を行い、多数決によって判決が下される。
そして、ソクラテスに下された死刑の方法は、ドクニンジンを自ら服用するものだった。
それにしても、たしかに悲しみに満ち溢れているけれど、この絵を見る限りは友人たちと別れを惜しめるなんて、ずいぶん悠長な死刑だよね。
実際、通常だったら判決後に即刻処刑されるところだったんだけれど、この時期にアテネ人はデロス島に宗教上の務めで船を送らねばならず、この期間は一切の処刑が停止されていたことから、ソクラテスは有罪判決を受けてから一月も牢獄で過ごすことができ、そのあいだ弟子たちと様々な問答を交わすことができたらしいんだ。
それにしても、裁判から死に至るまでのソクラテスの言動は、やっぱり奇々怪々だった。

まず、この裁判では裁判官に懇願すれば無罪評決を得られたかもしれず、有罪となってもポリスからの追放刑を申し出れば、それが選択されただろうと言われている。
だが、彼は死刑を受け入れた。
しかも、死刑執行前には弟子たちによって脱獄も準備されていた。ポリスの外に出てしまえば、それ以上の追及はなかったらしいんだ。
そうであるにもかかわらず、彼は死を選択したんだ。
なぜなんだろうね。
まぁ、そのことがソクラテスを哲学者の始まりとして決定づけたことなんだけれど、そのことを皆で考えてみよう。

裁判の発端はこうだ。
B.C.399年、ソクラテスは、政界の有力者アニュトスを後ろ盾にしたメレトスによって、①青年を堕落させた罪、そして②国家の認める神々を認めないという理由で告訴されたんだ。
青年たちがソクラテスの知性に惹かれたということは前回言ったよね。
そして、ソフィストらがソクラテスにこてんぱんに論破されたことで腹を立てていたことにも触れましたが、それを腹に据えかねた人々が訴えたことは疑いえません。
より率直に言いますと、これはソクラテスの哲学実践をやめろという圧力でもあったとみることもできます。
けれど、当のソクラテスは、自分が訴えられなければならないのか意味がわからないと主張します。

そもそも、ソクラテスが市民と問答を交わすために歩き回って行ってきたのは、「魂」に配慮するよう説きながら、無知の眠りに耽る市民を目覚めさせるためであり、それが引いてはポリス全体がよくなるために行ったことでした。
しかも、そのために彼が「知恵のある」と言われる人々を問答によって調べ上げたのは、「ソクラテスほどの知恵者はいない」といった神託を得てはじめたのであり、それは神を信じているためなのだというわけです。
むしろ、その結果、無知であることを暴露されたからといって、その怒りを自分に向けずに、ソクラテスに怒りを向け、裁判に訴える方が不当だと主張するのです。

こうしたソクラテスの反論は、『ソクラテスの弁明』で延々と記述されていますが、これはおもしろいですよ。
これは、もちろん弟子のプラトンによって記述されたものですが、これを読むと、つくづくソクラテスは「逆説の人」だなぁと思うんですよ。
ソクラテスは市民やポリスのために哲学対話に取り組んできたのであり、だからこそ、彼は一切金銭を受け取ることはなく貧乏だったと言ったかと思うと、老若や金持ちと貧乏人の区別なく問答に答えるけれども、彼らに知識を授けるなんて約束をしたこともないんだから、誰が善くなろうと善くなるまいと責任を負う筋合いはないと言ったりもしている。
公共心のある人なんだか、無責任な人なんだかわけがわかりませんが、これがソフィストの行為と真逆であることは言うまでもありません。
そして、それはけっして矛盾してはいないんですよ。

これは、僕ら学校の教師なんかやっているとよくわかる。
僕らは、いちおう何かの専門家として、知識を君たちに授けるということで報酬を得ている。
逆に、それを与えられなかったら、教師としての責任を問われかねないよね。
すると、どうなるかというとね、「教師は知識をもっていなければならない」という条件を崩すことができなくなってしまうんだ。
でも、ソクラテスから言わせれば、それは「無知にの知」に開けない自己拘束的な状態にある。
つまり、よくわかっていないくせに、無自覚に「知ったかぶり」をしながら報酬を得ているということだ。
それがソフィストであった
だから、それを崩壊させようとするソクラテスのような存在は脅威だったわけだよね。
カネも稼げなくなっちゃう。
でも、そうした自己拘束性から解放されることこそが真の知を探求する地点に立つことなんだ、というのがソクラテスの立場だった。
だから、先生たちだって「これをやれば、成績が上がる」式の責任からも解放されていなくてはならない。
これに縛られれば縛られるほど、頑なになりプライドばかりが高くなりがちになる。
そもそもソクラテスに言わせれば、「無知」な人間が何かを教えることに責任を負うことなどできるのかということにもなる。
逆に言えば、責任を負えない以上、金銭などもらえるはずもないよね。
これは教育者としては無責任な答え方になるかもしれないけれど、でも、これってどこか窮屈な教育関係を崩す視点にも通じるところがあるような気がするんだよね。
報酬からも教育責任からも解放されたところに、ほんとうの教育が成り立つんじゃないのかな、ってね。
いずれにせよ、ここにはカネと責任に縛られた交換原理から解放されることが、むしろ公共的な自由を実現するということが示されていることは疑いないでしょう。

そんな逆説的なことはまだまだある。
たとえば、ソクラテスは「本当に正義のために戦おうとする者は、…私人としてあることが必要なのでして、公人として行動すべきではない」とも言っている。
ふつうは、社会や国のために尽くす以上は、公の人間として行動せよと言われる。
けれど、彼はむしろ「私人」として行動せよというんだ。
これまた逆説的だよね。
これもなんとなくわかる気がする。
教師という公の立場で君たちに語ることは「立場上」制限されることもあるけれど、そこから解放されて一人の個人として語るならば、もっと自由に語ることはできるともいえるからね。
だから、「私人」として行動することが、逆説的にも公共のための行動を可能にする条件であるという指摘は、とても重要だと思う。
え、お前もそうなのかって?
うーん、できるだけその制限から自由に語ったり、行動したいと思っては言えるけれど、無制限にそうできるわけではない自覚はありますよ。
もっとも、教育関係と市民関係をごっちゃに議論してしまうわけにはいかないんだけれどね。
人が本当に自由に公共のために語れるということはどういうことなのか、ということをソクラテスの哲学実践を読むと、あらためて考えさせられるんだよね。

それゆえになのか。
彼が常識に反した弁明をすればするほど、聴衆は彼に反感を覚えてしまい、有罪か無罪かを問うた評決では僅差で有罪の評決結果であったものが、量刑を問う評決では死刑判決が大多数で可決されてしまいます。
既に述べたように、ソクラテスは従容として死を受け入れますが、これまた逆説的な行動ですよね。
なぜ、死を選んだのか?
今日はこの論点を皆で考えてみよう。それこそ問答法みたいにね。

弟子たちは、こんな不当な死刑判決に従う必要はないといって脱獄を進めるんだけれど、彼は頑として動かない。
この様子をプラトンは『クリトン』や『パイドン』に描いていますが、そこに一貫しているのはソクラテスの「不正を為すことは最大の害悪」であり、「不正を為すことは、不正を受けることよりも害悪である」という思想なんだ。
じゃあ、ここで「不正を為すこと」とはなんだろうね?

生徒:市民の裁判員によって下された死刑判決を拒否する行動でしょう

うん。でも、なぜそれが「害悪」なんだろうか?それって、言ってしまえば冤罪で死刑に処されるということじゃないの?

生徒:でも、必ずしも冤罪とは言い切れないんじゃないかなぁ。市民の代表500人が決めたわけだから、必ずしもソクラテスに罪がなかったわけではないんじゃないかな。だって、ソクラテス自身、自分は何も知らないと言っていたわけだし、同じ市民である以上、誰がもっとも正しい判断を下せるかは決められない。むしろ、「無知の知」という点において市民が平等なのだとすれば、同じ市民の判決を不当だと言って拒否することは、彼自身の思想に反するんじゃないの?

生徒:たしかに、無知という点では平等かもしれないけれど、それは多数派の判断が正しいということでもないんじゃないかな。むしろ、扇動されて集団が感情的な誤った判断に陥ることは十分にありうるし、ソクラテス裁判の場合もそうだったんじゃないの。

じゃあ、なぜ彼は逃げなかったんだろう?

生徒:やっぱり市民として法には従うことが「善く生きること」だと思ったんじゃないのかな。皆がみんな不当な判決だと言って逃亡しちゃったら、ポリスそのものの秩序が成り立たなくなっちゃうんじゃない。ソクラテス自身、市民やポリスのために問答法の活動を続けたわけだし、市民として生きるということが彼にとって「善く生きる」ことだったんじゃないかな。

生徒:じゃあ、それって例えば国家が間違った判断をして国民が殺されたとしても、市民として受け入れることが「善く生きること」だっていうの?なんか、それは納得いかないなぁ。

たしかに、国家に殺されたくはないよね。戦争経験を踏まえれば、国家によって愛国心を称揚しながら無数の若者たちの生命が犠牲にされたわけだから、今を生きるぼくらはそのことを肝に命じなければいけない。
でも、それを踏まえてあえて言えば、実はソクラテスはどうも「死」そのものは経験できないのだから、善いことなのか害悪なのか分からないと言っているんだ。
たしかにそりゃそうだよね。
僕らは死を恐れるけれど、死そのものは経験できないから、それがよいのか悪いのかは実はわからない。
だから、ソクラテスの場合「死」そのものが害悪かどうかは宙づりにされている。
むしろ、それより重要なのは、『クリトン』においては国家の法が「祖国(国法)は父よりも母よりもその他のすべての祖先たちよりも、尊いもの、厳かなもの、聖なるものであり、…だから人はこれを畏敬して、これを説得するか、或いはこれを命ずることは何でもなさねばならぬ」という文章だ。
『クリトン』は擬人化された国法とソクラテスの問答という形式で語られているけれど、これを読むと先祖や親以上に国家が権威あるものだ言っているよね。
じゃあ、やっぱり国法の命令が絶対かというと、「これを説得するか、あるいは命ずることは何でもなさねばならぬ」と言っている点に注目してほしい。
別の個所ではこう言っている。

「(脱獄すれば)お前は不正を犯すことになる、とわれわれ(国法)は言う。なぜなら、われわれに服従すると同意しながら、服従せず、また、われわれが何か良くないことをしているならば、そのことを我々に説得もしないからだ。われわれは命じることを何でもなせとただ乱暴に命令しているのではなくて…われわれを説得するか、それとも命ずることを為せといっているのだから」

国法が「説得せよ」というのは、やはり国法の不完全性を認めているからなのでしょう。
ただし、それを破壊するのではなく、あくまで「説得」という方法で「善きもの」にしていくことが市民としての行動であり、ソクラテスにおいてはその方法が問答法による哲学実践だったのでしょう。
これまた逆説的だけれど、国家を言論において解体する哲学の行為が、国家を善きものとして構築しうるという思想が、ここには見出せるわけです。
これは近代の社会契約論とか民主主義にも通じる論理ですね。

生徒:えー、でも、それで殺されることがなぜ「善く生きること」なのか意味がわかんないですけれど。

なるほど、今の意見についてはどう思いますか?

生徒:たぶん、ソクラテスはあえて国家に殺されることを公衆の面前にさらすで、自分が正しかったことを証明しようとしたんじゃないのかなぁ。その時に正しいかどうかはわからないけれど、きっと歴史が正しくさばいてくれるということを彼はわかっていたんじゃないの。だから、彼は哲学者として名を残せたのだし、おそらく逃亡していたら彼の存在は歴史に残らなかったんじゃないかな。だから、彼にとって「善く生きる」というのは、歴史的に長く生き残り続けることなんだと思う。

なるほどね。それは彼が「死」を害悪かどうかわからないといった思想とも矛盾しないよね。
でも、それは国法を守る市民としてよく生きるということと、少し違う気がするね。

生徒:そうですね。どちらかというと自分自身のために「善く生きる」という感じですね。だって、「魂への配慮」ってそういうことなんじゃないですか。周囲からどう思われようとも、自分で考え抜いて正しいと思ったらそれを貫き通すことは、必ずしも市民として生きることと一致するようには思えないんです。

おもしろい視点だね。
たしかに、ソクラテスはソフィストであるポロスとの対話において「世の大多数の人と不調和であっても、自分自身とは一人なのだから不調和でいることはできない」と語っているところがある。
皆さんはどう思いますか?市民として善く生きることと、個人として善く生きることは一致すると思いますか?

生徒:一致すれば一番いいのかもしれないけれど、難しいんじゃないかな。先生だって、公人として行動することと私人として行動することは別だって言ったじゃないですか。

そうでしたね。よく覚えていました。おそらくソクラテスの死を考える上で、最も難しいのはこの点なのだと思います。
実は、ソクラテスは裁判から死に至るまでの間に、それまで口やかましく語りかけてきたダイモンが一度も語りかけてこなかったと言っています。
これはどう意味だと思う?

生徒:前回の授業ではダイモンって、思考するもう一人の自分で、良心の声みたいなものじゃないかって言ったじゃないですか。だから、そこに自己矛盾が発生しなかたったから語りかけてこなかったんじゃないかな。つまり、善く生きてるぞ、自分って。自分で考えぬいたことを語ったんだから、それで説得できなかったら、それはそれでもう十分なんじゃないかって。もしかしたら、それを正しく歴史は判定してくれるから、もうそちらに委ねることで自分にできることはすべてやったと納得できたというのは、さっきの意見と同じです。

生徒:いや、それだけじゃないと思うよ。だって、結果的にソクラテスの主張が誤っていなかったと、後世の人々にこうやって教訓としても伝わっているんだから、単に個人の納得のいく生き方としてだけじゃなく、時間差をおいて無知にふけっているわけにはいかないという教訓を知らしめたという点では、やっぱりポリスのために利益をもたらしたともいえるんじゃないかな。

すべて、自分の納得がいく生き方だったということだね。
つまり、市民としても個人としても「善く生きる」ことを為しえたというこなのですね。
でも、いまの発言で一点気になることがあります。
彼自身は「善く生きた」と思ったかもしれないけれど、結果的には哲学者が市民への説得が失敗して死刑になってしまった
だとすれば、けっきょく哲学でもって国法を正そうとしたりしても無意味であるどころか、そのような行動はむしろ哲学を志すものにとってとても危険であるという悪影響を与えないでしょうか?

生徒:たしかに、哲学を学びたいとは思いませんね。

じゃあ、誰もソクラテスのように「アブ」として市民に警鐘を鳴らす存在はいなくなってしまうんじゃないの?

生徒:うーん、市民の中にもソクラテスに賛同した人々もいたんじゃないかなぁ。

でも、少数派だったら声を挙げられないかもしれないね。むしろ、それを黙らせる圧力を加えるかもしれない。

生徒:市民一人ひとりが哲学者になればいいなじゃないかな。そういう教育を行うとか。

なるほど。つまり、市民一人ひとりが無知を自覚して真理に目を向けようとすれば、結果的にソクラテスの臨んだ善い国家になるということだね。
たしかに、それはソクラテスの思想と実践とも一致する。
けれど、それによって彼は党の市民たちに殺されてしまったんですよ。
ここには、果たして市民一人ひとりが真理に目を向けようとすることなど可能なのだろうか、という問題が含まれていませんか?
市民一人ひとりが無知の眠りから目覚めれば、自ずとよい国家になると信じた哲学者当人が、市民に殺されてしまった!
この壮絶な矛盾をどう考えればいいのだろう!!

生徒:…

実はね、それを目の当たりにしていたのが、彼の弟子であるプラトンだった。そして、この哲学者がポリスにおいて殺されたという事実を深刻に考えて自らの哲学を展開した哲学者だった。
その深刻な問題を踏まえて、次回プラトンの哲学を扱ってみよう。
ジャンル:
学校
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