わじゅ カタル

山里・龍昌寺

歎異抄 18

2017-03-06 11:01:21 | 書簡集

 第11章の原文です。この章も長いので、区切りながらしましょう。

一文不通のともがらの念仏まふすにあふて、なんじは誓願不思議を信じて念仏まふすか、また名号不思議を信ずるかといひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。この条かへすがへすも、こころをとどめておもひわくべきことなり。誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて生死をいづべしと信じて、念仏のまふさるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは、誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。

 

 文字を読めない仲間に向かって、「お前はいったい御いのちの不思議な力を信じて念仏もうすのか、それとも南無阿弥陀仏と言う名の不思議をとなえることで救ってくださると信じて念仏もうすのか」と、言い驚かすばかりで、この二つの不思議な力のまことの意味を明らかにすることなく、人のこころを惑わすことについて。このことはよく注意して正しく理解しなくてはなるまい。弥陀はその願いの不思議な力によって、だれでもとなえやすくその名号を称えることで、浄土に迎えとろうと約束してくださりしものなのです。弥陀の悲願の不思議にたすけられて迷いの生死の世界から、出ることができると信じて念仏を称えることができるのも如来のはたらきであれば、すでに自力をこえでており、きっとほんとうの浄土に往生できるのです。これは誓願の不思議な力を信じれば、名号の不思議な力をもそこにそなわり、誓願と名号の不思議な力はひとつのものである。

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