わじゅ カタル

山里・龍昌寺

歎異抄 26

2017-03-15 11:26:39 | 仏教

 第13章原文のつづきです。

 またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかとおほせのさふらひしあひだ、さんさふらふとまふしさふらひしかば、さらば、いはんことたがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にてはころしつべしともおぼへずさふらふとまふしさふらひしかば、さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせとはいはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりてがいせざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじおもふとも、百人千人をころすこともあるべしとおほせのさふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。

 

 またある時、「唯円房は、わが親鸞の言うことを信ずるか。」と言われましたので、「はい、信じます」と答えましたところ、「では、言うことに決してそむかないか」と、かさねて問われましたので、「はい、間違いありません」とお答えしました。「ならば人を千人殺してきなさい。さすれば、往生かなうだろう」と言われました。それで、「お言葉ではありますが、このわたしのうつわでは、一人としても殺すことはできそうにはありません。」と申し上げたところ、「ではなぜ、親鸞がいうことに決してそむかないなどと言うのだ」と言われ、「なにごとも、もし千人殺せと言えば、すぐにも殺すはずだ。ところが、ただの一人でも殺すことができぬようなご縁がないゆえ、できないだけで、自分の心根がやさしいから、善いから殺さぬということではなく。殺すことなどできないなどと、思っていても、なにかのことで百人千人と殺してしまうことだってある。」と言われました。われらは、われの善いと思うてやっていることに、無意識的に善しと思い、悪しきことはただ反省するばかりで、その根っこにある弥陀の願いの不思議さに、ちっとも思い及ばないでいる。と言われました。

 ここのところ、親鸞さんの、言いたきこと。というのんか、理詰めでぐいぐいとせまるかんじに、迫力がある。この「われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて」ここは、いつも自分ではさわれぬところ、相手、他者がいて初めて問われる。とても痛いところです。

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