歎異抄 37

2017-04-01 15:14:19 | 仏教

 第16章原文つづきです。

 一切の事に、あしたゆふべに廻心して往生をとげさふらふべくば、ひとのいのちは、いづるいきいるほどをまたずしてをはることなれば、廻心もせず、柔和忍辱のおもひにも住せざらんさきに、いのちつきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますにや。くちには願力をたのみたてまつるといひて、こころには、さこそ悪人をたすけんといふ願不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力をうたがひ、他力をたのみまひらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もともなげきおもひたまふべきことなり。

 

 暮らし向きのすべてのことについて、朝夕に廻心することで往生をとげられるのであれば、人のいのちはいつ何時、終りを迎える事かわからない。それを廻心もしないで心の安心をえることもなく、人からのいやなことや、厳しきことにもたえることなきまま、死んでしまうのでしょうか。すべてのものを救ってくださるという願いは何のやくにも立たない事なのでしょうか。口では、本願の力を頼み申し上げると言い、心では悪人をたすけようという本願、なんとも不思議であり難いなどと、言いつつも、じっさいはやはり善人をこそ救うのだろうと。心底おもい切れぬものだからして、本願をうたがい他力をたのむおもいも弱くなる。それゆえ、自力のものがゆく辺地に往生するということになってしまう。これはもっともなげかわしきことです。

 今のわれらの暮しのなかでは、往生ということを探していない。求めていない、ようです。これはどうしてでしょうか。ひとつには、多くのものにとって死ということが遠い、というのでしょうか。暮しのなかで、まったくリアリティに欠けるものになっている。もちろん小学生が唐突になにものかに殺されたり、と相変わらず物騒ですし、あの津波地震によっての現実の奪われかたは、いまだに衝撃的な事なのですが。身近な人の見送り方が、ほとんど病院のこともあり、じっさいに見送る事が少なくなっているのではないか。それと、現実の暮らし向きが厳しいというか、せわしいということも大きいことでしょう。もうひとつは、往生することがなんなのか、かなりの年配者でも解らないでいる。どんなことをしても、死んだら終りだぐらいに思っている。いわゆる虚無がとても強いから、この現実をどう楽しむか。ということに知らぬまに汚染されている。したがって「よき人生」。などというこれまである種の共通した認識があったようなのですが、その『よき人生」という価値観が壊れてしまったのでしょう。その一方で、「死」ということを考え、怯えという経験もうすくなっているのではないか。で、その分、近くのものを失う事の喪失感は、これまであまりないことゆえ、その悲しみ、寂しさにどう向き合えばいいのか、さっぱり解らないで、独り穴ぐらに落ちてしまっていることも多い。

 ですから、いまのわれらは往生のもんだいより、虚無。いつのまにか、この胸の内にどっぷりと入り込んでしまっている虚無をこそ、見つめる必要があるのではないかとおもうのです。先ずはこのわれに巣食っている、虚しさの正体をはっきり見定めることが、たいせつだと。

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