理念と方法論を備えた経済活動を駆使して、理想世界を創造する!!@和井恵流

世界を変えるのは、宗教活動などではなく、正しい理念と方法論を持った経済活動なのだ。

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■中部経典 第百四十経『 界分別経(要素の解説)』その1.

2011年01月20日 01時35分12秒 | 釈尊は何を教えたのか?

この経典の内容は、次のようなものです。

釈尊が宿泊することになった陶工の家には、プックサーティという先客がいました。
彼は、釈尊を師と仰いで出家をしたのですが、まだ釈尊と会ったこともなく、
共に宿泊することへの同意を求めてきた出家者が、釈尊その人であることを知りませんでした。

その夜、熱心に瞑想を修行するプックサーティを見て、
釈尊は、自身の正体を明かさずに、彼に教えを説くことにしたのでした。


  比丘よ、人間というものは、
  六つの元素(六界)から成り、
  六つの接触の場(六触処)を持ち、
  十八の意の考察(十八意行)を持ち、
  四つのよりどころ(四住処)を持つ。

  その[四つのよりどころ]に安住すれば、妄想(歓喜の想い)が起こらない。
  妄想が起こらないとき、聖者は寂静と言われる。
  それゆえ人は、智慧を怠惰にするべきでない。
  真理を護持すべきである。
  捨断を修習すべきである。
  まさに寂静を修学すべきである。

  これが、『要素の解説(界分別)』の概略である。


仏教を、区別や差別のない「平等」を説いた「無分別の教え」だと思っている人たちがいるようです。
その人たちは、おそらく、大乗仏教の教え(思想)の影響を、強く受けているのでしょう。

──釈尊は、当時のインドの他の修行者から「分別主義者」だと言われていました。

そして、原始仏典を読んでみると、その教えは、多岐にわたってとても精密に区別され、分別されています。
是と非とを明瞭に区別し、善と不善とを明確に分別し、様々な要素についても、細密な分析がなされているのです。

しかしこれらは、考えてみれば「当たり前」のことなのです。

何故ならば、釈尊は、「思想」「論理」「倫理」を弟子たちに説いていたのではなく、
「苦を滅するためには、何を、どのようにすればいいのか」という「実践方法」具体的に教えていたのですから。

何を選び、何を取り上げ、何を捨てるのか。
何を為すべきで、何を為してはいけないのか。
何故そうすべきなのか。その理由・必要性・必然性は、何処にあるのか。
何を目的とすることが正しく、それを成就させるためには何が必要で、何を修習し、何を修学すれば良いのか。

それらを明確に提示できない、曖昧な(あれもこれもOK?)教えほど、役に立たないものはありません。

釈尊の教えには、そのような曖昧さが皆無なのです。

ただ、経典のその教えが、「何のために」それが分別されて説かれているのか、という意図(目的)理由(根拠)
その教えが、釈尊の教法の「全体図」の何処(どの部分)に位置しているのかを理解できないと、混乱してしまうのです。


  さて、比丘よ、『 人間というものは、六つの元素(六界)から成る 』と言ったが、それは何か。
  地の元素、水の元素、火の元素、風の元素、虚空の元素、識の元素である。
 ( 註:地界・水界・火界・風界・空界・識界のこと。これらを総称して「六大」とも言う。 )
  比丘よ、『 人間というものは、六つの元素から成る 』と言ったのは、これらについて言ったのである。

  また、比丘よ、『 人間というものは、六つの接触の場(六触処)を持つ 』と言ったが、それは何か。
  眼における接触の場(眼触処)、耳における接触の場(耳触処)、鼻における接触の場(鼻触処)、
  舌における接触の場(舌触処)、身体における接触の場(身触処)、意における接触の場(意触処)である。
  比丘よ、『 人間というものは、六つの接触の場を持つ 』と言ったのは、これらについて言ったのである。

  また、比丘よ、『 人間というものは、十八の意の考察(十八意行)を持つ 』と言ったが、それは何か。
  人は、眼によって色かたち(色)を見ると、
  歓喜のもととなる色かたちを考察し、憂悩のもととなる色かたちを考察し、棄捨のもととなる色かたちを考察する。
  また、耳によって音声(声)を聞くと、
  歓喜のもととなる音声を考察し、憂悩のもととなる音声を考察し、棄捨のもととなる音声を考察する。
  鼻によって臭い(香)を嗅ぐと、
  歓喜のもととなる臭いを考察し、憂悩のもととなる臭いを考察し、棄捨のもととなる臭いを考察する。
  舌によって味(味)を味わうと、
  歓喜のもととなる味を考察し、憂悩のもととなる味を考察し、棄捨のもととなる味を考察する。
  身体によって触れられるもの(触)に触れると、歓喜のもととなる触れられるものを考察し、
  憂悩のもととなる触れられるものを考察し、棄捨のもととなる触れられるものを考察する。
  意によってものごと(法)を知ると、
  歓喜のもととなるものごとを考察し、憂悩のもととなるものごとを考察し、棄捨のもととなるものごとを考察する。

  このように、六つの歓喜の考察、六つの憂悩の考察、六つの棄捨の考察を持つ。
  比丘よ、『 人間というものは、十八の意の考察を持つ 』とは、これらについて言ったのである。


昔のインドでは、物質を構成する元素(要素)として「四大(地・水・火・風)を立てていました。
これに「空」を加えると「五大」に、さらにそれらに「識」を加えると「六大(六界)となるのです。

そして、この「六大(六界)は何を意味しているのかというと、「五蘊」を、別の角度から表現したものなのです。

 色       … 地・水・火・風・空 … 物質 … 色(身)
 受・想・行・識 … 識         … 精神 … 名(心)

この「五蘊」「六大(六界)、あるいは「十二処・十八界」などの教えは、「一切」を別の形で表現しています。

一つの要素で表現すると「一切」となり、それは「触(接触)を縁として感受(感知)されるのです。
二つの要素で表現すると「名・色」となります。
三つの要素で表現すると「欲界・色界・無色界」となります。
四つの要素で表現すると「身・受・心・法(四念処)となります。
五つの要素で表現すると「色・受・想・行・識(五蘊)となります。
六つの要素で表現すると「地界・水界・火界・風界・空界・識界(六界)となるのです。

※さらに付け加えるならば、この六界を対象とした瞑想のプロセスが、そのまま、
 色界(四大)の瞑想と、無色界(空無辺・識無辺、無所有処)の瞑想プロセスになるのです。
 もともと「四禅定」「四無色定」は、そのままストレートに結びついておらず、それらは別々の瞑想法なのです。
 釈尊が二人の仙人から「無所有処定」「非想非非想処定」を学んだ時、そこに四禅定は含まれていませんでした。
 それぞれの瞑想に熟達した後で、初めて「四禅定」からそのまま「四無色定」へと移行することが可能になるのです。
 ですから「八解脱」の瞑想プロセスに「四禅定」は含まれていません(第一から第三までは別のプロセスなのです)

つまり、釈尊の説く「一切」とは、六処(眼・耳・鼻・舌・身・意)で認識・認知できる全ての対象のことなのです。
それらは「我」についての認識であり、(物質)に関わる領域が拡大すると、それは「世界」の認識へと変容するのです。

それら(一切)を、私たちは「触(接触)を縁として感受(知覚)します。

そして、六処(眼・耳・鼻・舌・身・意)の各処(それぞれ)に生起した感受作用(知覚作用)に対して、
好感反応(歓喜)や、悪感反応(憂悩)、さらにその二つの反応を共に回避(棄捨)するという、三種類の考察がある、
…と、釈尊はプックサーティに教えます。そしてここまでが予備知識(事前説明)となって、いよいよ本題に入っていくのです。





  比丘よ、『 人間というものは、四つのよりどころ(四住処)を持つ 』と言ったが、それは何か。
  智慧というよりどころ(慧住処)、真実というよりどころ(諦住処)、捨断というよりどころ(捨住処)、
  寂静というよりどころ(寂静住処)である。
  比丘よ、『 人間というものは、四つのよりどころを持つ 』と言ったのは、これらについて言ったのである。

  そして、『 それゆえ人は、智慧を怠惰にすべきでない。真実を護持すべきである。
  捨断を修習すべきである。まさに寂静を修学すべきである 』
と言ったが、それはどういうことか。詳しく説明しよう。

  比丘よ、まず、人が智慧を怠惰にしないとはどういうことか?

  六つの元素は、地の元素・水の元素・火の元素・風の元素・虚空の元素・識の元素であるが、
  では比丘よ、地の元素とは何か。

  地の元素は、内部にあるものと外部にあるものとがある。
  比丘よ、内部の地の元素とは何か。
  それは、各自の内にすでに取り入れられている粗くて堅いもの、すなわち、頭髪・身体の毛・爪・歯・
  皮膚・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜・脾臓・肺・腸・腸間膜・胃の内容物・大便である。
  また、これ以外でも、各自の内にすでに取り入れられている粗くて堅いものは何でも、内部の地の元素と言われる。

  そして、内部の地の元素であれ外部の地の元素であれ、地の元素であるものを、
  『 これは私のものではない、これは私ではない、これは私の自我ではない 』と、
  正しい智慧によってあるがままに見るべきである。  
  そのように、地の元素を正しい智慧によってあるがままに見て、人は地の元素を厭い、地の元素への執着から心が離れる。


この「正しい智慧」とは、対象を「無常・苦・無我」と観ずる「明らかな智慧」のことです。
そして、「五蘊無我」の教えのときと同じように( 五蘊=六大=一切 なので、同じというのは当然なのですが)
『 これは私のものではない、これは私ではない、これは私の自我ではない 』と観て、対象を厭うことで、心が離貪するのです。

 ①対象を、明らかな智慧によって「無常・苦・無我」と観ずる。
 ②さらに『 これは私のものではない、これは私ではない、これは私の自我ではない 』と観ずる。
 ③これらの観法を徹底させると、対象を厭うことで、心が(執着から)離貪する。

これが〈 厭離 → 離貪 → 解脱 〉というプロセスの、具体的な「実践説明」になるのです。

ここで、「智慧」とは何かについて、少し説明します。

例えば、目の前に「半分の水」が入ってるコップがあるとします。これを、

 ①「半分も水が入っている」と観ることもできます … 歓喜(これを現世ではポジティブ思考と呼ぶのです)
 ②「半分しか水が入っていない」と観ることもできます … 憂悩
 ③「水がちょうど半分入っている」とそのまま観ることもできるのです … 棄捨

仏教では、①に傾いている心に、真逆のベクトル②を利用して修正を加え(中和させて)、③へと移行させるのです。

楽器の弦を例にすると「緩みすぎている」ならば、それを「「引き締め」て、調律が整ったところで「止める〈手放す〉

「苦の滅尽」目的として、これらを正しく行う(選択する)ことが「智慧」なのです。


  では比丘よ、水の元素とは何か。

  水の元素は、内部にあるものと外部にあるものとがある。
  比丘よ、内部の水の元素とは何か。
  それは、各自の内にすでに取り入れられている水や水性のもの、
  すなわち、胆汁・たん・膿・血液・汗・脂肪・涙・脂・唾・鼻汁・関節滑液・尿である。
  また、これ以外でも、各自の内にすでに取り入れられている水や水性のものは何でも、内部の水の元素と言われる。

  そして、内部の水の元素であれ外部の水の元素であれ、水の元素であるものを、
  『 これは私のものではない、これは私ではない、これは私の自我ではない 』と、
  正しい智慧によってあるがままに見るべきである。  
  そのように、水の元素を正しい智慧によってあるがままに見て、人は水の元素を厭い、水の元素への執着から心が離れる。


この後さらに、

a.「火の元素」…これは、人を熱くするもの、人を老化させるもの、人を燃焼させるもので、
   人が食べたり、飲んだり、噛んだり、味わったりした物を正しく消化させるものである、と説明されています。

b.「風の元素」…これは、上に行く風、下に行く風、腹の中の風、
   内臓の中の風、手足などの各部分を流れる風、出る息、入る息であると説明されています。

c.「虚空の元素」…これは、耳孔、鼻腔、口腔であり、
   人が食べたり、飲んだり、噛んだり、味わったりした物を正しく飲み下させるもの(食道)、
   人が食べたり、飲んだり、噛んだり、味わったりした物を留めるところ(胃腸)、
   人が食べたり、飲んだり、噛んだり、味わったりした物を下方に出させるもの(肛門)であると説明されています。


そして、内部であれ外部であれ、それらの元素であるものに対して、

  『 これは私のものではない、これは私ではない、これは私の自我ではない 』と、
  正しい智慧によってあるがままに見るべきである。  
  そのように、それらの元素を正しい智慧によってあるがままに見て、人はその元素を厭い、その元素への執着から心が離れる。


──その時、最後に残っている「意識という元素」はどうなるのでしょうか?



後半では、初転法輪で説かれている「三つの渇愛」から離れるプロセスが詳しく説かれているのです。


(つづく)

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