日生わが町

  郷里・備前市日生(ひなせ)町の今とこれから、心に刻まれた記憶を、浮かぶままに書いてゆきます。

「日生カキ祭り」 冬イベントのトリ

2009年02月18日 | Weblog
 2月22日(日)に、日生のカキまつりが開かれる。

 岡山県内のカキ産地や、県北の地域などでも、冬になるといくつかの「カキまつり」・「特産品フェア(カキ・魚介類も含む)」が開かれる。
 それぞれに、地域の独自性を打ち出しながら、全体で「岡山カキ」として、先進の広島カキとその質や量を競い合っている。

 日生のカキ祭りが、県内でのこの季節のトリとなるのかどうかは、定かでない。少なくとも、日生で行われてきたいくつかの冬イベントの、締めくくりとなるものだ。
 どのイベントも、回を重ねながら魅力と実績を積み上げてきて、どれも県の内外から多くの人出を呼んでいる。

 冬は、何といってもカキが主人公となる。この冬は久々に冬らしい冷え込みもあり、今年のカキは、近年ではもっとも良質のものになったという。
 カキ祭り当日は、日生港の五味の市を中心に、焼きカキのサービスなどの他、工夫を凝らした出店などもあるようだ。

 小さな町である日生では、住民のための駐車場も充分には確保しにくい状況で、イベントのためにかなりの駐車場所を設けているが、家族連れで出かける人は、列車やバスを利用する方がゆっくりと楽しめるだろう。
 駅やバス停から歩いても、15分程度で行けるし、町を散策するのにもさほどの時間は掛からない。港と島と、遠く正面に小豆島を眺められる絶景の丘もあり、くたびれない程度に半日を楽しむことができる。

 むろん、日生にはカキ以外の海の幸もふんだんにある。
 私の実家も、JR日生駅から五味の市への道沿いに寿司・割烹「はましん」をやっている。
 旨いものを求めて出かけてみようと思う人には、イベントの日に限らず、「一度といわずにまたおいで」と言いたい。

 日生の町を少し離れて住む暮らしが永くなった私には、こういう機会がある度に、人に勧めるばかりでなく、自分でも出かけて行きたい想いを抑えがたくなる。
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「日生の方言」の出版が、元日に記事になった

2009年01月06日 | Weblog
 地元紙「山陽新聞」に、私の『日生の方言 岡山弁の異端』を出版したことでの記事が載った。
 暮れ近くに、女性記者が取材に来たもので、掲載は年を越したなと思ったが、元日に載るとは思わなかった。年初に、炬燵でくつろいでいる人がこの記事を目にする機会は、かえって多くなったのかも知れない。

 「見たよ」と言う人が、元日以来毎日何人も居る。そのことを、素直に喜んでいる。
 これまでに、本の中身について助言をくれた人もあり、やはり、書いたことはそれなりに意味があったと考えている。

 どの地域の方言でも、時とともに使われなくなったり、「共通語」と溶け合ったり消えていったりするのは、食い止めようがないらしい。
 保護が目的で始めた仕事ではないし、それが方言研究の最善の道だとも思わない。今は、自分が生まれ育った地のことばを「そのままで」発表していくこと、そこから生まれてくるものを見つめるときだと思う。

 日生の民謡・わらべ唄は、かなりまとまってきているが、もう一押しが必要と思える。ただ、方言と同様に、どこかで「踏み切るのは今」というときが来ると思う。もうその時期は来ているのかも知れない。

 「新聞読んだで」
 そう言われることに、書いた者としての喜びを抱きながら、そこからどう進み出すかを考えている。
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カキオコが元気。日生を元気にするには

2008年11月25日 | Weblog
 日生のカキが収獲期を迎えて、カキをたっぷりと載せたお好み焼き・カキオコを食べに、日生を訪れに来る人も多いという。
 先日は、倉敷の朝市で、日生のカキオコと津山のホルモンうどんの「対決」イベントがあり、双方の地域の外でも話題になった。こうしたイベントは、県内外で繰り返し行われているという。

 日生に、「カキオコ研究会」というグループがある。この会が中心になり、カキを入れたお好み焼きを、日生名物カキオコとして売り出す活動を始めてから、もう数年になる。「カキお好み焼きHP」という、会のサイトも開設している。
 この会の発足と、型にとらわれない活発な活動で、カキオコは日生発の地域グルメとして注目を浴び、テレビや雑誌などでもしばしば取り上げられ、認知度も増してきている。

 一過性のイベントを開いて人を呼び込む企画は、各地で見聞きするが、それを単発の打ち上げ花火で終わらせず、永続するものにしていくのは容易でない。
 カキオコは、カキが食べられる期間(英語で、Rの付く月)にほぼ限定されるので、暑くなってくると、いったんメニューから消えることになる。夏の間は、小エビを入れるエビオコに切り替えるというアイデアも出して、カキオコのない時期を埋めている。
 ただ、涼しくなり冷え込むようになれば、またカキの季節が戻ってくるから、年に一、二日といった一過性のものとは違った強みをもっている。

 日生では、目の前の海と密接に結びついた行事・イベントが多くある。魚介類を主にしたイベントになるのは、地理的にも歴史的にも、必然的なことだと思う。
 それらが一つにつながって、全体として日生という町の特色を強く押し出すことになるわけだから、今後も永く続いてゆけばと思う。

 こうしたイベントや名物メニューがあって、外から大勢の客が来ても、その恩恵を受けるのは一部の店や人だけだという見方もあるが、そうとばかりはいえない。
 カキオコや、消防団による日生港での放水合戦など、それを目当てに来る人たちは、「見た、食べた」だけで終わって帰るとは限らない。小さい町だが、散策したり、ひと休みしてくつろいでいこうという人も少なくないだろう。
 日生へ行ってみると、他にも見るものや食べるものがあるし、島では海水浴場やミカン狩り・果物狩りができ、民宿もある。年間を通して、イベントの時に限らず訪ねてみようと思う場所は少なくない。また、そう思えるような場をつくり出すことも、必要だと思う。

 人口の半数を超える数の客が来たとき、日生に足りないのは駐車場である。行事などない通常でも駐車場は不足しているから、イベントや週末の混雑ぶりは尋常でないだろう。新しく造ろうとしても、ほとんど限界にきているようにも思えるが、来客には列車やバスなどを利用するよう、繰り返しPRすることも欠かせない。
 寒河地区などに土地を見つけて駐車場を新設し、町がそこからイベント会場などへシャトル・バスを走らせるなど、まだ探せば策はあるのではないだろうか。

 昔からの商店街などで、シャッターを閉じたところも少なくないことが、ずっと心に掛かっている。
 戦後の合併で日生町になった寒河地区などでは、イベントも少なく、外からの客の訪れる機会が少ないように思える。旧日生地区の方に賑わいが集中しているのを、「仕方ないこと」としてすませてよいものかどうかも、町全体の問題として考え直す時に来ているのではないか。
 再合併によって、備前市となった日生町にあって、今になっても日生と寒河の間に「一つの共同体」という一体感があるとはいえないと聞いている。備前市日生町という一つの町内にある住民として、共に生きていく道を一緒に探すことも、今という時期だからこそ大事だといえよう。

 町外に住む私に、今すぐこれという即効力のある妙案は浮かばない。
 町に中に、「これからの日生を考える会」といったものを立ち上げて、町全体のこと、産業・教育・福祉・地域ごとの課題などを、自由に、楽しく語り合っていく機会を作ってはどうだろう。これは、前々から考えていたことであり、すでに町ぐるみで実行している自治体もある。それらを参考にしてよいのではないか。

 小中学生たちが、自分たちの住んでいる地域を「探検」してみれば、それまで気づかなかった「発見」が、必ずあるだろう。
 私が子どもの頃には、路地という路地の隅々まで駆け回っていた。子どもの居ない家の中までも、なぜか上がり込んだ記憶がいくつもある。時代が違ってきたといっても、自分たちが暮らす地元を見直すことからでも、始められるのではないか。
 大人たちにとっても、同様に足下の町をあらためて見つめ直し、できることはないかを語り合うことは、無駄ではないと思う。

 「日生わが町」でも、思い付くことをいくつか挙げてきたが、あくまでも外からの提言でしかない。町の住民自身が、自分の町のこれからを考え、実行するのが一番であるのは当然のことだ。
 漁協がすすめている藻場の再生や山での植林、NPO「ちゃてぃず」の町内での活動など、町内での先進的な取り組みの例もある。

 これからも、日生の今とこれからについて、書いていくつもりでいる。そこから、小さな何かが生まれることもあるのではと、ひそかに期待しながら。
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「日生の方言 岡山弁の異端」を出版しました 【転載】

2008年11月12日 | Weblog
 【これは、『方言・音声研究』第1号(方言;音声研究会 2008.9発行)
に掲載したものを、転載しました。】

 八月に、『日生の方言 岡山弁の異端』を、手帖舎から出版することができました。
 私の郷里、岡山県和気郡日生(ひなせ)町(現、備前市日生町)の方言をまとめたものです。ここでの「日生」とは、戦後合併した福河村(現在の寒河・寺山地区)を除く、旧日生地区本土と島とを指します。〔大多府島だけは、歴史的経緯から岡山弁の地域です〕

○本書の内容と、表記上のいくつかのこと
 ・取り上げた項目・語彙数は、1,700余りです。
 ・項目は、五十音順になっています。
 ・語彙の収集は、大半が自分の使っている言葉、知っている言葉です。「ア行」から順に、抜け落ちがないよう拾い上げてゆく方法で書き出しました。家族や知人に尋ねたり、町の人たちの雑談の中から、「これもあった」とメモすることも度々ありました。

 すでに刉行されている方言語彙集その他、町誌や日生の民俗調査記録などの記述の中から、未収録のものや、古くから言われてきた方言を見つけたこともあります。
 漁業関係の語彙や魚介類の名前などは、漁師から魚屋になった父などから聞き取りをして、かなりの収穫がありました。
 ・見出しの表記は、現代仮名遣いを用いました。〔父=おとう。オトーとは書かない〕。
 例外として、「う」をそのまま「ウ」と発音する場合は、備考欄で指摘しました。
 ・アクセント表記は、傍線式を用いました。傍線は、高低のうち高い方だけに付けました。〔一音の語の場合は、低音であると示すために下線を付したものがあります〕。
 ・意味の記述や例文作成は、日常馴染んできた言い方を为にし、古典(歌舞伎や能・狂言なども)での使用例などは手許の古語辞典と照合しました。予想外に多くありました。
 ・「備考・用例」の欄をもっと広くしたかったのですが、これも思うに任せませんでした。

○本書作成の動機と経緯
 ・「日生方言集」を編もうと決めたきっかけや、刉行までの経緯などは、「まえがき」と「あとがき」に述べていますが、その若干を書き出してみます。
 1.岡山県の单東の隅、兵庫県赤穂市と境を接する小さい町の、その中でも町村合併前の旧日生地区のことばだけが、岡山弁といわれる方言の特徴とは著しく異なっているのはなぜだろうと疑問を抱き、とにかく日生ことばを集めようと決めたのが始まりでした。
 2.18歳で事故のため障害者となり、自ら出向いて聞き書きや語彙の収集をすることが困難になったのと、様々な疾病や、自身の怠慢のため、空白の年月の方が長くなり、30年以上を経てようやく1冊にまとめることができました。
 3.まとめ終えてみると、一段落した喜びはむろんありますが、それ以上に、見えてきた今後の課題といえるものがあるのを、思い知らされています。

 (見本。 本書70頁の上1/3強)
   … … … … … … … … … … … … … … … … … … … … …
 語 彙  アクセント    共通語       同義語   備考・用例

チヌ     ̄_     (魚)クロダイ

ちばける  _ ̄  ̄  ̄  ふざける。      ちょこでる     ちばけな=ふ
                じゃれる       _ ̄  ̄_   ざけるな。た
                                     わ言を言うな
                                     嘘を言うな

ちや    _ ̄     血                     ちやがでた=
                                       血が出た

ちゃあう   ̄  ̄  ̄   違う           ちやう     ちがう→ちや
                            _ ̄  ̄    う→ちゃあう

ちやい   _ ̄  ̄    血合い(魚肉の)

チャッチャ _ ̄  ̄    型発動機船               エンジン音
                                  (チャッチャ)から
                                   チャッチャ【淡】
                                     ̄  ̄  ̄
ちゃっちゃと _ _ ̄_   さっさと。             ちゃっちゃと【淡】
                 てきぱきと              _ _ ̄_

   … … … … … … … … … … … … … … … … … … … … …

 ・淡路島の岩屋から移住してきたという言い伝え(そう記述した資料もあるという)など、確かめたいことがより具体的に見えてきています。
 ・瀬戸内海に面した漁村や島々に残る方言の中に、日生方言と共通するものが散見され、可能な限り地元の資料に当たる必要があるという気持ちが、強くなってきています。
 ・方言語彙を収集する過程で、語彙の珍しさを追うだけでなく、アクセントをもきちんと調査する必要があると気づかされました。アクセントを明記した方言集が意外に尐ないことも知りました。あれかこれかでなく、語彙とアクセントとは同時に調査をすすめるべきだとも感じています。

 一冊の小さな記録の出版から、見えてきたものや学ばされることがらが实に多いと判ったことも、もっとも大きな収穫の一つといえるかも知れません。
                        2008年9月9日

 『日生の方言 岡山弁の異端』手帖舎刊 2008年8月4日発行
   定価 1200円(税込)ISBN978-4-88743-290-1 A5判 121頁+まえがき+あとがき
  手帖舎(〒700-0845 岡山市浜野3-2-4-101 電086-225-4849 fax086-261-1164)
  取扱書店:新岡山書籍 http://shin-okayama.com/ ほか、全国書店で

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『日生の方言』が新聞で紹介された

2008年10月20日 | Weblog
 刊行した『日生の方言 岡山弁の異端』手帖舎刊 は、日生の人たちを初め、少しずつだが手に渡り、読まれている。

 10月9日の「毎日新聞」岡山版「人・言・サロン」で取り上げられ、インタビュー形式の記事になった。カラー写真付きで。
 見出しは、『日生方言は岡山弁とは違う』。
 岡山弁との違いを強調するのがこの本の目的ではないが、日生町の旧日生地区という狭い地域の方言が、岡山弁とはまったく異なるものであるのは事実である。

 記事は、私が話したことをかなりよくまとめてあると思う。こういう形で紹介されるのは、地方からのささやかな出版を実現できた本の書き手としては、光栄だし、嬉しいと思う。
 身内へはもちろん、友人・知人たちへも、記事のコピーをできるだけ送って、読んでもらっている。

 この「人・言・サロン」は、インターネットで検索できる。「毎日jp」を開き、下の
方の「地域ニュース」の項の「岡山」に、「人・言・サロン」がある。ここでは写真はなく、記事だけである。

 一冊にまとめて刊行してみると、読んだ人からの提言も含めて、新たに見えてきたことや、さらに調査すべきこと、調べたいことがいくつも見えてきている。
 まとめつつある「わらべ唄」なども、私と同年配の人たちの記憶も薄れてきており、抜け落ちた個所があるように思える。
 もう一世代上の人たちを訪ねて、直接聞き取ってきたいと思うが、ままにならない。
 さらには、淡路の岩屋まで出かけて、一週間ほど民宿に泊まり込んででも、土地の人たちからたっぷりと聞き書きしてきたいという望みを捨てきれずにいる。遠くないいつか、ぜひにという気持ちだけは持ち続けたいと思う。

 日生のこと、日生のことばのことなど、まだまだ調べ尽くしたという日は来ない。
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「日生の方言」が本になった

2008年09月23日 | Weblog
 『日生の方言 岡山弁の異端』浜野博著 手帖舎刊 1200円

 ぼつぼつとまとめてきた日生の方言の方言をまとめて、8月に上記の本になって出版できた。年数が掛かりすぎたが、今という時期にこうして世に出すことができたことで、「間に合って良かった」という思いが強い。

 私は中学生の頃、まだ福河村(現在の寒河・寺山地区)との合併もしていない時期の日生地区の方言が、なぜ岡山弁といわれる県下の大半の地域と大きく異なっているのか、という疑問を抱いた。
 同時に、同じ中学において、島の中でもっとも沖にある大多府島の人だけが、その岡山弁を使っているのかなど、日生方言に対する関心を強くしていった。

 高校生のときに事故で倒れ、障害者となって郷里の日生へ帰ってきて、ほとんど自宅に籠もって暮らすしかなくなった。
 自分もずっと使ってきた地元の方言を集め、これをまとめるのに、外に出て歩き回れないのは不便ではあるけれど、まったく不可能というのではなかった。時間だけは、多すぎるほどにあった。

 方言集は、各地で出版もされており、日生でも冊子になって出ている。それらをも参考にしながらまとめを続けたが、珍しい言葉を集めて、その意味を簡単に述べただけのものが多く、物足りない想いは消せなかった。
 方言調査に関して専門的な知識をもつこともなく、何が正しいやり方なのかも解らないままの、我流の手探り状態での「方言採集」だった。

 介護してくれていた母親が老いたために、日生を離れて暮らすことになり、もう30年になろうとしているが、日生という郷里と、そこの言葉や暮らしなどを想う気持ちは、年と共にむしろいっそう強くなってきている。
 方言の採集とまとめに、完全ということは望めない。それならば、まだ心身ともにそれが可能なうちに、一冊の本にして出そうと考えた。多くの友人・知人からの支えが後押ししてくれて、今年になって県内の出版社から出すことが決まった。

 ことばのすべてにアクセントを付けることと、できる限り「用例」を載せることだけはしたいと思った。古語辞典などの他に、日生のそれとまったく同じことばと意味とが使われている古典(歌舞伎・能・狂言・物語など)を探して、それも「備考」として加えた。テレビで歌舞伎の中継を見ていて、「こんなところでも言われている」と知らされることが再三あったりして、それも思いがけず楽しいことだった。
 本の体裁との関係などから、「用例・備考」の欄が短く窮屈になったのが悔やまれるが、これは、また別の機会に、違った形でまとめられはしないかと考えている。

 全国どこの書店でも注文できるが、店頭にいつも並んでいるという具合にはゆかないので、近くに書店がなかったり、早く取り寄せたいという人は、インターネットで下記の所へ注文していただければと思う。
  「新岡山書籍」のホームページ
    http://shin-okayama.com/
 「記事分類」の項の、「郷土」の欄に、『日生の方言 岡山弁の異端』が紹介されている。本の内容も、簡潔にまとめて紹介してくれている。
 新岡山書籍は店舗を持たない書店で、メールで購入を申し込むことができる。
 その際、本の郵送料金240円が必要になるが、書店から本を郵送するとき、払い込み方法(郵便振替・銀行振り込み)と、口座などを書いたものが同封される。
 購入申し込みは、同じホームページの「購入・連絡こちら」からできる。

 他に手段もないので、宣伝めいたことも書かせていただいた。

 手許には、「日生の民謡・俚謡・わらべ唄」をまとめたものがあり、もう少し整理できたら、これも出版したいと思っている。

 方言の語彙をまとめる過程で、アクセントの調査と分析などが重要であることを、先年知り合うことができた研究者から教えられた。以後、さらに多くのことを学び、調査の方法や初歩的な知識などの教示を受けている。
 遅すぎる「出発」といえなくもないが、何もやらないよりは良いという気持ちでいる。

 消えてゆく文化財を保護することだけを目的に、蔵の奥に仕舞っておくために本にするというのでなく、そこから郷土の歴史や、住民の暮らしの現在、将来のことまでを考えていく資料として活用されるなら、嬉しいと思う。
 あるいは、こういう本を基に、家族や知り合い同士の間で、「わが町」のことばや暮らしのあれこれが話題に載せられるなら、喜びはさらに大きいだろう、などと考えている。
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サワラが教える漁業と地球の行く末

2008年08月11日 | Weblog
 数年前、津軽海峡でサワラがよく獲れるようになったと報じられた。
 今年、日本海の沿岸、石川や富山などでサワラの漁獲高が急に増えたということが話題になった。
 そして、サワラの本場とされてきた岡山・日生では、漁獲量が日本海沿岸よりずっと低く、7月初旬の漁期の終わりを待たず、早々に出漁を止める漁船も少なくなかったという。 出漁断念の理由は、漁獲量の減少だけではない。急激な原油価格の高騰が、追い討ちを掛けた。「漁に出ても油代にもならん」とは、かなり以前から言われていたことだが、止むことを知らない油価の暴騰によって、船を出さず岸に繋いでいるほうが、赤字の額が多少でも減るという、つらい選択をするしかない状況に追い込まれている。

 岡山県漁連は、7月14日に県下の漁民が一斉に出漁を取り止めた。続いて15日には、、全国の漁民が一斉に一日休漁した。もろん、岡山県の漁民も加わり、二日連続の休漁となった。他の県では、一週間つづけて出漁を止めた所もある。
 全国から漁民代表が東京に集まって決起集会を開き、都内をデモ行進した。
 岡山県では、7月末に岡山市内でも集会とデモを行って、窮状をうったえた。

 こうした事態をうけて、政府は「漁民への、油価高騰分の補てんをする」といったんは口にした。だが、その直後に「直接の補てんは難しい」と言い出すなど、総理自身の煮え切らない体質と同様に、政府の腰がふらふらと定まらない。
 ちょうど岡山で漁民の集会とデモがあった日に、自民党内では「やはり、緊急に油高騰分への補助をする」という決定をした。これが、政府・与党内での合意になり、早々に実行されるかどうかを、きびしく監視しなくてはならない。いつまた腰くだけになるか知れないから。

 サワラが津軽海峡で獲れ、日本海沿岸で「豊漁」になったというニュースは、そのまま、瀬戸内での漁獲、とりわけサワラの本場として自他ともに認めてきた日生での、水揚げの激減となってはね返ってきている。

 日生漁協では、全国的にも先駆けてといってよいサワラ漁復活への取り組みを、何年も前から地道につづけてきた。
 サワラだけでなく、内海の魚たちの産卵場である藻場がほとんど消えていった中で、この藻場の再生に力を注いできた。採取したアマモの卵が波などで流されたりする試練を乗り越えて、ようやく藻場の定着と拡大にめどがついてきたという。
 県の水産試験場の協力も得て、内海漁業の再生と復活に光が見えてきたと、漁民らも口にするようになったその矢先の、この原油値上げの嵐だ。
 どこまでも、漁師たちへの攻撃は止むことがない。

 むろん、こんなひどい攻撃は漁民だけに向けられたものではない。そして、それをやってしまった犯人ともいうべきは、自然の力などではなく、すべて人間のしたことである。私もまた、その人間の一人であり、責任の一端を担っているという負い目を常に感じている。
 だからこそ、より巨大な財力と権力を持ち、責任の度合いもまた比べようもなく大きい者たちが、責任感も危機感も抱くことなく、さらにこの地球的規模の危機に乗じて、自分たちの利益ばかりを追い求めていることに、憤りを抑えることができない。

 海を仕事場として、そこで魚を捕って生きてきた漁師たちは、絶望などしておれないし、むろん諦めてなどいない。
 自分たちの手で定期的に海を清掃し、藻場の再生をつづけ、海の源である山の木を、森を生き返らせる努力をつづけている。

 私たちは、そうした努力を、漁民とその家族だけのものとして傍観することはできない。住民すべてにとって、生きていくための切実な問題であり、責務でもある。
 自分に何ができるだろうか。今、私はそれを考え続けている。
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日生の子らに、本を届けたい

2008年06月25日 | Weblog
 日生の実家で暮らしていた頃、自室で学習塾を開いていたが、石井桃子さん
の「かつら文庫」にならって、土曜毎に子ども文庫「とうげ文庫」を開いていた。
 「本はきらい」と言って、トランプやボウズめくりだけをして帰って行く子も居
たけれど、読み聞かせをしたり、時々は本を借りて帰るようにもなって、「本の
ある遊び場に」という目標には、ある程度近づいたといえるかも知れない。
 私が今の施設に入所して、塾も文庫も閉じたが、いつか帰って再開できると
いう可能性がないと判り、文庫にあった児童図書を、当時知り合っていた、日
生の島の分校で先生たちに、それぞれの勤務する分校へ持って行ってもらった。
 岡山市内で文庫を始めるという母親たちには、日生まで行ってごっそり持ち
帰ってももらった。その人たちは、障害児のために布絵本づくりをしている札
幌の「ふきのとう文庫」を紹介したら、自分たちもやりたいと言い、「岡山ふ
きのとう文庫」として、もう20年近く布絵本づくりの活動を続けている。

 日生へ戻って暮らすことができなくなってから、日生への私の想いはむしろ強
くなったように思える。『日生わが町』を書き始めたのも、そんな気持ちを表に
出す一つの方法でもあった。
 そんな中でも、日生の子どもたちのことが、いつも心に懸かっている。たまに
短い帰省をしたときも、近所や町の中で子どもの姿を見たり、声を聞いたりする
ことが、急速に減ってきているのを感じていた。子どもの数が少なくなったのも
事実だろうが、今居る子どもたちが、外に出て遊び回ったり、海岸に出て魚を
釣ったりする姿を、見ることがほとんどない。

 私は、漫画が好きだった。高校生になっても、弟の買う漫画週刊誌の漫画な
ども読んでいた。「鉄腕アトム」などは、少年雑誌でアトムが誕生するところ
からすべて読んできて、手塚治虫全集などは、今も宝物のように本棚にある。
 漫画が悪いのではない。「ワルい漫画」が悪いので、そんなゲテモノ漫画は、
今の時代ごろごろしている。その中で、大人も一緒に読みたい良質でしかも面
白い漫画も、沢山ある。それを見つけるのも、読書の楽しみの一つだ。
 漫画だけしか読まない、というのでなく、漫画も、絵本も、図鑑類も、児童小
説も、そして、読み進んできて大人の小説を読みたいと思うようになれば、どん
どん読めばいい。
 私は家に籠もって本ばかり読んでいると、親に叱られたものだが、「家でゲー
ムをやっていてくれれば、大人しくて安心だ」と親たち言うようになったのを見
ると、私はやはり首を傾げてしまう。

 時代が変わったのだ、という声を聞いても、そのまま頷く気にはなれない。勝
手にそうなってきたのではなく、「そうさせてきた」のではないだろうか。誰が
?もちろん、私たち大人が。
 ただ「本を読め」と言っても、「早よせえ」「勉強せえ」と言い立てるのと同じ
で、うるさがられるだけだろう。大人たちが、それなりの助けとお膳立てをする
必要がある。

 合併した市の、元の各市町に、中核となる図書館を造り、さらに、地域ごとに
その分館を置きたい。すべてに司書を置けなければ、ボランティアで子どもらに
読み聞かせをしたり、貸し出しの対応をする人を募ってやればいい。希望者
は、見つかるはずである。
 家で、親たちが週刊誌も読まず、寝転んでテレビしか見ないなかで、「本を読
め」「勉強しろ」と言うだけでは、子どもにも彼らなりの言い分が出てくるだろ
う。「大人は、外で働いてくたびれとるんじゃ」と言ってみても、子どもは「そ
れはもっとも」と納得して、勉強に読書に励むという具合にはならない。面白く
ない家を跳びだして、夜の町をうろつく方を選んでしまったりもする。

 まず容れ物を造り、その活動を充実させてゆき、図書館は楽しい場所、面白
いことのある所だと知ってくれば、子ども同士誘い合ってやってくる。
 以前、ポストの数ほど子ども文庫を、という合い言葉で、地域や家庭で小さな
文庫を造る活動が広まっていった。今もそれは継続しているのかどうか、情報
はあまり伝わってこないから判らない。だが、どこにでも本があり、読む喜び、
聞く楽しみがあるのを知らせていくことは、いつの時代でも大事なことだと思
う。

 岡山で借りた家で、週末毎に施設から通って塾をやっていた頃、そこに置い
ていた児童図書を、日生の商店街の空き店舗を使って活動を始めた「ちゃてぃ
ーず」に譲り、活用してもらっている。
 私の実家には、まだ子どものための本がかなり残っている。家の中に子ども
が居なくなったわが家では、本を手に取って開く者が居ない。日生で、地域の
集会所や過程に本を置いて文庫を開こうという人がおられたら、喜んで提供し
たい。

 図書館も子ども文庫も、「本のある遊び場」であり、「本のある溜まり場」にな
ればいいと思う。
 まず島も寒河もすべてひっくるめての日生に、そんな場所を作りたい。住民の
中から、言い出しっぺや、一緒にやろうという人たちが出てきて、本のある遊び
場が少しずつでも増えていってくれたらと願っている。
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「ほんもの」の放水合戦

2008年04月10日 | Weblog
 私が小学校高学年の頃だから、昭和27、8年のことだったと思う。
 現在、毎年2月の第一日曜に日生港で行われて、5000人以上といわれる観客で賑わう、消防団の放水合戦は、戦後の何年間かは今の場所でなく、東隣りの中日生港でやっていた。
 日生の消防団は、県下だけでなく全国的にも実力を認められており、競技会では何度も優勝旗を獲得していた。
 毎年2月に、小学校の校庭で「初出式」(「はつれいしき」と呼ばれていた)を終えた後、おそらく団員たちの労をねぎらい、同時に彼らの士気を鼓舞する目的で、放水合戦が始められたのではないかと思う。

 中日生港は、JR赤穂線日生駅の前にある入り江で、その頃は、まだ入り江の大規模な埋め立ては始まっていなかった。
 今の日生中学校の、校舎のすぐ北にある道路が、入り江のいちばん奥の岸だった。国鉄赤穂線もまだ走っておらず、海岸の道は今の線路の東、山にぶつかる辺りまでつながっていた。
 むろん、中学校も、私の実家の「はましん」や公民館などがある辺りも、すべて海だった。
 私たちは、この入り江の岸近くで潮干狩りをしたり、石組みの波止場などで魚釣りを楽しんだ。夏には、今は校庭になっている辺りで泳ぎ、泳ぎながら遠浅の改訂を足先で探って貝を採ったりした。

 この入り江の、西の海岸に沿った道路(中学の西側を中日生へ向けて走っている)が、、消防団の放水合戦の行われた場所だった。
 今の西栄町の一帯は、ほとんどが畑と草地であり、ゴミ処理場ができる前のゴミ捨て場もあった。
 道路の海際には、高さ1メートルほどの小さな波よけ堤防があった。海中には、岸から30メートルほどの所に竹竿が数本立ててあり、それぞれに「ほうろく」が吊り下げられていた。
 竹竿は3本か4本(東・西・南の各分団と、島にも分団はあったろうか)あり、岸から放水して、どの分団が先に「ほうろく」を割るかを競うのだった。

 低い堤防に上がった消防団長らしき人の合図で、放水合戦は始まった。
 各分団は、自分たちの的であるほうろくを目がけて、一斉に放水を始めた。水は、目の前の海に無限にある。
 記憶では、かなり短い時間で勝負がついた。一つのほうろくが割れて海中に落ち、岸では勝った分団の歓声と、見物の群衆からの拍手が湧き上がった。

 だが、そこから様子がおかしくなった。
 「水の中に石を入れた」という抗議が、他の分団から上がったのだった。取水ホースの口には、ゴミなどを遮断するようにカゴの底状になっているはずだった。
 小石や砂利を入れることができるのかどうか、私には分からなかった。今も分からないが。
 たちまち、大混乱になった。消防団員がもみ合い、取っ組み合いの喧嘩が始まった。
 堤防の上の団長が、大声で制止しているが、まったく効き目はない。
 放水中のままだったエンジンは回り続けており、地面に放り出されたホースの先からは、すごい勢いで水が噴き出し、道路の土を跳ねとばしていた。
 曲がったホースが、水の力に押されて真っ直ぐに伸びようとして、地上を大きく回り出した。その水が、堤防上で「止めえ!喧嘩は止めえ!」と叫んでいる団長めがけて吹き付けた。もしかすると、誰かが彼を目がけてホースの水を間近からぶつけたのかも知れない。 「わーっ!」と叫んで、団長が仰向けになって海に落ちた。潮が満ちていたので、砂地や岩に落ちて怪我をすることはなかったらしい。
 私は、その大混乱の始終を、かなり近い所から見ていた。
 ただ、その喧嘩騒ぎが、どのように治まったのかは、まったく思い出せない。おそらく、団長が海に転落したことで、うやむやのうちに終わったのかも知れなかった。

 それを最後に、この入り江での放水合戦は終わりになった。その年に始まったのであれば、一年だけで消えたことになる。
 その後、西隣の日生港に場所を移して、今のように源平の二手に分かれて、舟の上から相手を目がけて放水するようになったのは、いつ頃だったろうか。
 新聞では、「1950年頃から」とあるが、それは、あの中日生港で私が見た文字通りの「合戦」があった頃である。
 当時の事情や、日生港に映ってからの今の放水合戦に至る経過などを、機会があればそれらを知る人から聞きたいと思う。

 現在の、毎年2月の第一日曜、日生甚九郎市と同じ日に、日生港で行われている放水合戦を、一度現場で見たいと思う。
 毎年5000人は集まるという、厳冬のその日に、車イスで見に行くのは難しそうだ。今のところは、たいてい地元テレビ局のニュースで流れる映像で知るだけだが、そんなときいつも、少年の頃に見た「ほんもの」の放水合戦の様を、まざまざと思い浮かべている。
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大多府小学校が消える

2008年03月14日 | Weblog
    【復刊 第1号】

 日生諸島の中で最も南にあり、真南に遠く香川県の小豆島を望む大多府島
の小学校が、今春限りで閉校するという。
 昨秋、テレビ・ニュースでそれを知った。
 岡山県下でも独特の歴史や地位をもつ(と考えている)日生町の中でも、大
多府はさらに独自の性格を持つ島である。

 私の小学時代は、本土と島とはそれぞれの地元の学校・分校へ通ったの
で、中学生になって初めて、島の分校から来た子らとじかに接するように
なった。
 その中で、大多府島から連絡船で通ってくる子らは、他の島の子らとははっ
きりと違っていた。その理由は、はっきりしていた。使うことばが、私たちの
それとはまったく違うのだった。
 町から外へ出る機会が、当時は今よりずっと少なかったから、大多府島から
来る子らのことばは、外国語とまではいわないまでも、12歳の子どもには戸
惑うことばかりだった。
 「おめえ、どねえしょんで」
 「こけえけえ」
 など、純粋ともいえる岡山弁でしゃべる子らは、多数派である本土の私らが
たじたじとなるような、迫力があった。「きょとい(こわい)」とも思った。
みんな、私らよりも二つ三つ年上のように思われた。
 けれど、一緒に過ごす日が続いて、親しくなってくると、ことばは違っても仲よ
くなれる子が多くなっていった。

 夏休みには、島を巡回する連絡船で50分ほどもかかる大多府島へ、泳ぎに
行くこともあるようになった。
 にせ金づくりが隠れていたという伝説のある洞窟など、大多府には想像力を
かき立てるような場所や言い伝えが、いくつもあった。
 小豆島の山肌が意外に近く見える、大多府の南側は、それまで見慣れてきた
内海の奥まった入り江や海岸線と違って、はるかに荒々しい断崖で、そんな風
景にも惹かれた。外洋に面した海岸を知らない瀬戸内育ちには、驚きと魅力に
満ちた島だった。

 もっと後になって、江戸時代まで無人島だった大多府島へ、池田藩が役人な
どを移住させて、嵐のときの避難港として整備していった、などの歴史も知る
ようになった。
 岡山弁を話す地域から、藩主の命によって直接移住した人たちによって開か
れた島だから、今に至っても岡山弁の島であることも、納得した。
 毎年、何度も行ってみるということはできなかったが、私は大多府島に興味を
抱き、その歴史などを知るに連れて、この島がもっと好きになっていった。

 車イスの身になってからも、連絡船で何度か渡って行ったし、私の塾に来て
いた中学生らと、島の低い山の急な坂道を、彼らに押してもらって上り、島を
ほぼ半周したこともある。
 にせ金づくり伝説のある「勘三郎の洞窟」も、台風か何かの強風や高波で、
半ばほどが天井から崩れ落ち、奥行きが浅くなっている。それでも、島を舟で
一周したときは、少年の頃と同じほどの心躍りを覚えた。

 三月で、大多府小学校は消える。
 過疎のために子どもの数が減り、学校が消えた地域・島などは、さらに過疎
を早めるという。
 大多府島が、閉校になった校舎を含めて活かしながら、島ぐるみで新たな取
り組みを始める春になることを、少し離れて暮らす私は願わずにおれない。


 【合併して、日生が備前市の一つの町になったことで、一年余りも『日生わ
 が町』の発行ができずにいた。
  あらためて、そして少し肩の力を抜いて、やはり『日生わが町』を書きつ
 づけたいと思った。
  不定期だが、あまり間を置かずに、日生を思う気持ちを書いてゆきたいと
 思う。】
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