
@新宿・紀伊國屋ホール
平成の東京のど真ん中にひとり立ちすくむ男は、ご存知、小沢昭一。
昭和4年生まれ、戦争を乗り越え、昭和を目いっぱい生きた男が自らの昭和史をつぶやき、往時の歌をうたう。「昭和の流行歌、童謡、唱歌に、ぼくは心を洗われ、元気をもらっています」
さて、流れくるピアノの調べ。小沢昭一、ハーモニカを手にのっそりと登場。

歯が痛い場合は目に針を刺します。目の痛みで歯の痛みを忘れます。
社会保険庁が年金をずさんにあつかう場合は、年金から後期高齢者医療保険の掛け金を天引きします。その痛みで年金問題を忘れます。
まろ味のある歌声による戦前・戦中の歌の数々。戦前といってもまだ消費文明がけっこう盛んで、芸者がレコードを吹き込んで人気歌手になる例が多く見られたという。中でも“美ち奴”は「あゝそれなのに」などで爆発的な人気を呼んだが(♪怒るのは怒るのはあったりまえでしょう〜〜ての。オラの親も歌ってた)日中戦争の戦局の拡大〜泥沼化〜太平洋戦争という時勢のさなか、彼女も色っぽい歌は禁じられ「軍国の母」などという悲壮な戦時歌謡を吹き込むようになる。
一部の軍部が独走したのではなく、国民が熱狂したからこそ軍国主義一色に染まってしまった。そうなると文化の発達度合いの高さや地域社会の密度の濃さも悪い方向へはたらく。新聞・ラジオが戦意を煽り、となり組などがそれを補完。欲しがりません勝つまでは。蒲田で育ち、釣りやメンコ遊び、芝居ごっこやハーモニカに熱中した小沢少年もその例にもれず、軍国少年として旧制中学から長崎県の海軍兵学校予科へ。
入隊のとき荷物検査でハーモニカが見つかり、上官に殴られ没収されてしまったが、その年のうちに敗戦。学校の物資を海苔巻きのように毛布でくるんだ大きな荷物を抱えて彼はすし詰めの汽車で東京へ向かう。
途中、広島駅付近の引込み線で、花火のような火がいくつも打ち上げられているのを目撃、異臭も漂う。それは原爆による死体を焼却しているのだった。
名古屋駅では、海軍将校が「上陸してくる米軍に切り込もう」と仲間を集めるのに加わらせられそうになるものの「便所に行ってきます」と言って中央本線に乗り込み間一髪セーフ。彼らはほんとうに突撃して機銃掃射で全員殺されてしまった。若き小沢さんの運命の分かれ目であったが、そのときに分身のようなハーモニカを入れた米袋をなくしてしまった。
命からがら戻ってきた東京は焼け野原。母親は崩れ落ちた家の下敷きになってもたくましく生き延びたものの、病気がちだった父親はムシロの上で息絶えた。
さまざまな代償と引き替えに手にした平和。小沢さんは♪ハーモニカが欲しかったんだよう〜〜と自作した「ハーモニカブルース」を歌う……
今年75歳になる伯父(オラの幡ヶ谷の実家を“カプセル”と評した)と見ました。メシも食って戦中戦後の興味深い実話もいろいろと伺いましたが、ここで受け売りみたいにして書くのははばかられる。
自分が生まれてないですから、体験してないことはなかなか書きづらい。といって小沢さんのステージの模様は書いてしまったんだけど。体験したことを書くのにおいて、先人の教訓として消化したうえで間接に反映させていくことができたら、と考えている。









