和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

お弟子。

2013-09-24 | 短文紹介
河上徹太郎著「史伝と文芸批評」(作品社)に
「私の中の日本人 福原麟太郎」という7頁ほどの文があり、
そこに、こんな箇所があります。
「こんな先生は今の時勢では出ないかも知れない。芝居を作るのが作者や役者ではなく観衆であるやうに、先生を作るのはお弟子である。今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。」(p184)

「先生を作るのはお弟子である」という。
うん。それならば、いまの時代に、
そのお弟子にあたるのは、いったいどこにいるのか?
という、問題提起。
ひょっとすると、それは編集者かもしれない。


さきに磯田道史の書評による「吉村昭が伝えたかったこと」を紹介しました。
そういえば、「編集者 齋藤十一」(冬花社)に吉村昭氏が登場する箇所があります。
たとえば、田邉孝治「こわい人だった」からすこし引用してみます。

「齋藤さんは当世風の言葉でいうと、露出することを極端に嫌った。そのせいかどうか、いわゆる文壇づき合いは一切なし、文士との交際も最小限にとどめていた。
編集の企画は全部自分一人で立てていたが、当時の風潮に流されることなく、保守的だったと言ってよかろう。手元に当時の雑誌がないので記憶で書くが、その頃の流行だった進歩派と目される人はほとんど起用されていない。左翼は勿論だが、『近代文学』系の人たち、また『マチネ・ポエティク』系も登場しない。その代り、文芸雑誌としては少々毛色の変った、塩尻公明とか瀧川政次郎なんて人たちが執筆している。わたしが入った昭和25年の9月号新潮から、村松梢風氏の『近代作家伝』の連載が始った。・・・当時誰も気づかなかった村松梢風という作家を見込んで思い切った起用をするところに、齋藤さんの炯眼(けいがん)がある。・・・」

「昭和41年(1966年)9月号に、吉村昭氏の『戦艦武蔵』420枚が一挙掲載された。失礼ながら当時はまだ同人雑誌作家クラスと目されていた吉村さんに対し、実に破格の大胆な起用であった。これも齋藤さんが、或る小さな業界パンフレットに連載されていた吉村さんの『戦艦武蔵取材日記』というエッセイを読んで決断した企画だった。齋藤さんは机の上に、送られてくる同人雑誌をはじめさまざまな印刷物を積み上げて、猛烈なスピードで片ッ端から読んでいた。その中から数多くの企画が生まれたのであろう。」(~p58)

うん。それにしても、
「先生を作るのはお弟子である」という
その「お弟子」にあたるのは、現在では、
どなたになるのでしょうね。


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