うなぎの与三郎商店

目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、教育・古典・語学・芸能など。タイトルは落語「うなぎ屋」より。

ヤジと体罰と高齢ドライバー

2016-10-29 23:15:01 | 随想 社会・文化私論
【ヤジと体罰と高齢ドライバー】

《高齢ドライバーの自動車🚗事故と免許取り上げについて》

 登校中の小学生の列に軽自動車が突っ込み、児童ひとりが死亡する事故があった〔注1〕。報道によると、運転していた87歳の男性は前日の朝に軽トラックで出かけたきり、「どこを走ったのか覚えていない」と話しているという。記事には認知症の疑いも示唆されている。

 元気な高齢者を語る定型として、◯歳になっても車やバイクでアクティブに動いている、というのがある。いや、あった。90歳を超えてなお大型バイクに乗っている、という美談に驚き、みんなで長寿を祝福する光景に私自身見覚えがないわけではない。しかし、それも今となってはドン引きと怒りのネタにしかならない。

 この急転回に似ているのが飲酒運転である。そう遠くない昔、テレビ番組改編期恒例の警察密着モノでは、飲酒検問中の警官と酔っ払いとのチン問答が放映されていた。今から思えば、あれは笑う場面ではなく怒る場面である。

 また以前、雑誌「鶏鳴」をpdfで読んだとき、ルポライターの星徹さんが反原発運動のさなかに出くわしたヤジについて書いていた。それを読んで私は、「ヤジというのは一昔前の飲酒運転、現在の体罰に似ている」「時代が変われば、あんなもの、こんなものにわずかでも正当性を認めていたのが、恐ろしく馬鹿げたことであると考えられるようになる」と思った〔注2〕。

 そんなヤジも体罰も飲酒運転も、そして高齢ドライバーも確実に「あんなもの、こんなもの」になりつつある、あるいは既になっている。ただ、高齢ドライバーについては、私の両親や義父母のことを考えてしまう。日々の買い物や病院通い等々の手段として車やバイクを使う。多様な在り方の高齢ドライバーを一括して「あんなもの、こんなもの」に認定するとき、何かを見落とし間違いを犯している気になる。自動車🚗やバイク🏍を単体で議論し、高齢者から一律に取り上げるのは、◯◯も△△も一緒くたである。

 話は変わるが、一昨日の午後10時半頃、自宅最寄駅で電車を降り、静まり返った駅前通りを歩いていたら、小さな横断歩道を渡ったところで背後に急ブレーキの音を聞いた。振り返ると、私の後ろ10メートルほどのところを歩いていた女性2人男性1人の3人組に、右折の軽自動車がぶつかっていた。とっさのブレーキのおかげだろう、女性ひとりが軽く飛ばされ路面に倒れたものの、すぐに起き上がった。片手にはスマホの画面が光っている。

 運転手は若いサラリーマン。営業車両なのか、車の側面には会社名が記されている。信号が変わり、停車中に一部始終を見ていたと思しき車がゆっくりと近づいてきて、事故現場の脇に止まった。出て来たのは年の頃30代半ばの男性。こちらも白い普通車のボディに会社名が記されている。車を路上に放置して被害女性に謝ってばかりのサラリーマンに向かって「(車を)路肩に寄せなよ」と静かに声をかける。そして3人組とサラリーマンの間に入って事故後の段取りを話し始めた。

 話を戻す。車やバイクは生活の網の目の部品である。会社の営業用もあれば高齢者の生命線(ライフライン)もある。高齢者の運転を厳しく取り締まるか、case-by-caseで共存するか。取締り・共存のいずれにしてもその実態はさらにバラエティに富む。

 事実(ファクト)と議事録に基づく議論がヤジの無意味さを明らかにするように、またコーチングとカウンセリングに基づく応対が体罰の無意味さを明らかにするように、高齢ドライバーに対しても、車やバイクを「解毒」する仕組みや方法があるはずだ。それは時に、飲酒運転並みに単純な禁止で済む場合もあれば、生活水準を維持するための代替措置が必須の場合もある。

 少なくとも「高齢者が自家用車を運転しなくても買い物や病院通いができる」水準を維持できる代替措置——つまり公共サービスがなければ、"ギリギリ"までハンドルを握る高齢者が絶えないだろう。


1.「走った道『覚えてない』 87歳逮捕 横浜・通学の小1死亡」朝日新聞2016-10-29朝刊14版。
2.「下ノ畑ニ居リマス」2014-07-16
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