うなぎの与三郎商店

目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、教育・古典・語学・芸能など。タイトルは落語「うなぎ屋」より。

いつまでも青い底抜け

2016-12-31 21:00:00 | 随想 職業としての予備校講師
【いつまでも青い底抜け】

《何でも知っているつもりで何も知らないままの仕事について》

 少し前のことになるが、教員採用試験の予備校の受験ガイドブック(全国版)に適性検査の解説を書いた。依頼は編集部の公務員試験のセクションから。公務員の担当者とは初対面である、といってもメール上の話。10年以上「付き合い」のある教採担当者(複数)ともメールでのやり取りのみ。会うことはおろか、声を聞いたこともない。相手が男性か女性かも曖昧である。

 執筆に当たって適性検査に関する資料を読み直し、現物もしくは現物に準じるものを確認してから、読者(受験者)の視点に立った内容と構成を考える。原稿には必要最低限の事実を説明したあと、簡単なコメントを記す。このとき、引用・参考資料の編著者による「判断」「評価」と、どんな解説においても踏まえなければならない「事実」を分けることに神経を使う。他人の「判断」「評価」を断りもなく我がことのように語るのは詐欺である。

 解説執筆に限らず授業その他においても、私の仕事は所詮というべきか、恐れ多くもというべきか、「媒介」である。「媒介」人(にん)は最先端の研究から排除されている。また、最先端の研究成果を享受することからも排除されている。

 だから専門家がまれに一般へ向けて発信する限られた情報をていねいに後追いしなければならない。既に周回遅れになっているかもしれない知識・情報であっても、後追いの労を惜しんではならない。自分が何ごとかの発信源であると勘違いした時点で、「媒介」の仕事は驚くほど質が落ち、堕落する。

 自分の原稿とは別に、他の執筆者の原稿にも校正の朱筆を入れた。自分と他人、あるいは他の執筆者同士を比較しながら思ったのは、言葉にしにくいけれど、質の凸凹である。「専門家」の専門家たる所以は、特大ホームランや目にも鮮やかなファインプレーより、「底抜け」しない手堅さにある、たぶん。ディレッタントの予備校講師は、いや私は、その「底抜け」をつい、もしくは案の定やってしまう。

 何でも知っているつもりで何も知らない仕事。ときどき、十数年もうろうろしながら相変わらずのディレッタントに嫌気が差して、一点突破の専門教育に強く惹かれる。2、3年あればひとつのことがモノになるのなら、もう5、6件ほどをものにしていたに違いない——私が自己啓発系の人間だったらの話。

 だからときどき、負の意味で恐るべき「専門家」に出くわすと、ああ自分はこのままでよかったのだとホッとする。この世にはディレッタントの自己慰撫に都合のいいゲテモノ(専門家)がいる。アヘンのようだと思いながらゲテモノの振り見て我が振りを直す。

 人の上に立つでなし、後進に道を譲るでなし。驚くほど変化のない1年だった。何か新しい出会いがあったようでありながら、記憶を辿るとそれは去年一昨年の話だったりする。ここまできたという感覚と、結局ここまでしかこれなかったという感覚と。来年もまったりとした「媒介」人、ディレッタント、予備校講師を貫けるよう、何ごとかに最終的な結論を出そうとする欲求に抗いながら「精進」する。
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