うなぎの与三郎商店

目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、教育・古典・語学・芸能など。タイトルは落語「うなぎ屋」より。

天空の「宮さん」

2016-10-28 23:00:00 | 随想 社会・文化私論
【天空の「宮さん」】

《天空にいた「宮さん」が、天空に留め置かれるいらだちとどのように折り合いをつけていたかを巡る走り書き》

 亡くなった三笠宮について、今朝の天声人語から〔抜粋〕——

▼将校たちが何かといえば、「これが大御心だ」と昭和天皇を持ち出すのが納得できなかった。「つきつめてみると、結局自分自身の『御心』だったわけですね」と、1994年に語った(「THIS IS 読売」)
▼戦後は開かれた皇室のあり方への発言もあった。地方へ行くと拍手や敬礼をされるが、「これでは少しも人間と人間の感情が流れてきません」と、52年の「婦人公論」で述べた。いつも大きく立派な椅子を出されるのも形式主義で迷惑だ
▼「御心」が勝手に語られ、まつりあげられた皇室が戦争の原動力になる。その危うさを誰よりも知っていた。現代史の証人がまた一人去った。〔注1 下線は引用者による。以下、同じ〕


 既に何度か引用している〔注2〕色川大吉のエッセーから、「友人」である三笠宮崇仁との親交を綴った一節――

 遺跡の発掘をしていたとき、地主が出てきて、もう掘らせないと頑張る、やむなく発掘は中断された。みんなはスコップをもったまま途方にくれていた。わたしはまた宮さんに電話し、事情を話してお願いした。他の用事もあったろうに、二時間ほどして車で急行してくれた。
 地主はびっくり仰天、真夏なのに正装に着替えて出てきて最敬礼。頼みもしないのに、檜の風呂を沸かし、みんなを接待するという豹変ぶりだった。わたしはおかしかったが、内心、これはやってはならない禁じ手だなと、自責した。日本国民の弱点、「精神構造としての天皇制」、権威への奴隷制をきびしく批判してきた人間が、それを逆利用するなど、言語道断ではないかと。〔注3〕


 どのような社会・集団・組織・機構も何らかの過剰な様式美を持ち、構成員には通過儀礼としてその様式美との一体化を要求する。それは構成員の生活を保障してくれると同時に、構成員ひとりひとりが個別に培っている/培ってきた「意味の追求」を一定程度、あるいはほとんど放棄させることでもある。

 もし「意味の追求」を素直にやめることができず、いつまでも社会・集団・組織・機構の様式美に違和を覚え異議を唱えるなら、その人は不幸な人生を送ることになる。手前勝手な「御心」を捏造したり、拍手・敬礼に恍惚となったり、真夏に正装で最敬礼したり、檜の風呂を沸かしたり——そんな「同胞」を前に何ら違和感を抱くことなく同一化できる人間でなければ、この社会では間違いなく不幸になる。

 私は時々、自分の吹いた駄法螺をむやみやたらとありがたがる無辜の民の姿を想像することがある。その姿を天空から眺めながら、自分自身は古今東西の古典を堪能し、学を追求していく——傲慢きわまりない妄想であることはわかっている。しかし、どうしてもこの空想に抗うことができない。

 一方、その空想・妄想を昇華させる手立てがないわけではない。『徒然草』の一節——

 蟻(あり)のごとくに集まりて、東西に急(いそ)ぎ、南北に走(わし)る。高きあり、賤(いやし)きあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕(ゆふべ)に寝(い)ねて、朝(あした)に起く。いとなむところ何事ぞや。生(しやう)をむさぼり、利を求(もと)めて止(や)むときなし。
 身を養ひて何事をか待つ。期(ご)するところ、ただ老(おい)と死とにあり。その来(きた)る事速(すみや)かにして、念々の間に止(とど)まらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑(まど)へるものはこれを恐れず。名利(みやうり)に溺(おぼ)れて先途(せんど)の近き事をかへりみねばなり。愚(おろ)かなる人は、またこれを悲しぶ。常住(じやうぢゆう)ならんをことを思ひて、変化(へんげ)の理(ことわり)を知らねばなり
〔訳=蟻のように群集し、四方に走り去る。そのような人の中には、身分の高い者もいれば、低い者もいる。年老いた者もおり、若い者もいる。それぞれ、行く所と帰る家を持っている。日が暮れれば寝、朝になると起きる。このような生の営みは、何事だろうか。長命を願い、利益を求めてとどまることがない。
 わが身をたいせつにして何事を待つのか。待ち受けるのは、ただ老いと死とだけである。その到来は速やかであって、それまでの過程は一瞬といえどもとどまることがない。これを待つまでの間に何の楽しみがあろうか。迷いの中にある者は老いや死を恐れない。名利(みょうり)に目がくらみ、人生の終焉(しゅうえん)の近いことをかえりみないからである。また、愚(おろ)かな者はそれを悲しむ。いたずらに、わが身の変わらないことを願って、万物が変化するという道理を知らないからである〕〔注4〕


 編訳者(三木)は、冒頭の一文が「単なる比喩をこえて、読む者を俯瞰的視点に立たせる」「この世に生きる人間たちが忙しなく右往左往するさまが超越的視野の中に、よく映し出されている」としつつ、兼好法師が「高所からのながめに格別とらわれることなく、人々の生のあり方を見、彼らを支配する無常の原理に言及し、自覚的な生き方を言外にすすめて筆を置いている」と解説している〔注5〕。そこには"天空の視点"の傲慢さを昇華し、蟻の如き人生に寄り添う姿勢がなきにしもあらず。それは同時に、そのようなことを口走り、書き綴っている兼好自身の在り方の省察となっている……と思う。何様だよ、お前は、と。

 天声人語や色川大吉のエッセーからうかがえるエピソードもさることながら、「宮さん」のいらだち——天空に留め置かれ、「形式主義で迷惑」な接待の無間地獄を強要された人生の到達点、着地点は結局、どこ・何だったのだろう。頼まれもしないのに寄ってくるハエの多さ、己と外界のギャップに対して、どのように折り合いを付けたのだったか。それが歴史研究であり、オリエントだったのか。


1.「(天声人語)三笠宮さま逝去」朝日新聞2016-10-28朝刊14版。
2.「禁じられた水戸黄門」2014-02-05「タチの悪い流れ」2016-07-14
3.色川大吉『色川大吉歴史論集 近代の光と闇』日本経済評論社、2013年、244頁。
4.「徒然草」第74段、『徒然草(二)—全四巻—』全訳注・三木紀人、講談社(講談社学術文庫)、1982年、145-146頁。
5.同前、148頁。

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