うなぎの与三郎商店

目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、教育・古典・語学・芸能など。タイトルは落語「うなぎ屋」より。

迂闊な威嚇

2017-08-09 23:00:00 | 随想 職業としての予備校講師
【迂闊な威嚇】

《企業研修を巡る労災記事を読んで考えたこと》

 教採対策の教育心理の授業(講義)ノートを書きためて十数年になる。心理は教職教養の一環であり、他にも法規や原理、歴史、時事等々も担当する。心理だけに関わっているわけではない。しかし、教育心理並びにそれに派生してかじった臨床心理は、精神疾患や発達障害に関する知見が私のものの見方、考え方、児童生徒観、教育観を地殻変動させるほど変えた分野である。

 なぜ学生時代にもっと勉強しなかったのだろう、なぜこの知識をリアルなものとして感じることができなかったのか。もちろん、他の領域にもそれなりの感慨はあったが、心理分野については自分の知識の浅さ、感性の鈍さを痛烈に後悔しながらのノートづくりだった。

 一時期、カウンセラーや臨床心理士といった資格を取得した方が後々役立つのではないかと「色気」を出したこともある。腹をくくってひとつの分野を極めれば、その他の分野の勉強に「トリクルダウン」が起こる。そのことを私は、大学のキャンパス及びその周辺で無駄に費やした二十代の日々の中からそれとなく学んだ。見方を変えれば、腹をくくった分野がひとつもない人間は平べったいディレッタントにしかなれない。ある境界線以上には絶対に行けない。

 だから、心理に関するちょっとした知識や情報であっても、それを直ちに意義あるものとして消化吸収できる知的体質を育むには、絶対に突き抜けたものをひとつ以上持つ必要がある。学術研究者や専門家ではない私にできることは、その目安のひとつとして「資格」という指標を活用するのが有効だ——そんなことを考えていた。

 数年の歳月、数十万円のお金さえ投資すれば、数十年及び数百万円の至福が保障されるはず。しかし、幸か不幸か日々の雑事にとりまぎれて、ということはそれなりに仕事が途切れることなく続いてということになるが、私にはその数年、数十万円を投資する手間暇と意欲がなかった。だから相変わらずディレッタントのままである。それが案外うまくいくから、この業界はディレッタントの王国なのだろうと考える。

 「専門家」にとっては片手間の雑務(アルバイト)に過ぎない業界であり、「専門家」崩れにとっては一抹の屈辱と苦杯なしには語れない業界である。そして、どっぷりと浸かった人間にとってはディレッタントを拗らせ、あらぬ方向へ「定向進化」させる養分に満ちた業界である。

 今朝の新聞を見ていたら、教育産業の一端を担うディレッタントが「芳香感」満載の行動原理を発露したと思われる(表現が回りくどい……)記事があった。

新人研修で自殺、労災認定 両親、ゼリア新薬を提訴
 ゼリア新薬工業(東京)の新入社員だった男性(当時22)が新人研修中に自殺し、労災認定されていたことがわかった。男性の両親は8日、ゼリア社と研修の一部を受託したビジネスグランドワークス社(東京)、同社に所属していた講師を相手取り計約1億500万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。男性の父親らが同日、会見して明らかにした。労災認定は2015年5月19日付。

 遺族側の代理人弁護士によると、男性は13年4月1日にゼリア社にMR(医薬情報担当者)として入社。新人研修中の同年5月18日に自殺した。中央労働基準監督署(東京)は、男性が5月上旬に精神疾患を発症していたと認定。ビジネス社が担当していた4月10~12日の研修で、講師に意に沿わない告白を強要されたことなどの強い心理的負荷が自殺の原因だったとして、労災と認めた。

 男性が書いた研修報告書には、「何バカなことを考えているの」「いつまで天狗(てんぐ)やっている」「目を覚ませ」などの講師のコメントが書かれていたという

 ゼリア社は「訴状を受け取っていないのでコメントは差し控える」、ビジネス社は「当社の研修に落ち度はなかった」としている。(堀内京子)〔朝日新聞2017-08-09朝刊13版社会面 下線は引用者による〕


 この事例は、民間企業であり、採用後の研修という点で、公務員であり、採用前の試験対策に従事する私の仕事とは少し異なる。ただ、この1年あまり、企業研修の論文・レポート添削の仕事も請け負うようになって、記事に出て来る研修請負業者や担当講師のこと、その理念、価値観、方針、「生態」といったものをそれなりに実感できるようになったと思っている。……心もとない自負だが。

 そして真っ先に考えるのが、業者も講師も「やっちまったな」ということ。企業研修の世界では相変わらず厳密な検証を経ない知見や技法がまかり通り、結果オーライで「定向進化」しているのかも知れないという疑いを持った。

 裁判のゆくえについて、司法に携わる人間にはある程度見えているかも知れない。しかし、素人目には未知数だ。また、会社(ゼリア社)は「コメントは差し控える」と言う前に何か別に言うべきことがあるだろうと思う。これも素人目だろうか。裁判戦略を優先したコメントならぬ「コメント」が、裁判に臨む企業の姿勢を物語っている。

 一方、直ちに「落ち度はなかった」と回答できる受託業者(ビジネス社)の知性・感性にも思うところが多々ある。"激烈"なコメントを書いた講師の、書いたその瞬間の心理と「病理」、朱筆(恐らく赤ペンで記入したことだろう)の筆圧・筆跡、息づかいまで想像できないこともない。

 現段階で私が言えるのは、学校教育や児童福祉の領域において根深い体罰問題、虐待問題が、そのまま企業ひいては社会においても継続していること。その基礎基本の知見さえ共有されていない可能性があること。むしろそういった社会の知性と感性、価値観、技能が学校教育・児童福祉の領域に逆流していること。体罰も虐待もいわば社会の鏡であり縮図であること。そういった、あきれるほど初歩的なことばかりである。

 この「あきれるほど初歩的なこと」を突き抜け、一気に事の本質を見抜くのが、特定分野を極めることによって育まれた知性なのだろう。記事中の「講師」と同類のニオイを自覚し、警戒している一介の予備校講師としては、亡くなった男性や遺族と自分を一体化し、手前勝手な義憤を晴らしている場合ではない。他山の石以て玉を攻むべし。絶対に看過するわけにはいかない記事であり、裁判である。
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