うなぎの与三郎商店

目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、教育・古典・語学・芸能など。タイトルは落語「うなぎ屋」より。

ニワトリの遠吠え〜周縁的メンタリティの時代〜

2017-06-12 23:00:00 | 随想 社会・文化私論
【ニワトリの遠吠え〜周縁的メンタリティの時代〜】

《本質(=意味)よりもはぐらかしと戯れとパロディ(=刺激・衝撃)を求め、フェイクで換喩的なものを積極的に志向する心的傾向(周縁的メンタリティ)に関する考察。〔2014-04-15追記〕「劇薬のニーズ~ヤンキー療法の現在 その3」2013-01-09の内容を一部修正・改題。〔2017-06-12追記〕「周縁的メンタリティの時代」2013-01-09(2014-04-15改題)を加筆修正し、タイトルを変更》

 ヤンキー文化の特質はフェイクにある。ヤンキーはフェイクの空虚をノリと気合いで埋め、フェイクに同一化する。

 ヤンキーは本質が嫌いである。多義性、論理性を嫌い、軽んじ、嘲笑う。ノリも気合いもアゲアゲも「いま」「ここ」がすべてである。

 斎藤環によると、ヤンキー文化には「換喩性」があるという〔注1〕。「現象」のリーゼントや特攻服、真っ赤な口紅、細くはね上がったマユなどがいつの間にか、いや、いつでも「本質」にすり替わる。「なぜ」「何のために」という問いかけを一切無視し、ひたすら自己目的化に走る。どうやら物事を深く考え、構造化するのはあまり好きではない、得意ではないらしい。

 おもしろいのは、そんな浅薄な「本質」であるにもかかわらず、執着心だけは尋常でないこと。例えば、シンボルへの異常な執着。昨日今日でっち上げたフェイクに過ぎないシンボルと節操なく一体化する。シンボルを冒瀆されたと思い込んでは命懸けで反撃する。たかがゲスのプライド、たかが仲間内のお約束ごと——その程度のシンボルなのに、侮辱されたと感知するや否や生死をかけた「決闘」を平然とやってのける。

 かと思うと、あっさりと乗り移るのもヤンキーである。そんなことしたら「決闘」で死んだ仲間に失礼ではないか。大義に殉じた仲間が犬死にじゃないか。しかし、そこはあまりこだわらなくてもいいらしい。

 そういえば、仲間がバイクで死んだ、とってもいいヤツだった、ガードレールに花そえて「青春アバヨ」と泣いたのさ、そんな歌があったっけ。感想を言うのもめんどうだが、ひとこと——気が済んだか?

 何ひとつ本質と関わろうとせず、事柄ばかりが先走っていくツルツルしたヤンキー。一種の身体的・心理的な多動である。

 さて、この壮大な空虚さ、周縁性、多動性は、別にヤンキーに限ったことではない。同じく斎藤環に言わせると、例えば伊勢神宮―天皇制には本質というものが存在しない〔注2〕。本質が存在しないにもかかわらず、いや、むしろ存在しないからこそ、箍の外れた神秘のオーラが暴走する。

 本質(=意味)よりもはぐらかしと戯れとパロディ(=刺激・衝撃)を求め、フェイクで周縁的で換喩的なものをありがたがる心的傾向を「周縁的メンタリティ」とでも呼んでおこう。このメンタリティはヤンキーだけでなくオタクやガリ勉、ハイアマチュア、小市民等々にも見られる。

 「周縁的メンタリティ」の持ち主は本質論争ができない。そもそも言語コードが閉鎖的だから議論など以ての外。だからフェイクの通用しない事態に直面すると言葉以外のもの、つまり有形力(暴力)に依存する。かといって実際に有形力を効果的に使える者は少ない。そもそも持ち合わせてもいない。何しろ周縁のマイノリティだから。

 そこであっと驚く裏技を使う。子犬のような身軽さで乗り移りをやってのける。つまり中核の権力者と結託する。権力者の有形力(暴力)を賛美し、その行使を熱烈に支持する。周縁からど真ん中への華麗なるジャンプである。そのカタルシスたるや、並のドラッグで体験できるものではない。

 中には本当に権力者になる者もいる。ラッキーマンか、それとも周縁キャラを演じていただけか。ともかく、権力者に転じたラッキーヤンキーの言語コードが閉鎖的なら鬼に金棒である。金棒の前では、暴政に異議申し立てをする無辜の民の正論などひとたまりもない。

 かくして、本質はヘタレでありながらヤンキー風を吹かせ、決して自ら手を汚すことなく、巧妙に中核(権力者)と自己同一化する狡いメンタリティがある。いつの間にか権力者になり、下々の民草の議論封じに邁進するメンタリティがある。

 そんなことを考えていたら、数年前に朝日新聞で目にした柳井正の不思議なエッセーのことを思い出した。学生運動に距離を置いていたこと、村上春樹と同じキャンパスにいたことをオチの見えないまま書き綴った趣旨不明の文章である。

 僕は〔ストライキに〕一度も行かなかった。大学近くの雀荘にたむろするか、下宿でジャズを聴いていた。さっぱり共感できなかったからだ。彼らは大仰な言葉を、声高に、呪文のように繰り返す。驚くほど誰もが、同じ主張だった。それはちょうど今の中国のデモに似ている。しかも世の中の、普通に働く人たちのことなど本当に考えているとは思えない、甘えた机上の空論ばかりだった。同じ年で、僕と同じ早稲田大学にいたという村上さんも、学生運動の熱狂には距離をおいていたと聞く。〔注3〕


 ご立派な「周縁性」である。筆者はさぞかし頭のいい学生だったことだろう。即座に村上春樹を引っ張ってくるところは、権威に弱く、権力を志向するメンタリティの問わず語りである。立派な権力者となった現在は、専ら下々の民草の議論封じに絶大な威力を発揮していることだろう。

 この人は周縁から一気に中核ジャンプできた幸運な一群のひとりである。自分に嘘をつかずに済む点で、相変わらず周縁で燻り、権威・権力とのフェイクな一体化に余念のない元ヤンよりはるかにストレスフリーな人生である。


1.斎藤環著『世界が土曜の夜の夢なら――ヤンキーと精神分析』角川書店、2012年、205-206頁。
2.同前、233頁。
3.「柳井正の希望を持とう 『村上春樹』に共感」朝日新聞2010-11-27朝刊。学生運動に関する「周縁話」の狡猾さについては、「ブヨ――ハエ目ブユ科の昆虫の総称」2013-10-25でも言及した。

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*一部タイトル変更あり。
「劇薬のニーズ~ヤンキー療法の現在 その1」2013-01-02
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