うなぎの与三郎商店

目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず、教育・古典・語学・芸能など。タイトルは落語「うなぎ屋」より。

情念の海

2016-10-14 23:00:00 | 随想 社会・文化私論
【情念の海】

《通勤中に閲覧している国会審議アーカイブから考えた理屈と情念のことなど》

 時々、通勤・帰宅の電車の時間を衆参両院の審議中継(アーカイブ)で潰している。YouTube上には動画の断片に字幕をつけたものもある。私的な作業であり、理解の手助けになるものから噴飯物までピンキリ。最初の頃はこうしたサイト(動画)も見ていた。今は専ら衆参インターネットTVのアーカイブのみ。

 安保法制を巡って首相・閣僚からしばしば「日米同盟」という言葉が出てくる。「日英」なら歴史の時間に学習した。「日米」はあまり馴染みがない。特にこだわらなければ「日米安保」のことだろうと勝手に変換するが、ときどここだわってしまう。

 『安保法制の何が問題か』を読んでいたら、「同盟」の話が出てきた。

同盟政策と安全保障政策とでは、規範論理的な構造が全く違います。簡単に言えば、敵を想定するか、しないかの問題です。〔中略〕日本国憲法が想定するのは、安全保障、それも集団安全保障の体制でしょう。〔中略〕集団安全保障は、特定の仮想敵をつくらないで安全保障の体系をつくり、乱す者がいたら全員でそれをつぶすという考え方です。これは〔中略〕同盟政策の排除を意味しています。〔中略〕〔集団的自衛権は〕同盟政策の末裔であり、本来の(個別的)自衛権とは論理構造を全くことにする異物です。〔注1 下線は引用者による。以下同じ〕

二国間の安全保障は容易に同盟に転化しうる性質があることは、早くから指摘されていたところです。実際、日米安保条約も次第に同盟に転化していったのは、紛れもない事実。でもそれが、同盟条約ではなく「安全保障」条約であることの最後の一線は、日本側が集団的自衛権を行使しないという選択に示されていました。クビの皮一枚であれ、9条につながっていたわけです。〔注2〕


 何だよ、日米安保は「日米同盟」じゃないじゃん(怒)。

 同盟と安保の違いもさることながら、このインタビュー記事を読み進めていると、法学と政治のギャップに言及した一節が目にとまった。天皇機関説を題材に学問と政治の対立を述べたくだり——

天皇機関説とは、国家法人説という法学的な国家論の別名です。法学的に国家を考えたら、国家は法人というカテゴリーで捉えられるのが普通です。法人には機関がなければならず、機関どうしの権限争いを収めるために、最終的な法人の意思を決める最高機関を定款で定めておかねばならないのは、ほとんど論理必然的な要請です。大日本帝国において天皇が最高機関だというのは、法学的には自明の結論でした
 しかし、徹底した法学的な合理主義・知性主義をとる美濃部達吉の立憲主義憲法学では、大衆の情熱と献身を国家に調達することができません。天皇機関説が描き出す無色透明の国家公共では、結果的には15年の長きにわたった戦争の時代を、乗り切る力が出てこない。〔注3〕

やはり何らかの基本的な価値を注入したり、国旗・国家などの儀礼によって演出したりした方が「公共」は強くなります。〔中略〕戦後体制に対するイデオロギー的ないし心情的な反発から昔の日本の「公共」空間(安倍首相のいう「美しい国」)を再現したい人たち、あるいは安全保障環境の悪化に伴って日本をもっと強い国にしたい人たちが、今のようなひ弱な「公共」ではいけないと考えるわけです。表現の自由だけに支えられた、世界観的に中立な「公共」には命は懸けられないですからね。〔注4〕


 大日本国憲法を「立憲主義の側」でなく「国体思想の観点」から読み、学説を糾弾し、反知性主義・ポピュリズムを煽りつつ最終的に葬った結末は、「亡国」である。「人は理屈じゃ動かないんだよ」とは寅次郎の言葉〔注5〕。それを私人の領域で口にするときは一面にとどまらない真理がある。しかし、それを新しい「公共」、強い「公共」の演出を目論む政治が口にするとき、驚くほど稚拙な理屈と強固なムーブメントを生み出す。

 国会中継にも政治の世界にも、そしてもちろん教育の世界にも、何かと命を懸けたがるイノシシ、それを他人にも強要するイノシシ、それなのにフタを開けてみたら自分だけちゃっかり生き残っているイノシシの煽動が熾烈である。理屈を情の泥沼に引きずり込んでうやむや、台なしにしている。(ここでいう「イノシシ」は、特定の生物種のことではなく特定の知性のことである。念のため)

 国会に限って言うと、ファクトで攻める質問を一般論でいなしたり、事前通告がないことに噛みつきながら質問によっては手ぶらのまま嬉々と答弁したり、些細なことで実質的な答弁を中断し、感情を露わにおだをあげたりする人間がいる。その姿を見ると「コレはいったい何なんだ?」と思うことがしばしば。「コレ」が理屈をドブに捨て、大衆の情熱と献身を取り付ける基本手順であることを考えると、笑うわけにもいかない。

 「コレ」の主宰者個人(ゲリざる。なお、ここでいう「ゲリ」や「さる」は、特定の身体疾患・症状や生物種のことではなく、特定の知的傾向(知性)のことである。念のため)を揶揄したところでブタのエサにもならない。「コレ」の背後にいる、背後にあるものに目が行かなければ、いつまでも近視眼の反応・対応で消耗する/させられるばかりである。

 それが何なのか。いま何が起こっているのか、何が進行しているのか。それを最もよく理解・把握できる視点・観点は何か。実はよくわからない。

 それは少なくとも「ビジネス」ではない。「ビジネス」は安保法制の再編をきっかけに新たな状況によりよく適合していくための道、例えば防衛関係の取引を防衛省の御用聞きレベルからワールドワイドのビジネス(国際共同開発)へと転換する道を探っているようである〔注7〕。このような視点・観点は「適合」「適応」に長けても、状況そのものへのラジカルな問いかけには向かない。

10年ぐらいのスパンで見ないと変化は実感できないかもしれませんが、大きな節目がやってきています。もし、安保関連法案が強行採決されれば、昨年7月1日で「戦後」は終わっていた、ということがやがて明らかになると思います。〔注8〕


 安保関連法案が「採決」されて1年。「戦闘」を「衝突」に変えるマジック〔注9〕をはじめ、日本国憲法体制の基本理念・原理に対する相変わらずの攻勢が続く。改憲の政治目標の実現へ向けて、24時間365日、休むことなく考え、行動し続ける不撓不屈の精神である。憲法のことなど稀にしか思い致すことのない私は、心してかからなければ、理屈から情念の海へあっけなく転落する。

 その転落の防波堤・防護柵になるのは何か。憲法学か、行政学か、あるいは文学か、はたまたお笑いか。ただひとつ言えるのは、教育学でないのは確実である。


1.石川健治「『非立憲』政権によるクーデターが起きた」、長谷部恭男・杉田敦編『安保法制の何が問題か』岩波書店、2015年、224頁。
2.同前、225頁。
3.同前、227頁。
4.同前、228頁。
5.「博と寅さん、さくらをめぐって口論する(第1作『男はつらいよ』より)」、CD「松竹映画サウンドメモリアル 男はつらいよ 『それを言っちゃあおしまいよ!』寅さん発言集」VAP、1996年、参照。
6.石川、前掲記事、227頁。
7.「日本の防衛産業の今 政策転換を機に"国際化"始まる」日経ビジネスデジタル版2016-09-26号、日経BP社。
8.石川、前掲記事、230頁。
9.「安倍首相『戦闘ではなく衝突』 ジュバの大規模戦闘」朝日新聞デジタル2016-10-11 13:37。
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