憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

教室が「戦場」という発想はキツいだろう

2012-08-05 19:13:18 | 学級経営論
 小学校教師の土作彰はその著書『若手教師のための力量アップ術』(日本標準、2008年)で次のように言う。
「晴れて教師になる。教壇に立つ。夢と希望で胸は一杯のはずである。
しかし、多くの場合、その夢と希望は、大きな絶望にとって代わられることになる。理由は簡単である。教育の専門家として必要な技術も思想も何ら身につけずに、教室たる「戦場」に送り込まれるからである。つまり丸腰なのである」
 そして、丸腰の若手は学級を崩壊させてしまうと「予言」し、次のようにまとめる。
「原因は教師が丸腰で戦場にノコノコ赴いたこと。これ以外にない」

 「教室」を「戦場」にたとえたのは、土作氏だけではなく他にもあったかもしれない。しかし、学級崩壊の憂き目にあうであろう若手教師を「丸腰」と言ったのは氏がはじめてではないか。よくぞ言ったものである。
 では、「丸腰」で「戦場」に向かい学級を崩壊させた若手教師の行く末はどうなるか。
 それは、「戦死」である。
 本当に、死んでしまう。「休職」や「退職」を通り越して、「自殺」である。(久富善之・佐藤博『新採教師はなぜ追いつめられたか』(高文研、2010年)には、教師1年目で自殺した3人の女性教師のルポがある)。であるから、土作氏の比喩はブラックジョークではなく、学校現場の厳然たる事実なのである。

 他方、教師のおかれた状況を「サバイバル」と称したのもいた。
 中学校教師の赤田圭亮は『サバイバル教師術』(時事通信社、1998年)で、荒れた現場での教師の奮闘を記録した。当時、教師になったばかりの私は、この著書のタイトルに惹かれた。そして、学級崩壊が全国あちこちで席巻をし始めていたあの当時、まさしく教師はサバイバル戦に突入したことを体感していた。

 さて、こうした状況は現在もかわらない。
 教室は「戦場」であり続けている。教師は「戦死」しないために、技術や思想の「武器」を身に付けるべく修行をする。あるいは「サバイバル」戦に生き残るために、日々スキルアップに励む。
 しかし、その「武器」とは何なのだろう。私には、その「武器」が教師の一生を保障する心強いアイテムとはとても思えない。どうにも機関銃のタマのような消耗品にしか思えない。
 つまり、教師の「武器」とて、常に補充が必要なものなのじゃあないか。あるいは、常にバージョンアップが必要なものではないのか。
 そうなると、教師は常に「武器」を調達し続けなくてはならなくなる。つまり、これからもずーっと、「戦場」で生き残るために、戦い続けなくてはならないのである。
 この私の主張は、現場の教師にわりと共有できるのではないかと思っている。
 事実、学級経営はいまや完全に守りの思想ではないか。気を抜かず、集団に眼を配る。一瞬のスキが自分の生命を危険にさらす。そんな感じである。
 最近の学級経営論である、堀裕嗣『学級経営10の原理・100の原則』(学事出版、2011年)も、主張は同じだ。この本を開いたいっちばん最初の小見出しはこうだ。「失敗が許されなくなった」。
 まさしく、この本は失敗しないための学級経営の思想に貫かれている。

 しかし、こうした現実はあまりにキツい。
 学校現場が「戦場」であるというのは、どこかで白旗が上がらない限り、戦いに終わりがないということなのだ。教師は「戦死」したくなければ、戦い続けなくてはいけないということだ。
 「サバイバル」と言えば、もっとわかりやすいだろう。現場は、生き残りをかけた戦いなのだ。「サバイバル」戦である以上、教師の誰かは必ず脱落をする。それは、自分かもしれないし、同僚かもしれない。そんな過酷な状況なのだ。
 教師は、脱落していった同志を横目で見つつも、自分は生き残るべく戦い続ける。日々「武器」を調達する。そして、自分の後から続く後輩の教師には、「丸腰」はヤバイぞ、「武器」を持て、とアドバイスをする。これが現況である。

 けれど、やはり、これはキツい。
 どんなに「武器」を持てとアドバイスしても、「戦死」する教師はなくならない。恐らく、アドバイスする側もわかっているはずである。一定数の教師が「戦死」することを。だって、「戦場」なのだから。
 私は、この状況はどうにもおかしいと思う。そもそも、教室の子どもにとって、自分たちの居場所が「戦場」扱いされている状況こそ不幸なことだろう。
 そろそろ教室を「戦場」とする思想はやめにできないか。
 そろそろ戦いから降りる手段を教師は提案してもいいのではないか。
 これが、今回の私の主張である。

 教師が戦いから降りるとは、どういうことか。
 それは学級づくり、集団づくりから降りる、ということだ。
 すなわち、ゆるやかな学級解体の提案である。
 それは、少人数学級でもいいし、複数担任制でもいいし、習熟度別編成でもいい。私は、小学校低学年は現在のような学級体制であるべきと思うが、学年が上がるにつれて、学級のしばりを緩やかにしていくような学習集団編成を模索するべきと思う。
 あるいは、学級以外の子ども集団を学校のなかで作るという発想も有効だろう。学年が上がるにつれて習熟度別学級や他学年との複式学級を取り入れるというのはどうか。中学校になれば、今以上にさまざまな集団でのコミュニティをつくるように編成するといいだろう。現在では、学級と部活動が生徒の主要なコミュニティとなっている。2つだけだけど、これでも小学校よりも、ずっといい。学級の居心地が悪くても、部活という別のコミュニティに居場所があることで救われている生徒は少なくないはずだ。私が言うのは、学級以外の部活動のようなコミュニティを意図的に作れないかということだ。習熟度や、小集団活動、あるいは縦割りの集団での体育芸術科目の学習もいいだろう。あるいは、現在学級単位で行っている、ホームルームや給食や清掃や特別活動を縦割りや小集団にするという発想もあるだろう。

 けれど、こうした提案はサバイバル戦の勝者からは出てくることはないだろう。だって、現況の戦いに勝った者なんだから。
 しかし、そういう強者にこそ、脱落しそうな同志を助ける提案をして欲しいと思うのだ。後輩に「武器」を配るだけではだめだ。なぜなら、「武器」を調達できなかった教師は「戦死」しか残されていないのだから。
 とはいうものの、どうにも、まだしばらくは「もう戦いはやめにしようぜ」という声は聞こえてきそうもないのが現状である。